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人類の覚醒と真実 地球という場所の真実

ボー・イン・ラーの著書『あの世についての書』で説明される「死後の世界の真実」 パート4

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カシミールの「死への旅の夢」を思い出す

アメリカの政府機関で豊富な経験を持つ元連邦アナリストであるリチャード・C・クック氏という方が、ドイツの精神的指導者ボー・イン・ラー (1876〜 1943年)の著書『あの世についての書』を、連続で投稿されているものを随時紹介させていただいています。

リチャード・C・クックさんは、何だか、ものすごい勢いで投稿されていまして、氏のサブスタックを見ますと、もう第八部とかまで進んでいました。

永遠に続くんじゃないだろうな」と、ふと不安になりましたが、どうやら全13部だそうですので、まあ先はあるようです。

地政学アナリストであるリチャード・C・クック氏が、なぜ、このような連載をしているのかというと、以下のように書いています。

現代社会において、災難と機会の両方に直面し、人間存在の根本的な意味について深く考えさせられる人々が、本書に強い関心を示しているからだ。

つまり「今は死の時代だから」こそ、当時の精神的指導者の著作を紹介しているということらしいです。

そういえば、「死」といえば、今日、地球の記録に「カシミールの異常気象」についての記事を書いたのですが、書きながら、ふと、

「むかし、カシミールの夢を見たことがあったなあ」

と思い出しまして、ブログを検索しますと、8年前の以下の記事に、その夢について書いていました。

ナルコレプシー者の夢の中のカシミールの旅。それは目覚めた後にシリアへのミサイル攻撃と北緯33度線の現実へと私を連れて行く
In Deep 2017年4月7日

このタイトルには「ナルコレプシー」と書いてありますが、当時 (2017年)はベンゾジアゼピンの離脱症状のことを知らないまま、ベンゾジアゼピンの減薬を始めていた時で、つまり、このナルコレプシーのような症状は、前回の記事「ベンゾジアゼピンにより地獄の人生を経験しているアメリカ人女性の手記」に出てきました、

「断薬時に多数の離脱症状が表れるベンゾジアゼピン誘発性神経機能障害そのもの」

であることに、その後、気づいた次第です。

それはまあ、いいんですが、そのカシミールの夢というのが「死の象徴」の夢だったんですね。以下のように書いてあります。

2017年4月7日の In Deep より

昨日は、そんな中で、

「白装束の痩せた男性にインドのカシミールに連れて行ってもらう」

という夢を見ていました。カシミールはインド北部からパキスタンにつらなる山岳地方ですが、大変にリアルな感覚の夢で、目覚めた直後に「お? ここはどこだ?」と一瞬戸惑うほど印象的なもので、美しいカシミールを何人かで旅をしていました。

…どうして、この夢がそんなに気になったかといいますと、夢に出てきたカシミールの風景が非常に美しかったこともありますが、私をカシミールに連れていった古代ギリシャ人みたいな白い服を着た痩せた男性が、ふいに「死」について語ろうとしていたのですね。

それはおそらく、彼自身の死についてのようでした。

In Deep

ここでは、「彼自身の死」として書いていますが、当時は(私自身の体調も相当悪かったこともあり)、そして、

「白装束の男性に導かれている」

ということからも、「ああ、オレは近いうちに死ぬか、あるいは、今日死んだのかもしれないなあと思ったものでした。

「いつ死んだのかなあ」と思いながら、ふと目を覚ますと生きていたという情けない話です(実際にその日に私は死んでいたのかもしれないですが、そのあたりは本人にわかることでもないですので)

結局、少なくとも死んだ直後は、自分が死んだことには気づかないものなんでしょうね。多くの人(?)から聴きました。

話が脱線してしまいましたが、ボー・イン・ラー『あの世についての書』のパート4です。一度にふたつをご紹介することがありまして、リチャード・C・クック氏のオリジナルとは、番号が異なっていますが、今回は、第五部と第六部です。

前回までの『あの世についての書』の翻訳は以下にあります。

パート1
パート2
パート3




 


 

ボー・イン・ラー 『あの世についての書』 (The Book on the Beyond) 第五部

Three Sages

コンテンツ
・序論
・死ぬという技術
・永遠の神殿と霊界について
・唯一の現実
・何をすべきか?

死ぬという技術 (前回の続きです)

真の「コミュニケーション」、つまり、私たちより先にあの世へ行った人々との唯一の確実なコミュニケーションは、内部的に、つまり「魂」の中でのみ起こり得る。それは純粋に精神的なものだ。

あなた自身の霊的な「体」は、あなたが「亡くなった人々」を感知できる器官なのだ。

深く感じられたあらゆる考え、完全にあなたを貫いたあらゆる感​​情は、話された言葉がここで物理的・感覚的な世界で知覚されるのと同じように、「向こう側」で知覚される。

同様に、あなたが「平穏」で十分に理性的であるとき、世界の霊的次元ですでに自己を体験している人々の発話を、静かな思考や感情の形で、まるで外からあなたに浸透するかのように知覚することができる。

ある程度の区別の訓練を積めば、それらは「あなた自身の」思考や感情から高い確度で切り離すことができる。

しかし、あなたが意識するかもしれない事柄を脇に置いても、潜在意識による影響は絶えず作用している。

このように、あなたはしばしば、たとえ「あの世の者たち」が彼を利用したいと思っても、「心霊術師の霊媒師」よりもはるかに正確な方法で、亡くなった人の「霊媒」となるのだ。

もしあなたが、神秘的なものに気を配りながらも、冷静な態度で日々の出来事を観察することに慣れていたなら、たとえ亡くなった人がまだ肉体を持って生きていたなら望んでいたであろう行動をとろうとは、ほんの少しも思わないにしても、自分が愛する「失われた人」の精神で行動していることに気づくことがよくあるだろう。

一方で、亡くなった人がこの世で熱心に抱きながらも果たせなかった願いを、全くの他人が究極的に実現したとみなせるようなことをすることがいかに多いかということは、確かに考えさせられることである。

もちろん、これらはどれも、脚が「メッセージ」を発する踊ったり揺れたりするテーブルや、催眠状態に陥り、無意識のうちに「確かに」亡くなった人を認識でき、その人の声が聞こえる「物質化された」姿に比べれば、はるかに印象に残るものではない。しかし、目の前にあるものは、一種の「アストラル (身体の精妙なる部分)」な蝋人形に他ならない。

外見上の特徴は、確かに死者の以前の肉体的な顕現から借用されたものであり、ドレスやスーツでさえ、死者の見かけ上の復活を祝うものだ。

しかし、この人形を通して語られる存在は、もしあなたが突然、その真の、完全に仮面を脱いだ姿であなたの隣に立っているのを見たら、あなたを恐怖に陥れるであろう存在だ。

本物の、本当に注目に値する心霊現象を一度も経験したことのない人は、そのようなことが真剣に受け止められるべきだということをほとんど理解できないだろう。

しかし、それがいわゆる「心霊術」が何百万人もの秘密の、あるいは公然の信奉者を持つことを妨げず、ますます多くの「改宗者」をその魔法の下に引きずり込むことを妨げるものではない。

心霊術の理論と実践に関する文献は、一部は空想的で一部は疑似科学的な性質を帯びており、熱狂的な読者を惹きつけ続けている。

そして信者たちにとって、他の分野でどれほどの学術的権威を獲得したとしても、甚だしい欺瞞から身を守ることはできないのだ。特に、死が、故人と何らかの形で接触したいという燃えるような欲求を呼び覚ます時などはなおさらだ。

博士号(高等科学の比喩かと思います)は、目に見えない世界からの催眠的影響から十分に隔離された状態を提供しない。教授のガウンは、目に見えない物質的な軟体動物の吸血鬼にとっては、クモの糸のように薄い。

これらすべての理由を考慮すると、私の警告の言葉は決して不必要ではないだろう。

物理的および精神的な宇宙全体は、たとえこの全体自体が非常に異なる側面を持っているとしても、均質な全体だ。

これらの側面の背後にある実際の現実は、これまでも、そして今も、地球上のごく少数の人間にしか知られていない。

「実験と推測的思考の両方から撤退すること」

物理的な感覚の次元と宇宙の精神的な次元の両方において、知覚の形態には極めて多様な修正があり、意識に入り込むこれらすべての形態は「現実」に対して同じ主張をしている。

宇宙の中で自分自身を経験するほとんどすべての存在は、現実の一部だけを見ており、その部分は自分自身の創造物を無意識に作り変えたものにすぎない。

同様に、肉体の「死」後の人生も、知覚の形態の変化によって決まる。

身体の統合された機能が消滅すると、肉体的な感覚は経験を伝えるための有用な器官として存在しなくなるため、同じ現実が、精神的な形の知覚を通じてのみ感じられ、経験されるのだ。

しかし、感覚器官の性質がまったく異なっていても、生命はあらゆる領域で感覚を通して知覚することができる。

地上の人間にとって「死ぬ」ということは、これまで潜在意識に隠されていた感覚を意識的に使うことを強制される単なる出来事に過ぎない。

これらの霊的感覚は、地上での生涯を通じてすでに存在していた。

実際、これらの感覚だけが、動物がどんなに肉体的な感覚の鋭敏さを人間よりはるかに上回っていたとしても、最高レベルにおいても経験することのできない印象を、人間が動物の身体に付随する感覚知覚によって受け取ることを可能にするのである。

人間の霊的「体」に属する感覚が地上での生涯において明らかになるのは、比較的稀な例外に限られる。

これは、霊的感覚器官を活用する能力が突然発現する形で現れるのではなく、常に「覚醒」の段階を経る形で現れる。覚醒は穏やかに促されることはあっても、恣意的な手段によって強制されることは決してない。

この物質的感覚の人生において、霊的感覚の使用に目覚めた人々は、唯一の因果的現実世界に属する、すでに自分の経験に開かれているさまざまな下位の「世界」が、あたかも「絡み合っている」かのように見えるため、物質的領域に属するものと感覚の世界の霊的領域に属するものとをすぐに区別することが難しいことがよくあるだろう。

第一原因の世界、すなわち「物自体」が内側から明らかにされたごく少数の人々だけが、同時に、あらゆる精神的かつ物理的に知覚可能な世界が「影響を受ける」唯一の究極の現実を体験する。

この究極の現実は、感覚による経験であれ、精神的または肉体的な方法での自己の認識であれ、すべての生命の根源的な基盤なのだ。

しかし、「人間」は、霊的な顕現において自分自身を経験するか、地球上の動物の体において自分自身を経験するかに関係なく、永遠の現実の観点から見れば次のようになる。

「個人の意識的な経験能力という形での永遠の命」

確かに、この地上での物理的・感覚的な知覚形態によって決定される動物形態のみに依存する永遠の生命にとって、個々に形成されたもの、そしてそれ自体が計り知れない全体性の中心であると感じることは非常に困難だ。

その全体性は、無限の多様性において自らを理解しながらも、それ自体に隙間や分裂を知らない。

大地に根ざした概念的思考は、あまりにも頻繁に、個体を他の何かから切り離された何かとしてのみ認識する物事の外観に依存する。

しかし、精神的な観点から見ると、個性は分離不可能な全体性の中で永遠に現れる機能だ。つまり、それ自体が分裂しているのではなく、多様性の中でのそれ自身の統一性が現れるのだ。

それは常に、全体の不可分な生命であり、その無数の個々の自己顕示のそれぞれにおいて、特定の独自の側面として自らを経験するものだ。


 

ここまでです。

次から、「死ぬという技術」の次のコンテンツである「永遠の神殿と霊界について」に入ります。

ちょっと長くなってしまいますが、続けてご紹介します。


 

ボー・イン・ラー 『あの世についての書』 (The Book on the Beyond) 第六部

Three Sages

コンテンツ
・序論
・死ぬという技術
・永遠の神殿と霊界について
・唯一の現実
・何をすべきか?

永遠の神殿と霊界について

私たちは、この地上であなた方と物質的な生活を共有しながらも、同時に霊からの知らせをあなた方に伝えるために来ている。私たちの足はこの地上にしっかりと根付いているが、実際にはあなた方とは異なる世界に住んでいる。

わたしたちはあなた方から遠く離れているように思われるかも知れないが、しかし、わたしたちほどあなた方に近い存在はいない。

確かに、私たちはあなたたちの世界だけでなく、純粋で本質的な霊の永遠の世界にも生きている。しかし、あなたたちの世界もまた、霊の永遠の世界に浸透している。まるで海で育つスポンジが海の水に浸透するように。

確かに、私たちが霊的に生きている純粋で本質的な霊界を地上の感覚で理解することはできない。

霊的なものを体験したいのであれば、まず霊的な知覚ができなければならない。

それでも、あなたは内なる領域に到達する前に、すべての低い精神世界を乗り越えなければならない。これがあなたに届いた知らせの起源だ。

あなた方の中には私たちを探している人がたくさんいる。彼らは、もし地球上で私たちの人間の住居を見つけることができれば、すぐに私たちと精神的に結びつくことができると考えている。

しかし、たとえ本当に私たちをそこで見つけたとしても、彼らは私たちに少しも「近づく」ことはできないだろう。

彼らは私たちの肉体だけを見て、私たちの地上での声だけを聞き、せいぜい私たちの地上での外面的な生活の極限しか認識しない。

しかし、彼らは決して私たちの「寺院」に入ることはできない。なぜなら、それは因果世界の精神的な次元にあり、例えば「ヒマラヤの斜面」にあるわけではないからだ。

地球上で最も高い山々の隠れた荒野には、太古の昔から、あらゆる世代の私たちの兄弟たちが暮らしてきた。彼らは、地上のあらゆる高貴さを超越し、この世の人生で働く私たちが、自分に与えられた使命を遂行するために通らなければならない道を、障害物から守るために、今は完全に隠遁した生活を送っている。

何千年もの間、私たちは精神的な神殿を建ててきた。私たちはそれを完成することなく、常に建て続けている。

毎世紀ごとに、寺院の基礎に埋め込まれた、精神的に決定されたリズムと予め定められた賢明な設計に従って、新しい礼拝堂や祭壇、柱や控え壁を追加することができる。

地上にあるすべての神殿と祭壇は、霊によって建てられたこの神殿の反映にすぎない。

多かれ少なかれ鮮明に、多かれ少なかれ歪んではいるが、その地上のあらゆる反射は古代の建築家が直感的に感じたものを映し出している。

そして、もし彼らが真の芸術家であったなら、崇高な直感の結果として、彼らは我々の神聖な永遠の神殿の均整と優美さについてのビジョンを持っていたであろう。

しかし、この寺院は単なる思想の産物ではなく、また私がここで単に象徴的な意味で話しているわけでもない。

むしろ、それは霊的な感覚によって常に知覚できる霊的な実体の建物として存在している。それはまた、霊的に知覚できる存在によって、この地球上の寺院や空にそびえ立つ大聖堂があなたにとって堅固であるのと同じくらい堅固な構造として認識される。

霊的世界では、肉体の感覚の世界と同じように、すべてが「実体」として「現実」として体験される。霊的世界では、漠然とした夢のような形しか見られないと考えるのは大きな間違いだ。

ここで私たちが話しているのは、ビジョンや幻覚、あるいはその他の自己創造の想像についてではなく、また潜在意識の領域から現れる経験の大部分からのイメージについてでもない。

霊的感覚によって知覚されるものは、肉体の物理的感覚によって知覚されるものと同じ程度に「客観的に」存在する。そのため、霊的自己顕示の最高レベルにおいてさえ、霊的感覚によって知覚されるものは、霊によって修正されているとはいえ、物理的知覚世界における形態と完全に「客観的に」一致する。

精神世界にも、「陸地と海」、深い峡谷と高い山々、万年雪に覆われた山頂、そして魅力と平穏に満ちた広大で静かな谷間がある。

これが「あまりにも現実的すぎる」と思われる人たちには、地上における彼らの物理的感覚的知覚もまた、外的手段によって生み出される特定の印象からのみ生じているということをはっきり理解しておいてもらいたい。

また、ここでは特定のエネルギーの物理的感覚的に知覚可能な効果のみが問題となることを考慮に入れてもらいたい。

したがって、厳密に言えば、私たちが事物に与えるあらゆる記述は、常に、ステレオタイプに従って知覚される個々の印象の特定の複合体にのみ固定されている。

例えば、目には白い印象があり、手は触れる塊の冷たさと一定の硬さを感じ、耳には同じ塊が足を踏み入れた瞬間に砕けるような音の印象がある。

そこで私たちは、これらの知覚の複合体(例えば、塊が簡単に溶けるという観察や、個々の「片」の結晶構造など、他の知覚も加えることができる)を「雪」と記述する。

この印象の複合体を物理的に観察するには、特定の物理的刺激が必要だ。しかし、同じ印象の複合体は、霊的エネルギーが前述の刺激と結合した場合にのみ、霊的感覚によって知覚される。

「空間と時間」や「原因と結果」は因果世界の精神的な次元にも存在するが、私たちはこれらすべての現象に対して、地球上や肉体的な感覚の生活の中で慣れ親しんでいる関係とは本質的に異なる。

霊的世界で経験されるすべてのものは、物理的な感覚で知覚できる世界の事物と同じ現実性を持っているが、意識に入ることができるのは霊的な部分だけだ。

このように知覚される事物は、物理的世界から空間的に切り離されているわけではないが、現象の物理的世界で作用する法則に従わなくなる。

積極的な意志は、私たちの霊的体に役立つすべてのものを霊的領域で成長させる。同じ意志が、熟した果実を努力なしで収穫させる。

ここで私たちが語る精神世界の領域には動物は知られていないが、動物の姿の特定の形態が欠けているわけではない。

しかし、地上の人間の中にある「動物的」なものはすべて、私たちに対する支配力を失っている。それは、地上で動物の姿をとって私たちに立ち向かう敵対的なものすべても同様だ。

地上の動物の最高の美しさに対応する形で霊的領域で私たちに明らかにされたものは、動物の形で地上で私たちに示される動物の性質とは少しも関係がないのだ。

地上では、人間は動物の肉を食べて栄養を得たり、避けたりすることができるが、ここでは、霊的な感覚の経験の範囲内で、地上の植物の果実や地上の形態のワインやパンの霊的な同等物以外の「食べ物」は存在しない。

(ここで私たちが話している「パン」は焼かれておらず、「ワイン」は決して「酔わせる」ものではないということは言うまでもないだろう)

しかし、「食べ物」と「飲み物」は、原因の世界の精神的な次元では、精神的感覚形態を更新するエネルギーでもあり、同じように、精神的な経験には、地上で疲れた人がぐっすり眠っているのと比較できるリフレッシュ状態がある。

霊的領域における「食べ物」と「飲み物」は意志力の産物であるため、その効果は同じ力が霊的体の要素に変換されるだけだ。したがって、霊的体には、地球上の動物の状態のように廃棄物が処理されることはない。

これらすべては、皆さんの多くにとって、あまりにも「感覚重視」で、地球上の生活とあまりにも似ていることもあり、すぐに理解できるものではないと思われるかもしれない。

これによって、感覚によって理解できる地球上のすべての出来事は、常に感覚では理解できないプロセスの「象徴」であることを忘れてしまう。

物質的、感覚的な宇宙におけるすべての生命は、精神的な宇宙と同様に、動きとして表現される。

しかしながら、すべての動きは形を生み出す。

すべての生命は常に同じ一つの生命であるように、すべての形態もまた、宇宙のあらゆる知覚領域における同じ運動の対応する象徴だ。

あなた方が何千年もの間夢見てきた、そして夢見るように教えられてきたような精神の領域はどこにも存在しない。

一部の人々が「現実」とみなす空虚なファンタジーの世界に満足しない限りは、それは形も象徴もない領域だ。

神秘主義者が語る「形のない神の無形の海」はすべての存在を超越しており、この海に一度迷い込んでしまうと、二度と自分自身を見つけることはできないだろう。

あなた方はそこから出発して、自らの意志の形とその表現体となった。

しかし、かつてあなた方を個々の形へと引き渡したものは、あなた方のうちの一人でも無限の太古の水へと戻ることができれば、永遠にあなた方一人一人を拒絶し、再び宇宙へと投げ込まれることを余儀なくされるであろう。

この太古の水から遠く離れたところに、潜在意識の中に、個々に自己を経験することができない最も遠い祖先に属する経験の遺産を隠しておいた哀れな夢想家たちがいる。彼らはそれを「神の経験」と称して新たに耐え忍んだ。

私たちがあなた方に知らせる霊的知覚の最も内なる光の世界は、その形態に関する限り、この霊的世界を経験できるすべての人々の仕事だ。

しかし、すべての個人は、自分自身の経験の創造者であり続ける。

意志の効果の共通性の中で、あらゆる個々の意志は同じ形成を目指す。

しかし、個人の意志は私たちの共同体の中で自分自身の経験を創造する。この経験は、相互浸透を経ない限り他の個人の意志によって経験され得ないため、他の個人の意志を妨害することはない。

しかし、今や霊的世界の形成全体が、物理的および感覚的知覚の世界と同じように「現実」の世界として経験されるならば、地上の意志を制限し制約する抵抗は、霊的世界内では私たちの意志によって満たされることはない。

もし私たちが何かを望めば、私たちの意志はそれを実現させるのに十分なのだ。

それは、私たちの意志の力に応じて遅かれ早かれ実現するだろう。それは私たちが望む方法で実現するだろう。

精神世界では、意志の創造力のみが、意志されたものを存在へと導く。

一方、これまで意志されたものは、意志がそれを否定するとすぐに跡形もなく消え去る。そのため、実際には、意志の力は「全能」という概念に近づいていく。


 

ここまでです。

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  • この記事を書いた人

Oka In Deep

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