違和感 vs 違和感の存在戦争の中で
まぐまぐさんの最大のイベントである「まぐまぐ大賞2019」の投票結果が発表されまして、In Deep メルマガが、コラム賞1位に選出されたとご連絡いただきました。
以下のページに詳細があります。
まぐまぐ大賞は、読者の方々や一般の方々を含む投票で決められるものですので、大変に嬉しいです。どうもありがとうございます。
なお、最近のメルマガの内容は、たまに「ややフリーグラウンド過ぎる」こともあるのですけれど、こんな世の中でもありますし、ぶっちゃけて書いていたほうが楽しいですし。
現実としては、世界は何だかもうどうでもよくなってきているような局面の段階に立ち入ってきているような感じもないでもないのですけれど、それだからこそ、「誰もがもっともっと自由に生きていていいはずだ」といように以前より強く思うのです。
今の世の中は、実際には「バックグラウンドそのものが変容」している渦中にあるはずなんですけれど、まあ・・・バックグラウンドというのはおかしな表現ですが、それは何でもいいのですよ。それが「この世」でも「この宇宙」でも、ともかく、そういうもの全体が人間と共に変容を続けている中にあると思っています。
中には、そのバックグラウンドの変容と協調できている人々もいるのだと思います。
しかし、その変容と協調できていない人たちや、あるいは、協調できていない自然たち、あるいは(その存在は実際にはないにしても)協調できていない神々というようなものたちがあり、「協調しようとしている側」からも「協調できていない側」からも、どちらも相手を「違和感」として感じている。
違和感が違和感をお互いに眺めている時には、どちらも違和感ばかりが強調あるいはデフォルメされていき、風景が歪んだりもするのですが、今の現実とはそんな感じなんでしょうね(何を書いているのだか自分でもさっぱりわからなくてビックリです)。
そういえば、今からほぼ 11年前の 2009年1月に、未来予測プロジェクトのウェブボットのレポートに掲載されていた主催者クリフ・ハイのエッセイは以下のようなものでした。
2009年1月のWeb Botのエッセイ「旅立つパラダイム」より
この年(2009年)は「変化が急激」なので、これまでの現実の見方を新しい現実に適応させることに難しさを感じる人々が出てくる。これは人生が変化するスピードについてゆく十分な時間がないという感覚となって現れる。
このような「時間の圧力が増す」感覚がどんどん加速する。
それは変容が進んでいるからである。
人類が変容し始めると「機能しなくなる」一連の人々が世界中で出てくることをデータは示している。
これらの人々は「超現実にお手上げになった状態」となっているのだ。彼らは、すでに機能停止した社会秩序を「意志の力」によって維持しようとする。変化に反対して抵抗する人々は、その抵抗をドラマチックに、また「本当にぞっとする」ような方法で、それも「接続不能」の状態で行う。こうした一連の人々は「破綻者」 と呼ばれるようになる。
彼らは「認識が接続不能」になった人々で、とても暴力的で、自殺の一環として「殺しのパーティー」を行う。こうした現象は変容に伴って現れるので、世界的に発生し、文化の違いに関係なく、そして、かつてない規模で現れる。「破綻者」は殺気立っている。
破綻者の現象は、多くの人が模倣して、誰が一歩先んじるかを競うようになるため、その「死の儀式」は、おそろしく複雑なものになる。
われわれのデータでは、「変容」の影響を逃れることのできる地域は世界には存在しない。「変容」は人々の人生のあらゆる側面を覆うようになる。これは人々が「今は考える時間すらない」と感じるようになることでいっそう促進されるが、この年にこの感覚は多くの人々の主要な感覚となる。
これにともない、あらゆる人々が、すぐに行動しなければならないという「圧力」を感じるようになる。この感覚は、個人にいたるまでのレベルで感じられるようになる。そして、この感覚はこの年で終わるわけではなく、出発点にしかすぎない。
あらゆるデータからみて、この年は「古いもの」の「破壊」と「解体」が進む年だ。これは新しい創造のエネルギーが国家レベルで現れる年の春まで続く。
社会の崩壊、秩序の崩壊、そして、人の良心の崩壊などは今が極点のようにも感じますが、実際には今後さらに激しくなって、戻りようのないカオスに到達するまで拡大し続けると思われます。
そのような局面では、もはや「物質的なサバイバル」はあまり意味をなさなくなるはずで、プレッパー的な対応は、長く効果的である方法ではないように感じます。もちろん、物質的な備えは多少はしておいたほうがいいでしょうけれど、それが究極のものではないと。
本当のサバイバルは精神的な方向に存在しているはずで、私を含めた多くの人はそれが何なのかまだ具体的にはわからないわけですが、それでも、メルマガを始めてから、少しずつではありますけれど、「漠然とした方向くらいは見えてきたのではないか」と思うこともあります。
生命体としてただ物理的に長く生きることの意味が今後さらにどんどん希薄になっていくと思われる中、「永遠性の獲得」という意味はどこを見ればわかるのか。
あるいは、永遠性の獲得なんてことはわからなくてもいいことなのか、あるいは、物理的な永遠性というものと精神の永遠性の融合を探る方法という概念などはあるのか(さあ、また自分でもわからなくなってきていますよ)。
・・・こういうように、勢いで書いているうちに、自分で何を書いているのだかわからなくなってくるというのは、メルマガでもよくありますが、これは実際には 10年くらい前からあることで、「自分で書いたことを、後から自分で勉強して理解する」という「後追い」は多いですね。
いいんですよ、書いている時に自分が何書いてるんだかわからなくても。
それは大した問題ではないことで、問題は、たとえば自分の名前を忘れるとか(そりゃ問題だ)、肴はあぶったサルでいいとか(唐突かよ)、そういうのはいけないですね。
さて・・・少し混乱しましたが、まぐまぐ大賞2019で部門賞で受賞させていただいたということについて、お礼を書かせていただきました。
今後もよろしくお願いいたします。
城島雄二。(名前間違ってるぞ)・・・ああ・・・まあいいや。
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