地球の最期のときに

ある日の朝、私はミスター・ラスティ氏になっていた



投稿日:2013年10月1日 更新日:

S・カルマ氏のごとく消え去る自分の存在

先日、下のようなメールが来ていたんです。

もちろん、私のメールアドレス宛にです。




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私はツイッターにもフェイスブックにも興味がなく、もちろん、自分でアカウントを作ったことはないのですが、上のように、「自分の知らないうちに」私のメールアドレスで新しいフェイスブックアカウントが作られたようです。

メールのヘッダー(差出人など)やソースなどを見てみたんですが、どうやら確かに Facebook そのものから来ていて、迷惑メールのたぐいではない模様。

こういうのは放っておけばいいやと思っていたんですが、次の日から怒濤のメール攻勢。

「ログインできませんか?」
「プロフィールを更新しましょう」
「この方々はあなたのお知り合いではないですか?」

などなど、日に何度もメールが来るのですが、やや驚いたのが、この「この方々はあなたのお知り合いではないですか?」というメールに載っている人たちは確かにみんな知っている人たちなんです。

それも、何年も十何年も会っていない人を含めて、しかも、それぞれに何の関係もない私の別筋の知り合いの人たち。さすがに何だかアレなので、ログインしてみたんですが、しかし、そこでふと「?」と思うわけです。

今回初めて知ったのですが、 Facebook ではログインにメールアドレス(あるいは電話番号)とパスワードを使うようなんですが、私が自分でアカウントを開設したわけではないですので、私自身はパスワードを知らないのです。そして、最初の認証時にはパスワードが必要です。

こういうサービスにはどんなものであっても、「パスワードをお忘れですか?」というようなリンクがあり、そこから自分のメールアドレスにパスワードの再設定のリンクが送られてくる仕組みになっていて、 Facebook にもそれはありました。

それで、パスワードを再設定してみると、当たり前ではあるのですが、「私のメールアドレス」にパスワードがくるわけです。やはり、ここで、

「ん?」

と思うわけです。

このアカウントは「認証された状態」だったですので、その際に私のメールアドレスにログインする必要があるはずです。

ということは、このラスティさんは、私のメールアドレスにログインできていると。

「ああ、誰かアクセスしたのかもなあ」と。

で、一応、「自分のメールアドレスで」 Facebook にログインしてみますと、そこにはラスティ・プルーデンさんという方の FaceBook ページが出来上がっていたのでした。

しかも、そこの下にある「あなたの知り合いでは?」というところにいる人々もまた別の実際の知り合なのです(苦笑)。

まあ、いわゆる不正的なことともいえるのかもしれないですが、そのことよりも、私は「インターネット上での自我」ということを思い、

「うーん・・・」

と考えてしまいました。

「現代の私たちは何を規準に存在しているのだろうなあ」と。

そのページにある何人ものお知り合いは確かに私「オカ」の知り合いなのですが、でも、その人たちは Facebook 上では、オカの知り合いではなく、ラスティ・プルーデンさんのお知り合いということになるわけで、あるいは、私はそこではすでにオカではなく、ラスティ・プルーデンという人か、あるいは単なる「メールアドレスが認識票」としての記号的な存在であるのです。

私はふと、高校生の時だったと思いますが、夏休みの課題図書で読んだ、安部公房の『壁』という小説の第一部『S・カルマ氏の犯罪』を思い出しました。ある日、自分の名前がこの世から消えているというような話から始まるものでした。自分の記憶の中にもどこにも自分の名前が存在しないのです。

今、手元にないですので、正確なところはわからないですが、 Wikipedia に「あらすじ」として冒頭部分が簡単に紹介されています。

S・カルマ氏の犯罪(1951年)

ある朝、目を覚ますとぼくは自分の名前を失ってしまったことに気づいた。身分証明書を見てみても名前の部分だけ消えていた。

事務所の名札には、「S・カルマ」と書かれているが、しっくりとこない。驚いたことには、ぼくの席に、「S・カルマ」と書かれた名刺がすでに座っていた。名刺はぼくの元から逃げ出し、空虚感を覚えたぼくは病院へ行った。

この小説が面白かったので、安部公房さんの小説は他にも読んだのですが、今と同じで、私は本を最初から最後までキチンと読むということができない人で、冒頭だけ読んで満足するものが多かったです。

特に、安部公房さんの『デンドロカカリヤ』という小説は冒頭だけで十分に満足したものでした。

人が「体の表面と内側がひっくり返って植物になってしまう」というもので、描写はよく覚えていないのですが、「植物化の蔓延する時代に -「デンドロカカリヤ」安部公房」というサイトにその部分が書かれてありました。

デンドロカカリヤ(1949年)

コモン君は、ふとしたきっかけから”病気”にかかる。
きっかけというのは、路端の石を蹴とばしたことだ。

「何故蹴ってみようなどという気になったのだろう?
ふと意識すると、その一見あたりまえなことが、
如何にも奇妙に思われはじめた」。

これが病気の始まりだ。

コモン君は自分の行為を疑った。

そのときから、コモン君の植物化という病が始まる。
コモン君は自分の足が植物化しているのを目の当たりにする。
己の意識の壁が、自分の外に、空を覆うように巨大に現実に存在しているのを見る。

そしてコモン君の「顔を境界面にして内と外がひっくりかえ」ってしまう。
コモン君は慌てて顔を表向きに直して何事もなかったふりをする。

私は、人がクルッとひっくり返って植物になる光景を想像しながら、ゲラゲラと笑いました。1970年代後期の漫画『マカロニほうれん荘』のキンドーさん的な光景を思い出していたのかもしれないですけど、後で「安部公房の小説はギャグではないから」と人に言われてビックリした記憶があります。

▲ 実在する植物マンドラゴラとなったキンドーさんを表紙にした『マカロニほうれん荘』の回。1978年頃。右は伝説上のマンドラゴラの図。

話が逸れましたが、今回のことなどで思うのは、現代の社会では、「自分」というものは、あまり自分ではないということが顕著である社会だということに改めて気付きます。

 

「私は私ではない」という概念

作家の埴谷雄高さんが一生をかけて書いた形而上小説『死霊』(しれい)は、その基本的なテーマである「自動律の不快」ということから始まったことを本人が述べています。

「自動律」というのは難しい言葉で、今では同一律といういうようですが、つまり、

「AはAである」

ということが、自動律。

つまり、「私は私だ」ということです。

「それはイヤだ」

というのが、埴谷さんが『死霊』を書き始めた原点だったそうです。

1960年代に出版されたという『文学創造の秘密』という埴谷雄高さんの対談集の中に、以下のような下りがあります。

(なぜ、「AはAである」という自動律に不快を感じるのかという問いに)「自分自身に対しての払いのけがたい、異様な違和感ですね。それはまだほんとに小さい子どものときからある。むろんそれを自動律の不快というように自覚などしていない。

けれど、何か持ちきれない、自分が自分であるのは変だという感じが、重苦しい気配として感覚的にあるし、また、子供なりの理論としてもあるんですね。

私が自分の故郷ですくすく伸びれば、いわゆる大地に即した日本人的感覚、日本的美のなかで育ったのでしょうが、僕はまったく違った世界で育ったものだから、日本人全体が厭うべき嫌らしい存在として次第に刻印されてしまった。日本的なものに対する原始的な嫌悪がその頃根付いてしまった」

この「僕はまったく違った世界で育ったものだから」というのは、後に 1995 年の NHK のテレビ特集で埴谷さんが語っていますけれど、第二次大戦中に台湾で小学生時代を過ごした埴谷さんは、自分の親たち、つまり日本人が戦時中に無抵抗の現地の人たちを殴り続けている光景を毎日見ていて、うんざりしていたことを述べています。

▲ 1995年に NHK 教育で5夜連続で特集が組まれた『死霊の世界』より、宇宙線とニュートリノの「自我」を語る埴谷雄高さん。

理由は違いますけれど、私にも「自分が自分だ」ということに対する違和感や嫌悪感というものがずーっとあって、この「自動律の不快」という問題は、哲学的な問題というより実際の生活の中での切実な思想問題でもありました。

しかし、今、気付いてみれば、インターネットの世界では「自分は自分ではない」ということは「普通のこと」であることに気付くのでした。

少なくとも私は Facebook では「ラスティ」さんという人で存在しています。

まあしかし、一方で、私のこのメールアドレスに何らかの不正なアクセスがあった可能性もありますので、そういう時は、調べる前にまず無効にしておいたほうがいいですので、昨日今日と、このメールアドレスで登録しているものを変更し、このメールアドレスでの連絡をしている人にお知らせしました。このメールアドレスは、あまり公開していないメールアドレスで、使う頻度も低いものでした。

そんなわけで、簡単な話としては不正系の話ではあるのですが、同時に、過去に読んでゲラゲラと笑わせて感動させてくれた数多くの作品群、『S・カルマ氏の犯罪』や、あるいは『マカロニほうれん荘』からマンドラゴラなどのことまで思い出させてくれた機会となったという意味で、ラスティ氏にも感謝したいところです。

どんなことでも人生の経験の何かと必ず結びつくということだけは、生きていて面白いことだとは思います。

最近、結構つまらないですからね。
人生が。

『マカロニほうれん荘』の最終回の主人公たちのように、どこか異次元の海にでも旅に出たいですが、そういうこともできるわけでもないですし。

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