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2017年からの世界 人類の未来 地球という場所の真実

悪は複数の多世界をも支配し、善の神は無力かもしれない…と量子論から導き出される結末は、「常にこの世は最悪の世界を目指す」ということ?

投稿日:2017年4月29日 更新日:

ロシアの報道メディアの社説的な記事


earth-chronicles.ru

最近、話題となっている話の中心に「核兵器」というものがあったりしますが、今日、ふと、あるツイッターへの記事で下の投稿を見ました。


The Spectator Index

「ああ、そういうのがあったなあ」と曖昧に思い出します。

それと共に子どもの頃から今に至るまで思い続けているひとつのことが鮮やかに蘇ります。

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限りなき戦い

上の「ツァーリ・ボンバ」という兵器は Wikipedia から説明をお借りして抜粋すれば、下のようなものです。

ツァーリ・ボンバ - Wikipedia

ツァーリ・ボンバは、ソ連が開発した人類史上最大の水素爆弾の通称である。

単一兵器としての威力は人類史上最大であり、1961年10月30日にノヴァヤゼムリャで、唯一の大気圏内核実験が行なわれ消費された。

TNT換算で99,000キロトン(約100メガトン)、実際の出力は後述のように、50メガトンに制限されたが、それでも広島型原子爆弾「リトルボーイ」の3,300倍(リトルボーイは15キロトン)に達する。

これは、広島に落とされた原爆の「 3300 倍の威力」を持ち、

> 爆風による人員殺傷範囲は23キロメートル、致命的な火傷を負う熱線の効果範囲は実に58キロメートルにも及んだ

というもので、まあ、要するに、こういうものがあったのです。

熱線破壊範囲が 58キロメートルとありますが、東京を中心にしますと、下のような広範な範囲です。

・Google Map

実際に戦争で使われれば、どうにもならない被害というか、お話にならないことになる兵器なわけではあります。

そして、これだけの被害を及ぼす爆弾の外見と大きさは下のようなもので、直径はたった「8メートル」です。

ツァーリ・ボンバの原寸大模型

・Tsar Bomba

それでまあ、1961年というと 56年前ですが、そういう時代にすでに「人類はこういうものを作ることができていた」のですね。

だったら、今なら「作ること自体はすぐにできる」ということにもなりそうです。

このようなものは、核実験の後、当事者のソ連でさえ二度と作らなかったそうなのですが、しかし、どこかの「こういうのが欲しい人や国」が、その国の技術者などから、

「こういうのも作ることができるようになりました (^_^)」

と言われれば、どうなんでしょうか。

たとえば、私が血も涙もない独裁者だったとすれば「作る」と思います。

 

まあ、しかし、言いたいのは、こういう途方もない兵器のことではなく、世の中のことです。最近の記事でも、「いがみ合って、喧嘩してばかりいる国と国、人と人」が目につく世の中ではあります。

新約聖書「マタイによる福音書」 24章 06節にあるような「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり」という日々。
それが何だかずっと続いている。

同時に、

「昔から自分の考えはそんなに変わってないな」

とも思います。

何のことかというと、基本的に、この世は「いつも悪が勝っている」と、おそらく幼稚園児くらいの頃から思っていた気がします。

そして、やはり、子ども心に、

「この世はどうして悪が勝っているんだろう」

とは、相当小さな時から思っていました。それは今も思っています。

56年前のツァーリ・ボンバの悪夢と、最近の北朝鮮系茶番劇を比べると、喜劇的な感じさえもしますが、それでも、それらにすべて通底してるのは、「悪」であり、やはり善ではありません。

「どちらかが悪い」というのは、言うだけならできることです。

たとえば、以前ならソ連を悪く言ったり、今なら北朝鮮を悪く言ったりするというのはありますけれど、それはそれでやはり現在こちらサイドの人間たちの「慣習に従うだけの疑うことない邪悪な悪」ではあるわけで(悪を規定すると、その悪を惨殺しても心が痛まなくなるというようなことも含めて)。

だったら、「喧嘩両成敗」という言葉の通りに両方成敗されればいい、という意見は当然どちらにも通りません

 

戦争が人類史に登場してから何千年かわからないですが、どれだけこの繰り返しをしているのだろうと、これもまた、ずっと昔から思っています。考えているうちに、小学生の頃にはそんなことに興味がなくなってしまいました。その後の十代は酒とバクチと(やめろ)。いずれにしても、いまだに「その繰り返しは続いている」と。

どうやら、この人間社会が描いてしまう「悪の方向」は、何らかの特性であるのかもしれないなあ……というように思うようにはなっていました。

そんな中で、少し前のことなのですが、わりといつも見ることのあるロシアのメディアの社説的なものの中に冒頭の記事があったのです。

 

悪は存在としての宿命なのか

この記事は、簡単にいうと、

「量子論でいう多世界(パラレルワールド)の解釈では、世の中は《必ず悪いほうに向かう》示唆がある」

という筆者の考え方の話です。

わかりやすい記事ではないのですが、ご紹介したいと思います。

記事は、量子論の話になり、とてもわかりにくいですが、中でも、量子論の有名な思考実験といわれる「シュレーディンガーの猫」というものが引用されていて、これは Wikipedia にも詳しく書かれていますが、普通はそれを読んでも、全然意味がわかりません。私も当然わかりません。以前から全然わかりません。

その中で、Yahoo! 知恵袋にあった「シュレディンガーの猫をわかりやすく説明してください」という質問に対しての答えが最も的確だと思いますので、抜粋しておきます。

Q:シュレディンガーの猫をわかりやすく説明してください

A: 猫が実際どうなっているかは、確認者が見なきゃ分からないということです。

ということで、これについては、過去記事、

「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
 2015/06/06

などもご参考になるかもしれません。

 

そういえば、2年くらい前に、イギリスのバンド、レッド・ツェッペリンの曲で、個人的に大好きな「限りなき戦い」(1971年)という歌についての記事、

音楽のある「世」に生まれて、何となくレッド・ツェッペリンの「限りなき戦い」に想いを馳せながらを「静寂の時代」を夢想してみる
 2015/06/12

というものを記したことがあり、その「限りなき戦い」という歌の歌詞の中に下のような部分があります。

レッド・ツェッペリン「限りなき戦い」より

戦争は繰り返し行われ
君に剣を取らせ、その剣を放たせる

空には善も悪もどちらも満ちているが
人間がそれを知ることは決してない

この

> 空には善も悪もどちらも満ちているが 人間がそれを知ることは決してない

というのは量子論的ですが、ただ「それらは入れ替わり出現するのではなく、善も悪もすべての状態が同時に多世界に存在している」というのが、現在の物理学での理解なのかもしれません。

この歌は十代の時にとても好きで、繰り返し聞いていたものでした。

話がそれましたが、ここから記事です。

この世は、あるいは神は、最終的な帰結として悪に至る宿命を私たちにもたらしているのかもしれないという示唆です。

確かに、いくら肯定的に理解しようとしても、この世は悲惨が多すぎます。


複数の世界を支配するのは「悪」なのか? そして神は無力なのか

単一ではなく複数の宇宙に存在する「全知全能の神」という概念に挑戦するためには、私たちの前提を明確にする必要がある。もし、宇宙の数が無限であるのならば、なぜ私たちの宇宙で人間が生きて過ごせるための理想的な環境条件が形成されたのかについて特別に推測する必要はないはずだ。条件は無限なのだから、そのような環境が存在しても問題はない。

しかし、多次元宇宙の理論には、より複雑な問題がある。

たとえば、量子物理学者ヒュー・エヴェレット3世の唱えたパラレルワールドについての多世界解釈理論がある一方で、理論物理学者マックス・テグマークによる現実主義(数学的に存在できるものが物理的に実在する)というものもあり、これらからは、この世の存在というものは「理にかなった理解しやすい神」によって許されているだけのものではないことがわかる。

このふたつの理論はお互いに非常に異なっているが、しかし、これらは、恐怖と苦痛に満ちている今のこの現実の世界の存在についてすべて語っている。

多くの思想家たちは、この世は神の創造であるために、苦痛と悲嘆が多すぎると主張する。

しかし、多くの一般の人々は、神がどうしてこのような(苦痛に満ちた)世界を創造したのかという理由を理解しようとする。例えば、人生では、困難、危険、過ちを理解しなければ、許しや勇気、そして、成果や結果という概念は存在しないということを考える。

あるいは、たとえば、偉大な人物の業績には、たいていの場合、途中に困難や挫折や障害があるという事実もあり、そこからも「困難、危険、過ちは必要なものだ」と人は考えようとする。

しかしそれにしても、この世で実際に起こるあまりにもひどい数々の出来事は、そのような概念(人生には困難はつきものだというようなこと)を通り越して、一体この世界に必要なものなのかと考えたくなることはないだろうか。

それくらいひどいことが、世の中であまりにも起き過ぎてはいないだろうか。

そして、パラレルワールド理論の量子物理学者ヒュー・エヴェレット3世や理論物理学者マックス・テグマークの理論は、多くの宇宙の存在を提示し、そしてそれは「多くの宇宙は、この種の不幸から成り立っていることを示す」ことを提示するのだ。

私自身は神の創造を信じており、神は愛すべき創造主だという(クリスチャンとしての)伝統的な考えに執着しているが、同じように考える人々は、これらのマルチ・ユニバースの概念に何かショッキングなものを感じるだろう。何しろ、その考えでは神はすべてを支配していないのだから。

複数の世界が存在するという考えは、量子力学の問題の1つに基づいている。「シュレーディンガー猫」という思想実験があるが、その方程式は、量子論の基本的な法則であり、粒子の状態の変化を記述している。しかし、彼らが予測している状態の中には、一見、不自然な状態の最初の「重なり合い」の組み合わせがある。

なぜ私たちは不自然な状態の組み合わせを観察することができなかったのか、私は疑問に思っている。

いくつかの理論家たちは、シュレーディンガーの方程式に加えて、他の要因があると信じていおり、彼らは「波動関数の崩壊」と呼ばれるプロセスを導入している。

そして、1950年代、エヴェレットは大胆な案を提案した。その理論は、「崩壊」という概念を導入せずに、これらは、「スーパーインポーズ(複数のものを重ね合わせること)」されており、その状態のすべての構成要素は等しく現実に存在すると仮定した。

つまり、それらの世界は「別々のものだ」としたのだ。

同じ宇宙の正確なコピーがある。しかし、そのコピーのそれぞれの中には、結果だけではなく、あらゆる物理的な「状態」が適用されるということだ。

コインを落とした時にその結果があるだけではなく、落とす時、テーブルに当たった時、それぞれの状態はすべて別々の宇宙で別々のものとして存在するということになる。

列車に乗り時間通りに目的地に到着するように進行する古典物理の宇宙は存在するが、一方で(パラレルワールド理論では)それより遅れて進行する宇宙がある。それらは単一の元の状態から分岐して、宇宙は複数に交差してい。

そして、量子論の持つ、この古典的な多様性は、「将来すべてが本当に悪くなる」という小さな可能性を示唆してもいるのだ。

それはまた、私たちの「過去」でさえも悪化していく可能性があることを示唆している。

一連の世界の理論は、これらの確率がすべて実現されたことを意味するので、それはすべてが想像できるほどひどくなった分枝的な宇宙の存在を予測する。

例えば、人類を苦しめるような大災害の可能性が恣意的に低い場合、量子論から見れば、いつでも、さらに嘆かわしい状態が次々と現実になる確率論的な「木の枝」が現れる。

このことから、世界の存在について、人類の姿が信じられないほどの悲劇につながっているという続くように思う

これはある種の結果につながる。

エヴェレットの理論を信じている人たちは、神が悪に勝ち「善が勝利した枝」を残して、後はすべて刈り取ってしまうことを期待しているかもしれない。

しかし、アリゾナ大学の哲学者ジェイソン・ターナー(Jason Turner)が指摘しているように、そのような「剪定」は、シュレーディンガーの方程式に反証する。

もし神が世界の木の中の「最悪の宇宙の出現」だけを妨げるならば、決定論的法則は複数の宇宙の発達を正確に記述することはできない。

しかし、「剪定」の論証が否定されたとしても、多世界の理論は神に対しての信仰と矛盾しないと信じる理由もここにある。そこには「すべて」があるのだから。





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Oka In Deep

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