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4月19日にメルマガ私たち現生人類は「鉄の種族」であることから思う生き方を発行させていただきました。

2022年からの世界 ディストピアへようこそ 人類の未来 日本の未来

時事を見る爺、あるいは自由の幻想

投稿日:




 

ちょっと静養中でした

子どもの頃、テレビで「時事放談」という番組があり、小学生くらいの時までは、「ジイサンたちが言いたい放題言っているという意味のタイトル」だと本気で考えていましたが、「爺じゃなく時事か」と知ったのはずいぶんと後でした。

ちょっとブログ更新が開いていますが、実は私、死んじゃいまして(死んじゃったのかよ)……ああ違った、ちょっと野暮用が続きまして、空きが出てしまっています。

それと共に……まあ、近年では「ちょっとかぜ気味で」とも言いにくい時代となっていますが、それっぽい部分もあります。

あるいは、サル痘かもしれません(よせよ)。

しかし、考えてみれば、コロナのこの2年半は、一度もかぜっぼいような症状を示したことがなかったですので、たまにはいいかなと。

この2年半でたまに悪くなったのは、胃と皮膚症状でしたね。

この世には、シェディング…なんて言葉もありますが、そういうものかどうかはよくわからないにしても、それまで経験したことのないような胃の症状や皮膚症状を何度か経験しました。

皮膚症状に関しては単にサル痘だったのかもしれません(だからやめろよ)。

19世紀のフランスにはサルドゥという劇作家がいて、1980年にはザナドゥというオリビア・ニュートン=ジョンさんの曲があったり、アメリカには「名無しの権兵衛」を現すジョン・ドゥという言葉があったり、これらもまたサル痘の伏線だったのですかね(ちがうから)。

ブログ記事そのものを書き上げる気力はまだないのですが、目に止まったニュースは、こちらにコピペなどで残しています

最近、目にしたものとして印象的だったのは、以下の読売新聞の記事があります。

 

成長の証しなのに「人見知り」しない子、「マスクで顔が区別できないのでは」…ゆらぐ対人関係 (読売新聞 2022/06/01)

 

> 「この2年、人見知りしない子が増えている気がする」。園長歴20年超の私立勝田保育園の丸山純園長(55)はこう話す。日常的に接しない丸山園長が1歳児の部屋に入ると、激しく泣かれるのが通例だが、最近は警戒せずに駆け寄ってくる子もいる。人見知りは顔を認識できている成長の証しでもあり、丸山園長は「顔が区別できているのかと不安に感じる時がある」と打ち明ける。

 

これはキツいニュースですね。

日本でも、マスクの弊害が小さな子どもたちに大規模に起きている。

「顔が区別できているのかと不安に感じる時がある」

と園長さんが話されていますけれど、この「顔認識能力」というのは、後からは取り戻せないのです。

以下の記事は約2年前のものですが、ここでご紹介したアメリカの記事では、「人間は 16歳まで、周囲の人の顔により表情と感情の関係を学び続ける」ことが示されています。

 

[記事] マスク社会がもたらす「本当のディストピア化が何か」に気づいた。それは表情を学ぶ機会を失った赤ちゃんたちによる「人の感情を理解しない人々の社会」の誕生
In Deep 2020年8月26日

 

ですので、小さな子どもだけではなく、十代の少年少女たちでも「本来の人間の感情認識を持たない人たちが多くなっている」と見られます。

もちろん、最も大きな被害を受けているのは小さな子どもたちですが、人間と人間の関係性そのものに変化が起きていく、という局面に私たちは立っています。

これらの「感情と表情の認識」は後からは獲得できない人間の成長段階の通常の獲得能力ですので、それをほぼ永久に失った若い人たちにより今後の社会が続いていくということになります。

上にリンクさせていただきました記事では、冒頭にアメリカの教育関係者の文章を載せています。

2018年の児童発達の専門メディアより

乳幼児たちは生後 1年の間、人々の顔に集中的に注意を向け続ける。 この注目の高まりにより、乳児たちは人の顔が提供しなければならない微妙な情報を学び始めることができるようになる。

乳幼児たちは視線の先に見える顔を手がかりに、人間のアイデンティティと感情を認識し、言語を覚えていくことを学ぶ。 乳幼児たちはまた、人種や性別など、最も多く目にしたり交流したりする人々の特徴を学んでいく。

乳幼児たちは、人々の顔から最も多くを学んでいる。 Lisa Scott 2018/10/24)

これは、「乳幼児の学習における顔の重要性」というタイトルの記事でした。

このような記事が示すところは、

「多くの教育の専門家たちが、子ども同士が、あるいは子どもの周囲の大人たちがマスクで口を隠すことの危険性について知っていた」

ということです。

しかし、残念なことに、教育の専門家たちから「小さな子どもたちの周囲の大人がマスクをすることの危険性」についての声は上がりませんでした。

あるいは、声は上がっていたのかもしれないですが、メディアやマスコミが、その危険性について伝えることは、少なくとも私は見たことがありませんでした。

 

それらが一体となり、「複数の世代の人間を壊した」のです。

 

新型コロナというような、どうでもいい相手の中で。

これは、コミュニケーションが軸となって動く人間社会にとっては壊滅的な出来事で、そして彼ら彼女たちの認識能力が復活することはもうないです。

コロナの時にはよく「命を第一に」みたいなことが言われていましたけれど、コロナの最終的な感染致死率がどのくらいかはわからないですが、0.0数%だとして、このコミュニケーション性の崩壊は、社会不適合と直結するはずで、その場合、社会の中で生きていくことができないですので、生きていけないということは致死率といえますので、その 100倍も 1000倍もの致死率となると思われます。マスクによる致死です。

また、起きる起きないは断言はできないにしても、仮に今後、過去最大の食糧危機が起きた場合、致死率は、その何万倍にもなる可能性もあります。

 

まあ確かに、世代によっては、いろいろなことがあるわけで、太平洋戦争中に青春期を過ごした方々も大変でしたでしょうし、いろいろなことがあります。

今の若い世代もまた直接的な被害を受けた世代です(考えようによっては人類史最大の被害)。

そして、いまだに社会では「大人がマスクを外さない」という狂気の状態が続いています。

 

少し前のメルマガの内容を思い出しました。

「自由の幻想」をこのパンデミックは教えてくれた

というタイトルのメルマガです。

わかりいい内容ではないかもしれないですが、そこから少し転載させていただこうと思います。実際のメルマガでは、くだらないギャグの部分が多いですので、大きく割愛して、部分的に引用させていただきます。

ここからです。




 


「自由の幻想」をこのパンデミックは教えてくれた

In Deep メルマガ 第193号
2022年5月6日

この連休は、私個人はどこにも行かなかったですが(いつも行かないのですが)ニュースを見ましても、「どこそこの観光地が大賑わい」とか、「ハワイを訪れる日本人たち」とか、そういう報道のタイトルを見ましたけれど、楽しむことはいいことなのかもしれないですけれど、非常に正直なところ、

「こんなに事態が深刻化している時に、よく遊びに行く気になるなあ」

という思いはあります。

考えてみれば、パンデミックが始まってからの各国政府などのやり方では、「人は自由を欲しがり、楽しみを求めている」という部分が徹底的に攻められました。

まずはロックダウン、あるいは緊急事態宣言および飲食と娯楽の停止。

これにより、「自由を奪われ、娯楽を剥奪されることがどれだけ辛いか」ということを「人々に再認識させる」ことを行いました。

何しろ、欧米しても、日本を含む東アジアにしても、今回のパンデミック対応策ほど自由を奪われた経験は、一般の方々にはないですからね。

太平洋戦争中から存命されている方々もいますけれど、八十代の方でも、「戦争と終戦時はおおむね小学生のとき」です。

ですので、戦争を経験して現在も存命されているその多くにしても、「こんなに自由が剥奪されたのは、初めて」だと思われます。

そして、パンデミックの早い段階から、

 「ワクチンさえ完成すれば、ここからすべて解放される」

というような論理もすでに展開されていましたが、欧米などで、呆れるほど繰り返され続けたロックダウンの果てに、

「ワクチンができました」

となりました。

自由と娯楽を楯に、コロナ → ワクチンという流れがスムーズに運んだわけです。

その自由の剥奪の中にはマスク着用義務も当然含まれます。

これを企画・計画した人たちは(人じゃなくてもいいですが)、

 「人間は、自由と娯楽を剥奪すれば、おおむね従う」

という確信があったのだと思われます。

このことはコロナが出てきて、すぐに気づきました。今から1年半ほど前の 2020年11月のスロバキア政府の対策についての記事にあります。

この時、スロバキアは、ロックダウンに入っていましたが、

 ・PCR検査で陰性だった場合、ロックダウンと外出禁止令は解除

 ・PCR検査を受けなかった人たちには外出禁止令が継続

という条件を提示したところ、

「対象人口の97%がスロバキア政府の指示に従った」

のです。

もう少し正確には、以下のような条件でした。

 

 (スロバキア政府が 2020年11月に国民に発表した内容)

 ・テストを受けなかった人たちは、夜間外出禁止令の対象となる。

 ・テストで陰性だった人たちは、仕事、ショッピング、旅行に出かけることができる。ただし、マスクは必要。

 ・テストで陽性となった人たち、およびその世帯は、自己隔離する必要がある。

 

この条件により、97%の対象国民が検査を受けたのでした。

検査を受けないことへの罰則規定はなかったですので、

「代償は自由だけ」

です。

今思えば、これは「実験」だったのかもしれません。

自由を奪った状態で、そこから脱するためには、どんな条件でも受け入れる人が、どれくらいの割合でいるか、という実験です。

実際、この後、イギリス政府がこのスロバキアの全国民検査の事例を分析し、それを賞賛する文書を公式に出しています。

 

世界が「こういう局面になっている」ことに「気づいた」場合、どうすればいいかというと、それはひとつしかないと私自身は思っています。

 

「自由を放棄する」

「楽しみを求めない」

 

これによって、少なくとも、「それをエサにした条件に従う必要がなくなる」からです。この「自由を放棄する」という言葉には、誤解を生む部分があるかもしれません。

パンデミックが始まってから、改めて……いや「初めて」気づいたことがあり、それは、それまで「自由」という言葉で示されていたものは、

 「ほぼ唯物論の世界が軸となっている」

ということです。

たとえば、先ほどのスロバキア政府の提示した条件のひとつに、「テストで陰性だった人たちは、ショッピング、旅行に行くことができる」とありますが、人々は、このような、ショッピングとか、旅行とか、あるいは観光とかテーマパークに行ったりとか、レストランに行ったりとか、そういうことができることを

「自由」

だと考えているということに気づいたのです。

逆に言えば、私はパンデミック……というより、規制対策の数々が始まった時に、

「ある意味では、人が《自由》という意味に気づくチャンスになるかもしれない」

というようにも思いました。

 

私自身は、パンデミックが始まってから娯楽は捨てました。

実は、私はもともと「楽しむ」という概念を持たない人で、先ほどの旅行とか観光とかショッピングとか、そういうことにまったく興味を持たない人なんです。

以下の記事は、2020年10月のものです。

 [記事] 自由を履き違えた「魔術的思考」が世界中に拡大する中、対立と憎悪と暴力の時代は今始まったばかり
 In Deep 2020年10月28日
 

 

これは、ルソーの言う「人間は自由な人間として生まれている」というフレーズに違和感をずっと持っていたことと関係する記事ですが、まあ、勉強をしない若い時代でしたので、よくわからなかったのです。ところが、パンデミックとなり、人々が「自由を渇望している」光景を見て、

「自由というのは幻想だ」

ということが示されていることに何となく気づき始めました。

先ほどのブログには以下のように書いています。

 

 (2020年10月28日のブログ記事より)

> 最近、ブログで書くようなこと、つまりシュタイナーの言う未来の人間とか、イエス・キリストの話とか、量子力学とかを少しずつ知る中で、

> 「自由の本質」

>というものが何となく、ほんの少しだとしてもわかってきたような気がしないでもないです。

> その観点から言えば、今の人間の状態では、「人間は絶対に自由にはなれない」と断言することができます。

 

この記事では、1912年1月1日のシュタイナーの講義を抜粋しています。

 

 (1912年1月1日のルドルフ・シュタイナーの講義より)

> 将来的には、人々は、いわば、右と左の 2つの道に立つでしょう。

> 一つの道は感覚的世界だけが真実であるという人々であり、もう一つの道には、精神的世界(霊的世界)が真実であるという人々がいま す。

> 私たちが精神的世界に進むならば、私たちは地球の進化の未来において、ますます人間に近づくことをいとわない何かの方向に自分自身を成長させます。

 

つまり、

「本質的な自由というのは、唯物論世界には存在しない」

ということです。

これがパンデミックの対策の中で気づき得た最大の点だったかもしれません。

だからといって、急に何かが変わるわけではないですし、私などのような凡庸な人間では、結局、死ぬまで物質に縛られたままで終わるとは思いますが、

「自由の幻想」

という命題を現実社会を見ているだけで得ることができたという意味では、この2年半は、非常に意義の高い日々だったとも思います。

むしろ感謝に値する崇高な時期だったといえます。

今は、みずがめ座の時代というものに移行しつつあるという、まあ、ニューエイジ的な概念ですけれど、そういうことも言われていますが、それにしても、2020年頃にメルマガなどに書いたことなどを見ますと、占星術師の方などが述べていた、「ここまでの道筋」というのは、わりとよく当たっているものだなあとも思います。

2020年10月2日のメルマガに、ロシア人女性占星術師のタチアナ・ボルシュさんという方のインタビューを掲載したことがあります。

そこには以下のように書かれていました。

 

 (ロシア人占星術師タチアナ・ボルシュさんのインタビューより)

> 新しい時代への移行の準備には数十年かかりますが、2020年はうお座の時代の最後の年であり、2021年はみずがめ座の時代の最初の年なのです。

> 新しい時代には、常に世界的な衝撃や、文明の危機、経済的および文化的革命、そして宗教的概念に対する新しい見方が生じます。

> そして、2020年後半から 2021年の後半まで、これらすべての分野の大きな変化を私たちは目の当たりにするでしょう。

> より多くの国際的な対立、悪化する貿易戦争、おそらく世界中にある、対立が続く場所での武力の行使さえも見るでしょう。

> 全体として関係は疎外され、人々は「友人か敵に分かれる」と予測しています。

 

タチアナ・ボルシュさんは、2021年が、みずがめ座の最初の時代としており、「うお座からみずがめ座に移行する時の混乱」を述べています。

「新しい時代への移行の最初は荒れる」と。

現在の2022年も象徴的な感じではないでしょうか。

> より多くの国際的な対立、悪化する貿易戦争、おそらく世界中にある、対立が続く場所での武力の行使さえも見るでしょう。

というあたり、今そのものですが、タチアナさんは、

「人類は意識的に(ふたつなどに)わかれていく」

とも言っていました。

コロナワクチン下の社会は、まさにそのようになっていますが、これはさらに拡大していくと考えたほうがいいようです。

 

昨年あたり、つくづく気づいたのですけれど、特に私のようなボーッとした人間は、

「殴られなければ気づかない」

ということだったのかもしれません。

それも特別に「キツい殴打」です。

この期間、私は時間と空間に殴られ続けていました。

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