地球の最期のときに

人工 DNA から生命が作られる物質科学の時代に考え直したい 100年前にシュタイナーが唱えた「人類が高次へ移行する方法」



投稿日:2014年5月12日 更新日:

そろそろ人間は「精神性」というものの意味を再考する時にきているのかも

▲ 2014年5月7日の US News Scientists Create 1st Living Organism From Artificial DNA より。




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先日、上のニュースがあったのですね。

概要だけを短くご紹介しますと、下のような報道です。

科学者たちは人工的に作った DNA から初めて生物を作り出した

米国スクリプス研究所の研究チームが、人工 DNA を取り込んだ微生物を作り出す実験に初めて成功した。英科学誌ネイチャーに掲載された。

研究チームは、通常の遺伝子コードに2つのコードを追加して、人工 DNA を作り出し、バクテリアにこの人工 DNA を取り込ませた。実験を主導したフロイド・ロームズバーグ博士(Floyd Romesberg )は、「バクテリアの細胞は人工 DNA を自然界のものと認識した」と語った。

専門家たちは、この実験は、異なる DNA コードに基づいた生命体の実現の可能性を示すと述べている。

というニュースでした。

これはまさに、「生命 = 物質」ということに突き進む現代科学の極限のような報道なのですが、大きな科学記事として報道されていますが、むしろ私は「何ともいえない焦燥感」を感じてしまいました。

たとえば最近の記事の、ルドルフ・シュタイナーの『我が人生の歩み』という自伝の下の部分を抜粋していました。

自然科学の時代は、人間および民族の生命に及ぶ影響において凋落を意味している。人類がこれから先も発展していくためには、精神的な側面からのまったく新しい価値観が必要とされるだろう。

さらに少し前の記事には、谷口雅春の『生命の実相』第一巻( 1962年)を抜粋していますが、そこに健康についての記述があり、全体の内容としてはともかく、以下のような下りがあります。

(現代の医療と健康法は)ほんらい自発的、能動的、創造的であって物質を支配するべき生命の本質を忘れて、ほんらい無力な他動的受動的な物質の法則の奴隷になろうと努力しているのであります。

と、谷口雅春は、

自然科学は、「生命を物質の法則の奴隷」にさせようとしている

ということを書いています。

今回の人工 DNA から生物が作り出された報道を見て、この「生命が物質の法則の奴隷になろうとしている」という言葉を思い出したのでした。

 

またも図書館にて見つけたもの

さて、それは一端おきまして、昨日記事の最後にシュタイナーの言葉を書いたのですが、私はシュタイナーの本を持っているわけではなく、他の本に抜粋されている箇所からの抜粋でした。

そして、昨日の午後、子どもや奥さんと近所の図書館に行きました。

うちの子は、精神的な成長という意味では幼いところがありまして、普通なら、眠る時に母親に本を読んでもらって喜ぶのは、幼稚園とか、せいぜい6歳くらいまでだと思うのですが、うち子はむしろ6歳を過ぎた頃から、寝る前に母親に本を読んでもらうことが大好きで、そのこともあり、よく図書館に行きます。

私が図書館に一緒に行くことはあまりないですが、昨日は「日曜だし外でご飯でも食べようか」ということで、その後、3人で行ったわけです。昼食時に焼酎を昼飲みして、ほろ酔い加減で行った図書館でした(なんかダメじゃん)。

うちの子どもと図書館に行くと、いつも何かと発見があるもので、2年ほど前の、

大出血のような太陽フレアと真っ赤な富士山上空を眺めながら「物質は永遠」という法則を子ども科学本で知った日
2012年09月03日

という記事では、子どもと一緒に図書館に行った時に、「子ども本コーナー」の棚で手にした『原子の発見』という田中実さんという方の書いた本を立ち読みして、「物質不滅の法則」(質量保存の法則)を知った時のことを書きました。

そして、科学本である『原子の発見』には、以下のような記述がありました。

生きているとはどういうことか。人間も動物も、そして、植物も生きている。生きているものと、生きていないものとは、どこがちがうのか。生きているものが死ぬとは、どういうことなのか。

生命という現象には、まだたくさんの解ききれない秘密がある。しかしそれは自然科学の力によって、しだいに解決されてゆくはずである。どんな生物も物質から出来ているのだから『物質不滅の法則』に外れるような現象は起こるはずがない。

というくだりがありました。

この。

> どんな生物も物質から出来ているのだから

このあたりが今回の記事のポイントでもありそうなのです。

図書館で、子どもは自分で本を探していたので、私は適当に本を見て回っていたのですが、

「そういや、昨日、シュタイナーのこと書いたな」

と思い、「シュタイナーの本ってあるのかな」と探してみると、数冊だけでしたが、「小さなシュタイナー・コーナー」がありました。ほとんどが教育関係(シュタイナー教育)の本でしたが、一冊だけ、『いかにして高次の世界を認識するか』というタイトルの本がありました。

その本を開いて、本文の冒頭の1文、

「すべての」人間のなかには、高次の世界を認識する能力がまどろんでいます。
<

というのを見て、「あ、借りよう」と思い、借りたわけです。
カッコにしている部分は、本では傍点(強調点)がふられている場所です。

翻訳者の松浦賢さんという方の訳者あとがきにはこのように書かれてあります。

本書『いかにして高次の世界を認識するか』は、太古の昔から秘儀の場で伝えられてきた霊的な訓練の方法を初めて書物という形式で公開した、という点において画期的な意味を持っています。

というものだそう。

これは何度も改訂されていて、これは 1914年の第五版を訳したものだそうですが、1914年というと、ちょうど 100年前というあたりもキリがいい気がしました。

ざらっと読んだだけなのですが、今回、ここに書かれてある「高い次元に上る修練について」の具体的な方法の一部を箇条書き的ですが、記してみたいと思います。

ちなみに、私自身は、高い次元とか「霊的」とされる概念とふれることに興味はなく、私自身は今の状態でもいいのです。

では、なぜそんなことを書きたくなったかといいますと、いかにして高次の世界を認識するか』の中の下のシュタイナーの文章を読んだことでした。

真理を求める努力は、信頼と真の人間愛という基盤の上に「築かれなくては」ならないのです。そしてこのような人間愛はじょじょに、すべての生き物や、すべての存在に対する愛へと拡大していかなければなりません。そのような条件を満たしておかないと、学徒はもあらゆる建設や創造の営みに対して十分な愛を抱くことができなくなり、何かを破壊したり、滅ぼしたりするのをやめようとしなくなります。

今の世界の状況は、この「何かを破壊したり、滅ぼしたりするのをやめようとしなくなります」という状況そのものが世界全体に広がっているとしか思えない部分があります。

やはり、そろそろ人間は「精神性」というものの意味を再考する時にきているのかもしれません。

あるいは、「人間の持つ本当の力とは何か」を知る時に来ているのかもしれません。

かつての、

最後の法王と呼ばれ続けたベネディクト16世: 聖マラキの予言とコナン・ドイルの未来感の時間軸
2013年02月13日

という記事に、アーサー・コナン・ドイルの予言「人類の大部分が滅びる間の自然の激動の期間」 というものを載せたことがあります。

その全体はともかく、最後の1文は、

人類は、自らの精神的な存在に戻ることによってのみ、生き残ることができる。

となっていました。

シャーロック・ホームズの産みの親、コナン・ドイル(1859年5月22日 – 1930年7月7日)。

しかし、「人類は、自らの精神的な存在に戻ることによってのみ」と言われても、その方法論がわからなければ、どうすることもできないわけです。

そんなわけで、多分、このシュタイナーの思想というのは、そういう方法のひとつであるとは思いますので、「未来の地球を良くしたい」ということに興味のある人のために足がかりとなればと思った次第です。

もちろん、私自身は、今回初めてシュタイナーの本を読んだような「完全な素人」ですので、私の主観や考え方は基本的には添えません。

まあ、一番いいのはやはりこの本を手にされることかと思います。 Amazon の『いかにして高次の世界を認識するか』にあります。

その前に、「霊的な修行」というものの西洋においての一般論を記しておきます。
訳者の松浦賢さんが書かれているものを短くまとめたものです。

ちなみに、シュタイナーそのものについてのことはここでは書きませんので、ルドルフ・シュタイナー – Wikipedia などにある程度の歴史と人物像がありますので、ご参考下さい。

 

霊的な修行と「薔薇十字系」の修行の特徴

霊的な訓練をする方法では歴史上、

・インド系
・キリスト教、グノーシス主義系
・薔薇十字系

の3つがあり、インド系では導師(グル)が弟子に対して絶対的な立場としての修行をおこないます。キリスト教系では、「イエスが絶対的な導師」というように、インド系、キリスト教系では、「絶対的な導師の存在」があるのに対して、薔薇十字系には導師が存在しないのだそうです。

薔薇十字系の修行では、学徒の自我に基づく自由と自主性が何よりも重んじられます。薔薇十字系の修行には、権威的な指導者としての導師は存在せず、友人としての立場から学徒に助言する師がいるだけです。

と訳者あとがきにあります。

シュタイナーの霊的な修練はこの「薔薇十字系」の修行法です。

薔薇十字系の修練の特徴

シュタイナーの薔薇十字系の修練の特徴として、

日常生活が最良の霊的な訓練の場と見なされる

というものがあるようです。

要するに、集団で修行場で修行するというようなものではなく、「日常生活と共におこなう」ということで、さらにいえば、薔薇十字系の修行では、社会や家庭の中で通常の社会生活をきちんと営むことが何よりも最重視されるそうです。

これについては以下のようにシュタイナーは強く述べています。

「ひとつだけ、どうしても守っていただきたいことがあります。すなわち私たちは、いま自分が置かれている人生の立場と義務から判断して、自由に使うことが許される以上の時間と力を訓練にあてるべきではありません。神秘学の訓練の道をたどることによって、私たちが一瞬でも、ほんの少しでも、日常生活の状況を変化させるようなことがあってはなりません。」

何よりも優先するべきは、「私たちのいつも通りの日常」なのです。

そして、

目覚めた自我意識と健全な判断が重視される

というものがあります。

よくオカルト的な構図にあるような「目を閉じてトランス状態になったような状態で霊と交流する」というようなものではないのです。

瞑想のように目を閉じもしません。
「目を開けた状態」でおこなうのです。
普通の目覚めた状態の中で霊的認識をおこなうというもののようです。

シュタイナーも本書の中で、「目を開けていること」について強く書いています。

ここなどは、先日、紫綬褒章を受章した漫画家のしりあがり寿さんの長編漫画『弥次喜多 in Deep』の中で、古い地球が消滅した後に「新しい世界の天地創造」を始める弥次さん喜多さんが「目を開けた瞬間から新しい世界が始まる」場面を思い出します。

目を開けた弥次さんも喜多さんもすでにいわゆる物質ではなく、霊的存在として江戸の町に再登場します。そこにある世界は弥次さんと喜多さんが目を開けた時に生まれた「霊的な存在の江戸の町」であるといことになりそうです(もちろん、漫画にそんな説明があるわけではないです)。

話がそれました。
続けます。

薔薇十字系の修行でさらに大事なことは、

論理的な思考の鍛錬を重視する
個人の自由が徹底的に尊重される

のふたつだそう。

つまり、

ふだんの生活の中で、絶対的な指導者がいるわけでもなく、常に論理的に考え、そして、自分と他人の自由を最大限に尊重する。

というものだと言ってよさそうです。

まあしかし・・・これは、「論理的な思考の鍛錬」を別にすれば、何となく私が若い頃から考えて実践していることとあまり変わらない感じはします。つまり、私は、

・どんな集団にもリーダーは必要ない
・どんな集団にも最大に必要なのは個人の自由

だと考えて生きてきました。

私が若い時にやっていた劇団のようなものもすべてその主義でした。
リーダーなどいなくとも、少なくとも表現行為や思想活動なら、どれだけ大規模なものでもできます。

「リーダーがいないとできない」というのは現代社会の洗脳と暗示が強いと思われます。

今回のシュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』を図書館でちょっとだけ立ち読みしただけで、「読もう」という気になったのは、この「自由の尊重」と「絶対的な導師がいない」という部分を読んだこともあるかもしれません。

ここから箇条書きのような感じで、薔薇十字の学徒がどのような修練を日常の中でおこなうかを記してみたいと思います。別に「高次がどうのこうの」というスピリチュアル的な意味で読むのではなく、「ひとつの人間の考え方」として読んでも十分なものだと思います。

 

重要なこと

なお、「非常に重要なこと」としてシュタイナーが記しているので書きますが、仮に現在、あるいは未来、あなたが「霊的な事象」を見ることができる場合の話です。

シュタイナーは下のように記しています。

あなたが霊的に見たものについて沈黙することができるようになりなさい。

それどころか、あなたは自分自身に対しても、霊的に直感したものについて沈黙を守らなくてはならないのです。

それはどうしてかというと、

・そのような霊的な現象を未熟な言葉で表現しようとすると、たいていの場合は、自分で幻想を作り上げることになるため。

・日常的に使われる言葉は、本来、霊的な事象について語るために生み出されたものではないため。

ということで、つまり、霊的な体験は言葉では表現しづらいもののようで、それを言葉で他人や、あるいは自分に語った瞬間から、「それは単なる幻想となっていく」ということのようです。

そして、その「幻想」が真実であるかのようになっていき、本人をも追い込むものなのかもしれません。いずれにしても、霊的な事象は言葉で人と共有するものではないことが厳命されています。

それでは、ここからです。

▲ ルドルフ・シュタイナー (1861年 – 1925年)。

 

神秘学の学徒になるための条件

神秘学の修練をしようとする際に、克服しなければらない点について、シュタイナーは下のように記します。

私たちが克服しなければならない性質には、怒りや不機嫌のほかに、臆病な心、迷信、偏見を好む心、虚栄心、名誉欲、好奇心、必要のないことを何でも人に話したがる気持ち、人間を外見的な地位や性別や血縁関係をもとに差別する態度、などがあります。

そして、「神秘学の学徒になるための条件」として、シュタイナーは、7つの項目を記しています。ひとつひとつに長い説明がありますが、基本的に項目だけを書いておきます。

その前に、このように書かれてあります。

どの条件に関しても、それを「完全に」満たすことは求められていない。学徒に求められているのは、完全に条件を見たすように「努力する」ことだけである。

第一の条件

「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」

この後に、

確かに私たちは、はじめのうちは、みずからの健康状態を自分で決定することはできないかもしれません。しかし誰でも、体と霊の健康を促進するように努めることは可能です。

と書かれてあります。

第二の条件

「自分自身を生命全体の一部分と感じること」

これは人間以外の生命すべてに対してのことであるのですが、しかし、「人間」に関して考えると、たとえば「犯罪者」などに対して、現在の社会、あるいは世論やマスコミでは容赦ない非難と攻撃をするのが普通になっていて、「それが当然」というような感じになって久しいですが、私自身は、昔からそういうことに対して疑問を持っていました。

それは、「私に他の人間を非難する資格や資質があるのだろうか」という疑問でもあり、なので、犯罪や行為にもよりますけれど、基本的に私は「他人を攻撃したり、憎むということができない」で成長してきた人間でした。

シュタイナーは、私の犯罪者に対して持つ疑問について、以下のように「思う」ことが重要だと書いています。

「私は全人類の一部分である。私は、生じるすべての事柄に関して、全人類とともに責任を負っている」

このシュタイナーの言葉を読む限りでは、「他人を攻撃したり、憎むということがなかなかできない」という私の優柔不断な性格もまあ、それでもいいのかな、とかもやや思います。

第三の条件

「私の行動だけではなく、私の思考と感情も、同様に世界に対して重要な意味をもっている」と考えることができる境地にまで上昇しなくてはならない。

シュタイナーは、ここでも「憎しみという感情が良くないこと」を書いており、

「私が身近な人間に対して抱く憎しみの感情は直接殴りつけるのに匹敵するほど破壊的な作用を相手に及ぼす」と考えること。

だと書いています。

第四の条件

「人間の真の本質は外見にではなく、内面にある」

これは、「人は姿じゃなくて心だよ」というような意味とはちょっと違い(笑)、シュタイナーの記述では、

「私という人間は外界の産物、つまり物質的な世界が生み出したものにすぎない」と考えるなら、私たちは、神秘学の訓練において何も達成することはできません。

のように、今回の記事の最初のほうにも書きました「生命は物質から生み出されたわけではない」ということが書かれています。

第五の条件

「一度自分で決めたことは、確固とした態度で守り通す」

第六の条件

「自分に与えられるすべてのものに対する感謝の感情を育てる」

この後に、シュタイナーは、

私たちは、「私という存在は宇宙全体からの贈り物である」ということを知らなくてはなりません。

と記しています。

第七の条件

「つねにこれらの条件が求められるとおりに、人生を理解する」

そして、次に「十二弁の蓮華の育成のための六つの特性」という項目などが記されます。

本には、十二弁の蓮華とか十六弁の蓮華などの言葉が出てくるのですが、私はこのあたりのことがさっぱりわからず、また、シュタイナーの長い説明を要約することも難しいですので、「シュタイナーなら気功ブームをどうみただろうか」というサイトから説明を抜粋させていただきます。

アストラル体の咽喉の辺にある16弁の蓮華(チャクラ)、心臓の辺にある12弁の蓮華、臍の辺にある10弁の蓮華、脾臓の辺にある6弁の蓮華というふうに蓮華を活性化(回転を始め)させてきた修行者は、体内のエーテル流をコントロールできるようになってくる。

そしてエーテル心臓を源としたエーテル流をアストラル体全体に送り出し、そのエーテル流によってアストラル体の各蓮華の回転を制御する。そしてその流れはさらに、蓮華の先端から体外へ出ていく。その及ぶ範囲は、その人が霊的に進歩するほどに広がっていく。シュタイナーは以上のように表現する。

というものだそうです。

まあ・・・私個人としては、このあたりのことはよくわからないのですが、その「仕組み」より、シュタイナーの「言葉の内容」を読んでいただきたいと思います。

ここから再びシュタイナーの記述を続けます。
ここからは箇条書きだけとします。

 

十二弁の蓮華の育成のための「六つの条件」

第一の条件

自分自身の思考の流れを支配すること

第二の条件

思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を、行為においても保持すること

第三の条件

粘り強さの育成

第四の条件

人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度(寛容さ)

第五の条件

人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度

第六の条件

ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること

さらに、シュタイナーは、霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない「4つの特性」というものにも言及します。

霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性

第一の特性

思考において真実と仮象のものを、真理と単なる意見を区別すること

第二の特性

仮象のものと向き合ったときに、真に実在するものを正しく評価すること

第三の能力

「十二弁の蓮華を育成するための六つの特性」で述べた、思考の制御、行動の制御、ねばり強さ、寛大さ、信じること、冷静さを実践すること

第四の特性

内面的な自由に対する愛

 

長くなりましたが、ここまでです。

ところで、高次に上昇する際に、学徒は「境域の守護者」というものに出会うそうです。

 

境域の守護者

シュタイナーの記述によれば、それは、それまで自分自身の中にいた美しさと醜悪さの姿を兼ね備えているそうなんですが、その「境域の守護者」が語る言葉について、シュタイナーは物語風に長く書いています。

シュタイナーの記す「境域の守護者」の言葉(物語風にしたもの)からの抜粋です。
何ページにもわたる境域の守護者」の言葉の記述の中のほんの一部です。

目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の境域を越えてはなりません。あなた自身のランプに十分に燃料が入っていると確信できないうちは、一歩たりとも先に進んではなりません。これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。

この中に、先にも出てきました、しりあがり寿さんの長編漫画『弥次喜多 in Deep 』のラストの場面とリンクする言葉が出てきます。

過去記事、

30年目のエレキな春 : 精神圏へ移行する人類の覚醒後の姿を夢想させてくれた『弥次喜多 In Deep 』と作者への感謝
2014年04月28日

の中でも書きましたけれど、「この世には何も存在していない」ということに気づいてしまった少年が、すでに霊的存在と化している弥次さん喜多さんから、

そりゃあ不安だろうよ
だけどな・・・その不安をな
ぐっとこらえて
ボウズがそこに「ある」と思ったらな
そのちっちゃな足を・・・
そう ぐっと・・・
そうやって前に出していくしかねえんだよ
そうやって・・・
ぐっと・・・

と言われ、そして、真っ暗な闇の中に少年は歩き出します。

そこから先は「この世は自分で作っていかなければならない」のです。

シュタイナーも今回ご紹介した著作の中で、人間が高次に移行した後は、これまであなたを導いてくれていた「宇宙の導き」がなくなり、そこから先は「自分で自分を導いていく」ことだと述べています。

そういう意味では、高い次元に移行するということは、巷で言われる以上に「覚悟のいること」だとも言えます。

それでも、上に出てきたシュタイナーの考え方は、「高次元」とか、そういうスピリチュアルを越えて、どれも心地よく響くものであり、あるいは「これからの人類が身につけるべき考えと行動」のようにも思います。

今のままの人間の考え方では地球はもたないと私は思います。

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