地球の最期のときに

創造神Jamに16歳で救われた私が40年後に気づいたこと



投稿日:2019年11月23日 更新日:


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嘘とジョークがこの世にある理由

昨日 11月22日に最新のメルマガを発行させていただいたのですが、そのタイトルは、

「Jamとエリカと私と多次元宇宙」

というふざけたものとなっているのですが、この号は、あらかじめ「何を書く」ということを想定しないで書き始めましたら、とんでもないカオスとなってしまったのですけれど、話は、「Jam」という 1970年代後半の自販機本のことから始まりました。

Jamについては Wikipedia に膨大な説明がありますので、そちらを読まれてもよろしいかと思いますが、その冒頭は以下のようなものです。

Jam (自販機本) – Wikipedia

『Jam』(月刊ジャム)は、1979年3月から1980年1月まで刊行されていた自販機本。今日では「伝説の自販機本」と呼ばれている。

サブカル系本の草分け的存在であり、そのゲリラ的な編集スタイルは当時の若者文化や雑誌文化に加えて、1990年代以降のバッドテイストなど国内のサブカル文化に多大なる影響を及ぼした。

自販機本という響きをご存じない方もいらっしゃるかもしれないですが、それについては割愛します。

私は 1979年に、この Jam という雑誌の表紙を、道を歩いている時に見かけ、その後購入しました。確か16歳の時でしたが、その時から少し自由に生きることができるようになりました。

そして、この雑誌を読んで、はじめて、

「人間が持つ宇宙はひとりひとりすべてがちがう」

という概念を知りました。

Jam 第 2号にあった編集者の文章の中に以下の文章があったのです。

それぞれの人間がそれぞれの内宇宙を持っている。あなたがどのように世界を見ているのか、それは知らない。

この前後に出てくる単語のほとんどが公共で使えない言葉ですので、それを抜粋することはできないですが、この Jam という雑誌を見た時に、初めて自分の中の価値観について「納得」することができたのです。

「自分は普通じゃないと悩んでいたけれど、それはそれでいいのだな」

と。

それ以来、あまりきちんと学校にも行かなくなり、ますますまったく勉強をすることもなくなり、わりと自由に生き始めたと同時に、つまらなかった人生が、少し楽しくなってきたのですね。

なお、私のメルマガは、たちの悪いジョークやダジャレがあまりにも多いのですが、以前から、「なぜ、オレってふざけなければ気が済まないのだろう」とは思っていました。

意図的にふざけるというより、私の場合は、「生体的な反応が、すべてふざけるという方向に行く」タイプなのですね。

「なぜなんだろう?」と思うことはありました。

何か理論的な道義はあるのだろうかと。

そうしましたら、昨日のメルマガを書いていた時に、流れの中で唐突に先ほどの Jam の話が出てきた時、そのあたりのことを少し調べていたところ、雑誌 Jam のブレーンだった編集者の美沢真之助さんという方が、Jam の後継誌となった HEAVEN (ヘブン)という雑誌に寄稿していた、

「嘘と冗談とは何か」

ということについて、エイプリルフールの起源となったと考えられている古代ギリシアの「オルギア」という祭についての記述に、「ああ、そうか」と思ったのです。

部分的に抜粋しますと、以下のような文章でした。

古代ローマの農神祭「サトゥルナリア」に関しての「嘘の持つ役割と可能性」
HEAVEN 1982年9月号

エイプリル・フールの風習の基盤は、通常の秩序が引っくり返ってしまう古代の農耕儀礼的な躁宴(オルギア)にある。中でも、イタリアの、農耕と律法の神「サトゥルヌス」の祭である「サトゥルナリア」とは深い関係を持っている。

この祭では、主人と奴隷の地位が転倒し、クジ引きで、サトゥルヌスに扮するニセの王が選ばれ、この王は、めちゃくちゃな命令か法令を公布した。

社会を全的にまき込むバカ騒ぎを行なうには、このような、浴なる世界の拘束力を無化する仕掛けが必要である。

この仕掛けを生み出した衝動は、キリスト教が支配的になった後も生き延び、「愚者祭」として、教会内部にすら浸透していった。サトゥルナリアと同様に、この祭りでも教会内の階級が逆転し、副助祭(教会の下級職員)たちは、キリスト教の聖性を失わしめるふざけた説教やパロディを行った。

(中略)古代の農耕儀礼には、たしかに暗いものが内在しているが、人間が原罪として持っている黒い衝動に対して〈白〉で対応するのではなく〈黒〉で対応する知恵を、そこに見出すことができないだろうか?

日常生活を脅かす〈白に対する黒〉に対しては、〈白黒〉の世界の秩序を特異的に転倒させることによってそれを克服するというやり方は、古代人の間では常識であったし、これは対社会の関係だけにとどまらず、意識を発達させる、内的な、霊性の訓練としても行なわれた。

この、

> 人間が原罪として持っている黒い衝動に対して〈白〉で対応するのではなく〈黒〉で対応する

というのはわかりにくい表現ですが、きわめて簡単に書くと、

「暗いものに対して、冗談で対応する」

という意味なのです。

この「黒いものに対しての冗談での対応」は、その後、イスラム神秘主義者たちにも伝わり、

> 霊性の発達に関する共同体の重要性を認識していたスーフィー(イスラム神秘主義者)たちは、月に一度、「嘘つきの日」を設けたのである。

とあり、そして、エッセイは以下のような文章で締められます。

このイスラム神秘主義の「嘘つきの日」にこめられた秘教的な行為を、日常的な生活の中で体験したいのなら、「冗談」を観察するのがいちばんいい方法である。

冗談の大半は内的な感情の表現である。人々は、冗談で本当のことを喋っている。

この

> 冗談の大半は内的な感情の表現である。
> 人々は、冗談で本当のことを喋っている。

という部分を読んで、とても納得したと同時に、先ほどの、

> 〈白黒〉の世界の秩序を特異的に転倒させることによってそれを克服する

という部分を読んで、私は今にして理解したのです。

「サバイバルだったんだ」

と。

幼稚園の頃から、この世に違和感を感じ続けていた私は、つまりは、

「この世界を、感覚通りに受け取ることには納得していないし、社会的な全体の感情をその通りに受け取ることにも納得していない」

という人間でした。

幼稚園……というか、要するに、意識が芽生えてからずっとそうでした。

どうすれば、この世界を受け入れるということについて「克服」できるのか。

それが、さきほどの

> 「世界の秩序を特異的に転倒させる」ことによってそれを克服する

に反映されるのです。

自分が、この世界を受け入れられるようになるまで、「この世界をグチャグチャにねじる」と。頭の中で、自分の世界の状態を変えていくのですね。嘘とジョークで。

そうしなければ、自分がこの世界の中に生きていることはできない。

徹底的にふざけて、「この世がギブアップするまで」ふざけてふざけて、ふざけ倒して死んでいこうと。

そう自覚したわけではないですが、漠然と幼稚園のころからそのように考えて生き続けてきて、そして私は、今まで、つまりいつ死んでもおかしくない年齢まで生きのびました。

子どものころから徹底してふざけて生きてきた理由は、「生きるため」だったことに、Jam の中心的な編集者だった美沢真之助さんの文章で今にして知るのでした。

なお、この美沢真之助さんは、46歳という早い時期に肺ガンで亡くなられていますが、その時の入院中の様子が Wikipedia には以下のように記されています。

元 Jam 編集者の美沢真之助さんの最期

作詞家の松尾由紀夫は美沢の晩年について「入院中、彼のベッドのもとには、絶えずナースたちが訪れ、人生相談をしていたといいます。そして、亡くなった時は、病院中のナースが泣いたそうです。確かに、村松恒平氏や私の知る隅田川乱一は、そんな挿話にふさわしい人物でした」と語っている。

 

「亡くなって病院中のナースが泣く、なんて人、日本にどのくらいいるだろう」と思います。

私も、16歳のときに美沢さんの編集していた雑誌に救われたわけですが、人を救う能力のある人は、どんな場所でも人を救い続けるのだなあと思います。

せめて、ほんの少しでも、そういう人物になりたいとは思いますが、とてもとても、美沢さんのような人間には普通なれないですよ。

いずれにしても、

「人生は徹底的にふざけて生きていい」

ということを教えられたのは Jam という雑誌によってでした。

そういう意味では Jam は私の創造神でもあります。

それから 40年間、ほぼどの局面でも、人生はすべてふざけて生き抜いてきたわけで、これから先いくら生きても後の年数などたかが知れていますけれど、それでも、残り少ない人生を、さらにふざけて(さらにかよ)生きたいと思います。

むかし、頭に下駄を乗せて、ゆっくりゆっくりと歩いている男の人を西荻窪で見かけたことがありましたけれど、次はあのあたりのレベルまで到達できれば幸いです。

何というか、最近は、メルマガを書いていますと、こういう

「過去の自分について発見する」

ことが多いです。そろそろ私も寿命なのか、それとも、そろそろ人類の滅亡なのか(おいおい)、いずれにしましても、人生の流れというものは、見事にどこかで結びつくものだなと思います。

そんなわけで、メルマガのイベントの告知と共に「なぜ私は人生をふざけて生きてきたか」ということがやっとわかったという話でした。

ここまで、ちょっち長くなってしまいましたが(早速ふざけてるのかよ)、以下、10月25日に発行したメルマガから抜粋させていただきます。

実際のオリジナルはかなり多くがふざけた部分となっていますが、その部分は無駄にスペースをとりますので、割愛します。抜粋しているのは、全体の半分くらいでしょうか。

自然災害が多くなる中で、自然などに対してどのように考えていけばいいのだろうということについての「個人的な思い」です。ここにある結論は「真実ではない」と思いますが、私個人は今は真実かもしれないと思っています。

 


自然災害と「もはや慈悲なし」の文言に導かれ行き着いた神という存在の真実

In Deep メルマガ 2019年10月25日発行

最近のこのような災害の連続を見ていますと、
ふと、私が大好きなルイス・ブニュエル監督の『銀河』(1969年)
という映画の冒頭に出てくる台詞の、

「もはや慈悲なし」

という言葉を思い出します。

この『銀河』は、「キリスト教」をテーマとした
ロードムービーであり、壮大な前衛劇でもあります。

今でいう、いわゆるホームレスの二人の男性が、
フランスから、スペインの有名な巡礼地であるサンチャゴ・デ・コンポステーラに
向かう途中で見聞するさまざまな出来事が描かれます。

イエス・キリストの時代から中世、現代まで、
脈絡なく時代が次々飛んでいくので、
理性的な方々には、頭がおかしくなるような映画かもしれないですが、
私はしみじみと好きな映画のひとつです。

この映画は、主人公のふたりの男性が、
道路を歩いていた裕福そうな男性に、「お金を恵んで下さい」
と物乞いをするところから始まるのですが、
その裕福そうな男性は、ふたりに以下のように言います。

(映画「銀河」より)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「サンチャゴ・デ・コンポステーラに到着したら娼婦と会いなさい。
その相手に子どもを産ませるのです」

「そして、最初の子どもの名は”汝 わが民にあらず”とし、
次の子には”もはや慈悲なし”と名づけなさい」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

ここから映画は始まります。

映画の内容が、100%、キリスト教に関してのものなので、
このどちらの言葉も「聖書からなんだろうな」と思って調べたことがあります。

このうち、「汝 わが民にあらず」は、
旧約聖書「ホセア書」というものの中にありました。

(旧約聖書『ホセア書』1章 9節)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

主は言われた。

「その子を/ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。
あなたたちはわたしの民ではなく/
わたしはあなたたちの神ではないからだ。」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

これはつまり、このように言われている人は、神から、

「私はお前の神ではないし、お前は私の民ではない」

と突き放されている情景が描かれているようにうつります。

しかし、もうひとつの、「もはや慈悲なし」がわからないのですね。

この「もはや慈悲なし」という響きは、
いかにも今の時代の「神からの仕打ち」という感じもしまして、
どの部分か知りたいのですけれど。

なお、ネットでこのふたつの言葉を検索しますと。
作家でミュージシャンの町田康さんの項目が表示されます。

どうしてだろうと見てみますと、
町田康さんは現在、「汝、我が民に非ズ」というバンドをやっているそうで、
そして、そのバンドの2枚目のアルバム名が、

「もはや慈悲なし」

だそうでして笑った次第ですが、

おそらく、町田さんも「銀河」のファンなんでしょうね。

https://bit.ly/2Na7CyC

しかし、そこにも「もはや慈悲なし」の出典は記載されておらず、
わからないままであります。

これが、

「神が民に対して、もはや慈悲なし」

と言っているのか、そうではないのかが知りたかったのですが。

ところで、前回は、「自然災害」というものについて書かせていただきました。

「自然災害で人が亡くなったり、あるいは苦しんだりする理由は何なのか」

というようなことを、理性的な方向の話ではなく、
やや精神科学的な方向で書かせていただいた次第でした。

そして、その歳にご紹介した旧約聖書の「創世記」には、
以下のような下りがあることに気づくのですね。

(旧約聖書『創世記』 09章 01節-07章)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ。

地のすべての獣と空のすべての鳥は、
地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、
あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。

動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。

わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。

ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。

また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。
いかなる獣からも要求する。

人間どうしの血については、
人間から人間の命を賠償として要求する。

人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。

あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

これは「神」とされる方が言っていることだと思われますが。

> 人間どうしの血については、
> 人間から人間の命を賠償として要求する。

> 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。

これは、つまり、

「戦争を含めて、人間が人間の血を流した場合、神は、人間の命を要求する」

という意味ですよね。

あるいは、

「人の命を奪った者は、人によって命を奪われる」

と。

しかし、現実として、ひとつの世代というか、世の中というか、現世というか、
そういう中では、この輪廻は当てはまらないです。

つまり、

「人を殺しても、一生安寧に過ごす人たちがたくさんいる」

のが普通のことであり、これは、戦争に参加していた人たちにも言えることです。

もちろん、私はここで、
「人を殺すことが悪い」というほうのことを書きたいのではなく、
この「神」と思われる人が言っているのは、つまりは、

「カルマ」

のことを示しているのだろうなと。

キリスト教は、基本的に、カルマや輪廻転生にふれないものですので、
その部分にふれないままでこのように言ってしまったから、
何か奇妙な言い回しになっているのでしょうけれど、簡単にいえば、

「戦争などで人をたくさん殺した《次の世》はどうなるか」

ということを旧約聖書では言っているのかなと。

人がたくさん人によって殺された世の後に展開する「いつかの世」は、

「やはり、人の命がたくさん奪われる世になる」

と神は言っているのかなと。

キリスト教に輪廻転生の概念が欠如していることについて、
シュタイナーは以下のように述べています。

(「エーテル界へのキリストの出現」より)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

仏陀に由来する精神の流れと、
キリスト衝動に由来する精神の流れとのあいだには
大きな差異があります。

対立している、と言っているのではありません。
どのように関連すると両者が実り豊かでありうるか、
洞察する必要があります。

双方の流れが、将来、共同しなければなりません。
そして、キリスト教は精神科学によって
実り豊かにされねばなりません。

キリスト教には最初、
輪廻の教えが欠けている必要がありました。

輪廻の教えはキリスト秘教のなかには含まれていましたが、
ある理由から、キリスト公教には受け入れられませんでした。

それに対して、輪廻の教えは仏教の基本原則の一つであり、
「苦集滅道」の教えと結び付いています。
キリスト教は、苦を克服することを課題としています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

ここに出てくる仏教の「苦集滅道」という言葉が何だかわからなかったので、
調べてみますと、以下のような仏教の教理の根本のようです。

(苦集滅道 – デジタル大辞泉より)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・
老・病・死の苦しみ、「集」は苦の原因
である迷いの心の集積、「滅」は苦集を
取り去った悟りの境地、「道」は悟りの
境地に達する修行。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

いずれにしましても、キリスト教におきましては、
もともとは、カルマの概念も、輪廻転生の概念もあったようなのですが、
その後の正式となったキリスト教からは、排除されたようです。

先ほど抜粋した旧約聖書の、

> 人間どうしの血については、
> 人間から人間の命を賠償として要求する。

は、現代のキリスト教では、

「現世の中での酬いとして起こること」

としているのかもしれないですが、創世記のこの神は、

「転生を前提としたカルマの話として述べている」

のだと私は何となく確信したのでした。
まあ、数分前に確信したばかりですけれど。

しかし、このように、

「もともとのキリスト教には、カルマと輪廻転生の概念があった」

と考えながら聖書を読みますと、
また違った物語にも見えてきます。

以前のメルマガでは、以下のシュタイナーの言葉を取り上げました。

(1922年のシュタイナーの講演より)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

数多くの自然災害を目撃すると、
「いつ、この自然災害は準備されたのか」
という問いを立てることができますし、立てねばなりません。

自然災害は戦争の戦慄、戦争の残虐、
人類文明の進歩のなかに現れたその他の残虐のなかで準備されたのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

これは、先ほどの「神」の言葉がはっきり示されている部分だと思います。

> 「いつ、この自然災害は準備されたのか」

と、

> 人間どうしの血については、
> 人間から人間の命を賠償として要求する

はつながります。

そして・・・まさに「今」なんですが、
ちょっとした考えが浮かんできてしまいました。

それは・・・うーん、たとえば、極端に書きますと、
カルマと輪廻転生の概念がキリスト教にあったとして、
この聖書の中で、

「神は何を述べたかったのか」

ということを考え直しますと、
以下のようになるのではないかと、ふと思ったのです。

「この世には、神の、罰や恩恵といった人間への影響は存在しない」

と。

つまり、創世記では、

> 人間どうしの血については、
> 人間から人間の命を賠償として要求する。

と述べているだけで、
「人間から人間の命」を要求される理由は、その前段階として、

「人間が他の人間の血を流した(命を奪った)」

ことによると言っていまして、
人間の行動による人間に対しての自業自得が述べられているだけのような。

周りくどい書き方となっていますが、要するに、

この世の状況はすべて(過去世の)人間自身が作り出している

と神と聖書は言っているのではないかと。

さらにいえば、この創世記というものは、キリスト教徒の人たちに対して、

「この世には、あなたがたが思うような神はいない」

と宣言しているのではないかと・・・・

もっと言えば、

神はいないことを伝えるために聖書はある

というように思えて仕方なくなってきたのです。

これは今そう思っただけで、衝動的に書いていますが、
さらに、これも今ふと気づいたのですが、
冒頭に書きましたふたつの言葉、

「汝 わが民にあらず」

「もはや慈悲なし」

は、そのような観点から見直してみれば、実に正しい言葉だと気づきます。

私たち人間は「神の民ではない」こと。

そして、「もはや慈悲なし」というより、

「もともと神による慈悲も恩恵もない」

と。

それらの因果応報は、
ひたすら、人間の社会における輪廻として巡っているだけだと。

そうに決まってる……と呟きながら、さらに、いろいろなことが浮かんできます。

たとえば、ここまで思ったのなら、
結局次のような考えになるしかないかもしれません。

聖書が人々に伝えることの最終的な目標は、

「この世には神はいないことを人間に自覚してもらうこと」

なのではないかと。

そして、それを伝えるために、この世にキリストが現れた。

そしてキリストや、もちろんお釈迦様もですが、

「人間の正しい生き方とは何か」

を解き続けた。

その理由は、

「ある世の社会集団の生き方が、未来の世の人間の社会の状態を決める」

というカルマの法則があるから。

ひとつの世の社会全体の状態が良くない限り、
延々と「悪い世の状態が続いてしまう」ので、
それを何とかしなければならないと。

この世の状態を決めるのは、何から何までが

「人間とその社会」

であり、その人間は輪廻と転生の中を巡っている。

この、

「人間自身が、未来の地球のすべてを決定している」

というとても大きな認識を、どれだけ早い段階で、
人々が気づくことができるようになるかということが重要なのでしょうかね。

10年や20年で社会がどうなるものではないにしても、
100年 200年だと、すでに現代社会が機能していない可能性もありますし、
まして、1000年 2000年だと、人類が住む地球があるのかどうか。

話が少し戻りますが、
シュタイナーの講演が収められた本をパラパラめくってみましたら、この

「キリスト教でいう神という概念はもともとなかった」

ということを伺わせる記述もあります。

抜粋します。

この中に、

> キリスト教において父なる神と名づけられた神性が、

とあり、その部分なのですが、
前後を含めて抜粋させていただきます。

(シュタイナー「天地の未来」より)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

地上の人類の周囲に、実際、二つの軍勢がいます。

空気の中の軍勢は人間を道徳的にしたいと思っており、
人間を地表から上空へと引き離します。

地下のアーリマン的存在は人間を引きずり下ろし、
人間をいつまでも地球にとどめようとします。

この二種類の存在が、鉱物界、植物界、動物界、
そして通常の物質的人間界にもいます。

人間が過度に衝動・情動、欲望に耽らなければ、
彼らはたがいにうまく折り合うにちがいありません。

キリスト教において父なる神と名づけられる神性が、
鉱物・植物・動物、そして外的な動物的・物質的人間に、
太古に平和を贈りました。

鉱物・植物・動物、
そして心魂のなかには受け取られなかった人間の動物的本性に、
父なる神によって太古に平和が与えられたのです。

そこでは、
人間は衝動、欲望、情動に感染しませんでした。

人体が心魂に浸透される瞬間に注目すると、
ルシファー的存在が、アーリマン的存在に、

「われわれは鉱物・植物・動物、そして、
まだ熟考せずに、動物のように生きていた
太古の無意識的な人間のことでは争わない、
と父なる神に約束した。しかし、自己意識
を獲得した人間をめぐっては、われわれは
血みどろになって戦おう」

と言っているのが見えます。

人間をめぐって、空気、火存在と土・水存在のあいだで
恐ろしい戦いが行われます。

それを人間は見なくてはなりません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

何だかこう、意味はちがうことなのかもしれないですが、
ここにあります、

> 人間をめぐって、空気、火存在と土・水存在のあいだで
> 恐ろしい戦いが行われます。

という情景は、まさに今の世の中のようだなとは思います。

聖書は必死で私たちに、

「神はいない、あるいは人間に影響しない」

ことを伝えてくれている。

今回の記事は、このようなことを書こうとしていたわけではなかったのですが、
最初に、好きな映画の台詞である

「もはや慈悲なし」

という言葉を思い出しまして、
そこから、このようなことに行き着いてしまいました。

しかし、それでも、今回のようなことを考えつくに至った原因は、

「自然災害という存在」

に他ならないわけで、
そして、今後さらに私たちは多くの自然災害を経験していくと思いますけれど、
その中でこそ「変化」が起きてくるのではないでしょうか。

私は2011年3月に「変化」しました。

今後のさまざまな出来事の中で、
変化したり、考え方が以前とは異なるようになっていく人々が
加速度的に増えていくような気もします。