地球の最期のときに

自由を履き違えた「魔術的思考」が世界中に拡大する中、対立と憎悪と暴力の時代は今始まったばかり



投稿日:2020年10月28日 更新日:


・Rebel / Albert Camus




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とてつもない暴力の時代の中で

最近、20年も 30年も前に読んだ本の一節などがふと頭をよぎることがあります。

今に始まったことではないとしても、21世紀もまた、とてつもない暴力の時代で、そして、「合理的な理由のない暴力」がとても多くなっています。

そのことについて、最近、30年近く前に読んだコリン・ウィルソンの『現代殺人百科』 (1983年)という書籍の前書きを思い出します。

「殺人の時代」と題された前書きは以下のように始まります。

こういう具体例がどうだということではなく、「それ以前にはなかった、動機も判然としない訳のわからない犯罪」というのは、ずっとあったものではなく、

「 1970年頃に生まれた」

ということで、その前書きをまずご紹介します。

 


 

コリン・ウィルソン『現代殺人百科』  前書き「殺人の時代」より

1960年に本書の前版『殺人百科』が出て以来、文明世界の暴力のパターンには目立った変化が見られる。動機のない凶暴性を特徴とする犯罪がますます増加の傾向にある。理解を越えた、背筋の寒くなるような変化である。

1982年2月10日、一人の人物がシカゴの薬局に入ってきて、タイレノールという鎮痛剤のビンに青酸カリが入ったカプセルを混入し、どこかに消えた。

最初の犠牲者は 12歳の女の子だった。数日のうちに死者は 7人になった。

それから一週間後、中年の男がコロラド州グランド・ジャンクションで目薬を買った。その一滴を目に落として、彼は苦悶にのたうちまわった。だれかが塩酸と中味をすりかえたのだ。最初の事件から数週間後以内に、これをまねした事件が全米で百件以上も起きた。

全米各地の治安保健当局者は、ハロウィーンで「お菓子をくれなければいたずらするぞ」の遊び (Trick or Treat と言いながら近隣の家を回ること)をする子供たちに、例年よりは声を大にして警告を与えた。

これまでの十年間にも心のおかしな人がいて、お菓子に毒を混ぜたり、りんごの中に針やカミソリの刃を差し込んだりして、事件が起きている。なので、気をつけるようにと警告を出したのだ。

痛ましいことに、この警告はまさに的中した。危険な細工がほどこされたお菓子を口にして病院にかつぎこまれる子供は記録的な数にのぼった。


 

ここまでです。

そして、コリン・ウィルソンは、この著作を書いていた 1980年代頃からの犯罪の特徴として、

「動機と犯罪の内容にまったく関係性がない」

という事例があまりにも増えたことを長く説明します。

しかし、今となれば、これは現在の私たちは、もう毎日のように見る事件のタイプでもあります。

つまり、

「家で夫婦喧嘩して、むしゃくしゃしていたので、道で知らない人を殴った」

とか、

「会社をクビになったから、ホームから知らない人を落とそうとした」

とか、

「親に怒られたから、街で知らない人に危害を加えた」

などの報道は、もういくらでもあるような社会になっているため、私たちは、こういうタイプの犯罪を「当たり前のこと」として受け止めやすくなっていますが、「以前は、ほぼなかった」のです。

「家で夫婦喧嘩した」なら、妻なり夫なりが相手に対して何か危害等を与えるというのなら、その是非はともかく、道理としては真っ当であり、しかし、その人の夫婦喧嘩と「道で殴られた知らない人」の間には何の関係もありません

まして、「道を歩いていた知らない人」に危害を加えたからといって、夫婦の間の関係が修復されるわけでもありません。

他の例もすべて同じです。

ホームから知らない人を落とそうとしても、その人がクビにされた会社に戻れるわけではないし、「それをやったところで、自分への具体的な良い見返りは何もないことが確定しているような犯罪」が、この数十年でとても増えたのです。

合理的に考えれば、そんなことをしても仕方ない。

この「〇〇だから△△をした」という動機の〇〇と、結果の△△の間にまったく関係性のない犯罪を起こす思想をコリン・ウィルソンは、

「魔術的思考」

と呼んでいます。

コリン・ウィルソンは、その源泉として、1762年にルソーが出版した『社会契約論』の中にある以下の文章に「すべての責任がある」という論旨になっています。

「人間は自由な人間として生まれている。」

私は何十年かぶりにこの言葉を思い出しました。

コリン・ウィルソンのこの『現代殺人百科』の前書きは、ものすごく長いもので、前書きだけで一冊の書籍として完成するほどの長さがありますので、内容をうまく説明はできないのですが、彼は前書きを以下のように締めくくります。

 


 

コリン・ウィルソン『現代殺人百科』前書き「殺人の時代」より

自由は責任と規律がなくても存在できるという思想を広めたのはルソーだが、この問題の責任の大半はこのルソーにある。

1951年、アルベール・カミュは著作『反抗的人間』で、サドからカール・マルクスやレーニンにいたるすべての反抗の哲学は、圧政と自由の破壊を招いたと強力な宣言を時代に投げつけた。

これは、左翼に怒りの渦を巻き起こした。

カミュの死後、彼の正しさは現実に証明されるところとなった。自由の哲学は国際的テロリズムの正当化の根拠となった。

イタリアのテロリストは大学の教室に押し入って、教授の脚を銃で撃ち、この教授は基本的に非道徳的な社会に適合することを学生に吹聴した罪があるとうそぶいた。チャールズ・マンソンは、自分の追随者は「兄弟愛」から殺人をおかしたと法廷で広言した。

これが自由の哲学の帰結である。自由の哲学が狂気に走った例である。

満ちてくる潮のように暴力が社会にのさばる。

常に自由を云々してその正当化を求める。

この種の風潮を見るとき、間違っていたのはルソーで、正しいのはカミュだということを、われわれは考えずにはいられない。

ルソーの時代には変革を求める強い必然性があり、したがってルソーの思想を認めるべきだとするなら、同じ根拠で今はカミュを認めなければならない。

現代の教育制度に「倫理的責任」を教える権力があるかどうかは分からない。しかし、社会の底辺にのさばっているこの頑迷な自由の哲学を否定する能力はあるはずだ。この態度に変革を迫ることが、われわれの社会の変革の鍵である。


 

ここまでです。

 

このルソーやカミュのことについてはともかく、今、アメリカでもヨーロッパなどでも起きているさまざまな暴力の根源には、ここでコリン・ウィルソンが言っていることが内在しているということが、今の世の中で生きている中ではじめてわかります。

この「自由」という言葉は、ちょっと日本語では大仰で、これに対して何か述べる才覚は私にはないですが、ただ特に 21世紀くらいになってから、日本を含めて、どこの国でも言われるようになったのが、

「格差」

「平等」

という言葉などで、最近のアメリカの多くの暴力などにも、こういう概念が根底にあると思いますが、どうも、この概念は「利用されている」ように感じるのです。

人類文明が登場して以来、「すべての人が平等で、すべての人に格差がない」ときなど一度もありませんでした。

それが、今になって、やたらと喧伝されるようになった。

私自身もまた、ルソーの言う「人間は自由な人間として生まれている」のフレーズには、若い時からとても違和感を感じていました。

そして「自分は自由な人間としては生まれていない」から、いろいろと希求する。

「自由の本質とは何か」を考える。

ずっと考えてはいたけれど、全然勉強をしない人生でしたので、そのあたりがよくわからない。

そうして、最近、ブログで書くようなこと、つまりシュタイナーの言う未来の人間とか、イエス・キリストの話とか、量子力学とかを少しずつ知る中で、

「自由の本質」

というものが何となく、ほんの少しだとしてもわかってきたような気がしないでもないです。

その観点から言えば、今の人間の状態では、「人間は絶対に自由にはなれない」と断言することができます。

こんなことを書いているのも、前回の記事で、ルドルフ・シュタイナーが、「人間は精神的世界に進まなければ、道を失う」と述べていたこととも関係があるのかもしれません。

ルドルフ・シュタイナーは、「将来、喉は人間で最も重要な器官=生殖器になる」と述べていたことを知り…
投稿日:2020年10月27日

講演でシュタイナーは以下のように述べていました。

1912年1月1日のルドルフ・シュタイナーの講演より

将来的には、人々は、いわば、右と左の 2つの道に立つでしょう。

一つの道は感覚的世界だけが真実であるという人々であり、もう一つの道には、精神的世界(霊的世界)が真実であるという人々がいます。

私たちが精神的世界に進むならば、私たちは地球の進化の未来において、ますます人間に近づくことをいとわない何かの方向に自分自身を成長させます。

そういう時点においては自由という概念も持ち出せるのかもしれないですが、唯物論の世界の中で、どれだけそれを叫んでもどうなのかなと思ったりもするのです。

 

 

2021年へ向かう中で平行する「2つの概念」

今の世の中ではコリン・ウィルソンのいう「魔術的思考」が万遍なく広がりやすくなっています。

その中で、かつてなかったほど、「本来的に無意味な暴力」「本来的に無意味な犯罪」が今後ますます増えていくと思われます。

世界のさまざまな場所で、いろいろと「対立」「憎悪」「暴力」が繰り広げられていまして、中には、新型コロナウイルスに対する封鎖などと関係するものもありますし、アメリカでは大統領選挙が近いため、その後の暴力の爆発にも警戒が高まっているようです。

アメリカの報道によれば、「銃がかつてないペースで売れている」のだそう。

男性だけではなく、多くの女性が「はじめての銃の購入」に走っているとのことで、その売れ方といったら、カリフォルニア州のガンショップのオーナーが FOX テレビに以下のように述べていました。

「 20丁の銃を出すと、3時間で売れるのです。これまでの四半期分にあたる売上が 2週間で出せています」

「入ってくる多くの人たちが初めての銃の購入者です。ほとんどが女性です」 Fox News 2020/10/20)

これまで銃など買ったことのないような女性たちまでガンショップに殺到しているようなんですね。

さきほどの「履き違えた自由の観念による魔術的思考」と共に、今は、欧米の多くの人たちが、長く続く制限やロックダウンで疲弊していて、メンタル的な崩壊の問題に達している人たちもかなりいると思われます。

そんなことからも、これから起こる混乱は、通常の混乱よりも混沌とした状態が発生しやすい状況となっているのかもしれません。

ヨーロッパにしても、フランスでは 10月29日から「全土のロックダウン」を再度おこなう可能性が高いとロイターは伝えています。フランスに関しては、他にもいろいろとありますが、それはまた別の機会に書かせていただこうと思います。

 

なお、2021年に向かうにあたって、

「ふたつの相反する状態が平行していく可能性がある」

と考えています。

ひとつは、以下のブログの過去記事のタイトルにあるような「 2021年が悪魔的な時代となる最初」である可能性です。

悪魔的時代の出現が2021年に明確になることを、シュタイナーに関する文献と「23の数字」を見ていて気づきました
投稿日:2020年10月14日

そして、もうひとつは、10月2日のメルマガで以下のようなタイトルで発行させていただいたものがありました。

In Deepメルマガ:地球はあと三ヵ月ほどで「みずがめ座の時代に突入する」可能性が浮上。長く続く混乱の後にいつか出現する世界の姿は?

どちらもあまり根拠のない話かもしれないですが、ロシア人の占星術師のひとつの解釈では、

「 2020年12月25日にうお座の時代からみずがめ座の時代へ移行する」

というものが存在します。その占星術の人は以下のように書いていて、「今後とても長く混乱が続く」というように考えているようです。

新しい時代への移行の準備には数十年かかりますが、
2020年はうお座の時代の最後の年であり、
2021年はみずがめ座の時代の最初の年なのです。

新しい時代には、常に世界的な衝撃や、文明の危機、経済的および文化的革命、
そして宗教的概念に対する新しい見方が生じます。

そして、2020年後半から 2021年の後半まで、
これらすべての分野の大きな変化を私たちは目の当たりにするでしょう。

より多くの国際的な対立、悪化する貿易戦争、
おそらく世界中にある、対立が続く場所での武力の行使さえも見るでしょう。

全体として関係は疎外され、人々は「友人か敵に分かれる」と予測しています。

In Deep メルマガ

今年、そして来年は、数十年間の混乱が始まる最初の時代ということになるのかもしれませんが、それは現実的にも、まさに今、具体化しています。

そういう時代に生きるのだと覚悟して生きていくしかないのでしょうかね。

私たちはかなり冷静に状況を観察し続ける必用がありそうです。

◎対談本が発売されました。こちらの記事もご参照下されば幸いです。

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