In Deep

地球最期のニュースと資料

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追悼の日に思い出すディープコリアな旅

   

shitifukujin

七福神

 

墓前で大騒ぎした翌日に思い出すこと

12月26日は、2年ほど前の In Deep の記事や、クレアのほうに追悼記事として書きました、

永遠の「この間」の輪廻の中で – 追悼・のようなもの
 クレアなひととき 2014/01/10

などでふれた、私の人生の最大の恩人であり友人だったひとりの田中くんの命日でした。

その日は、親族による正式な三回忌の法要もおこなわれていて、そちらにもご招待をいただいていたのですが、それには参加せずに、友人たちと田中くんのお墓の前で、昼から酒を飲んで過ごしました。

田中くんはお酒を一滴も飲めない体質の人だったので、いつもお墓にお供えするものは何がいいか迷いますが、好きだったカルピスウォーターを置いて、乾杯しました。

お墓の前で酒を飲んでいると、出てくるのは楽しい思い出ばかりで、次第に、私たちは「お酒を飲みながら、お墓に話かけてゲラゲラと笑い続けている」という、一歩間違うと通報されかねない妙な集団となってしまいましたが、私自身も、

「オレも死んだ後は、思い出して笑ってほしいよなあ」

と言いましたが、しかし、案外、誰でもそんなように思っているのかもしれないなあとも思います。

もう 30年以上前だと思いますが、母親の父が亡くなった時、双方の親族などが集まり、かなりの数が集まった通夜と葬式となったのですが、男のほうの親族たちが酒を飲んでいるうちに、次第に酔っ払いだして大宴会と化していきました。

そして、翌朝。

男の親族たちは、酔っ払って、葬儀会場の方々で大いびきで眠り込んでいて、そして、そこで私が見たのは、亡くなった祖父の棺の上に、誰かが脱ぎ捨てた靴下が、ちょうど祖父のご遺体の顔の窓のあたりにへばりついていた光景でした。ここまで不謹慎な光景だと、むしろ微笑ましくて、「いいお葬式だな」と感心したものでした。

それにしても、IS (いわゆるイスラム国)が台頭し始めたのは、田中くんが亡くなった後の頃でしたが、その IS を率いているといわれているバグダディ指導者の写真がメディアなどで紹介されるようになり、その姿を初めて見た時は驚きました。

なぜなら、バグダディ指導者は田中くんとそっくりだったからです。

最近、18年くらい前に田中くんと韓国に旅行した時の写真が出てきて、それを見て改めて思いました。

1997年頃の田中くん(韓国・ソウル近郊)

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IS のバグダディ指導者

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上の写真では少し疲れた顔をしていますが、実物の田中くんは、もっと精悍な目つきをしていて、バグダディ指導者と似た感じです。

ちなみに、田中くんという人は「いろいろな人と似ている」人で、上の写真は韓国でのものですが、この時、ソウルにある景福宮(キョンボックン)という、かつての王宮に行った時のエピソードがあります。

 

景福宮

경복궁

 

ここには韓国の歴史や伝説などを示す博物館があるのですが、そこに田中くんと立ち寄った時に、博物館を見学に来ていた幼稚園児か小学生の低学年くらいの集団が、博物館から出て歩いてきました。

その子どもたちが、田中くんの姿を見るなり、ほぼ全員が、

( ;゚д)ザワ(;゚д゚;)ザワ(д゚; )

と、ザワついて、みんなで何事かを話始めるのでした。

何人かの子どもたちは、遠くから走ってきて、下の写真のように、近くから田中くんの顔をじっくりと見てから、また戻って、また、ザワザワとみんなで何事かを話します。

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私 「なんだ、なんだ?」
田中「なんですかね」
私 「どうも、オレは関係ないな。みんな田中くんを見てる」

 

確かに、田中くんは日本でも目立つ人ですが、子どもたちがこんなに興味を示すことの意味がわかりませんでした。

ふたりとも、理由がわからないまま博物館に入りました。

そこで私はすぐに子どもたちの反応の意味がわかったのでした。

私 「なるほど……。子どもたちは、この博物館を見学したばかりなんだよ」
田中「どういう意味ですか?」
私 「田中くん、これを見てください」

そこにあったのは、おそらくは韓国の神話か伝説に登場する人物の絵の数々で、そこにはたとえば下のような人の絵があったのでした。

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どうやら、韓国の神話の神様の男性たちは、みんなひげを携えていたようで、どの絵の神様も恰幅がよく、口ひげとあごひげがあるのでした。

私 「これアレでしょ。韓国の神話の神様とか、そっち系統の絵でしょ」
田中「そうみたいですが、それが一体……?」
私 「自分じゃ気づいていないみたいだけど、これらの絵、全体的に田中くん系なんだよ。だから、あの子たちは、これらの絵を見ていて、外に出てみたら、絵と同じ人がいたと。それでびっくりしたんじゃないかね」
田中「そうですかね」
私 「神様が来たと思ったんじゃないのかな。韓国なら、ずっと神様扱いでいけたりして。ウヒャヒャヒャ」

と、私は大笑いしていました。

確かに、今の時代は、日本でも韓国でも、たくさんのあごひげがある男性は、ほとんどいないですので、子どもたちにとってば「神話の人」に見えたのかもしれません。

帰る際、子どもたちの姿がある時に、田中くんを拝むような格好をすると、別の子どもたちの集団もまたザワつくのでした。

 

バグダディ指導者の写真を見ていると、田中くんと何度か行った韓国の旅行のことなんかを思い出してしまいました。

韓国は、軍事政権が終わった頃から何度か行きました。当時は、ソウルでも、数百メートルおきに銃を携えた軍人が配置されていた時代でした。

最初に行ったのは二十代の終わり頃だったので、二十数年前ですかね。最近の韓国の雰囲気は知らないですが、おそらくは全然違うものだったと思います。

時事とは関係ないですけど、年末ですし、恩人の三回忌ということで、ちょっと書かせていただこうかと思います。

 

毎朝午前9時に終了するテレビ放送

1980年代の終わり頃の韓国は、その数年前まで軍事政権下であったということも影響していたのか、そこらにいる武装した兵士たちの姿を含めて、物々しい感じはありました。

その後は韓流の存在などで、コリアン・エンターティメントなどという概念もある韓国ですが、当時は、そもそもテレビの放送自体が「日の明るいうちはやっていない」という状態でした。

どういうことかというと、早朝は普通にテレビは放映しているんですが、朝の9時くらいに全局テレビ放送が終わるのですね。

そして、夕方にまた始まる。

その状態が何年くらいまで韓国で続いていたのかわからないですが、当時はそうでした。

日中はずっと、全局が、いわゆる砂嵐の画面状態です。

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テレビを昼間放映していなかった理由はよくわからないですが、経済的なことなのかもしれないですし、節電的なことなのかもしれないですし、あるいは、「昼間というのは国民全部が働くためにあり、テレビなどは必要ないのだ」ということなのかもしれませんし、どういう理由かは今でもわかりません。

いずれにしても、多くの人々が帰宅する夕方から、またテレビ放送が始まります。

始まってしまえば、放送の内容自体は当時や今の日本などのテレビ番組と大差なく、トーク番組やバラエティ、そして、ドラマが幅を効かせます。

当時の韓国のテレビドラマは(たまに見ていた程度の印象ですが)、現在の韓流のような恋愛ドラマ系というより、ホームドラマやホーム系コメディのようなもののほうが多いような感じで、あとは今もある韓国の時代劇ですね。

そして、当時の韓国のテレビを見ていて気づくのは、「CM のスポンサーが一握りのグループに限定されているように見える」ことでした。CM の種類自体は非常に多いのですが、よく見ると、同じ会社や系列の別の製品だったりして、当時も今も、私は韓国の経済をよく知らないですが、CM を見ている限りは、「この国はわずかな数の巨大企業にほとんどの経済が牛耳られてるんじゃないのかね」と思えるものでした。

 

アジアは多くがそうですが、韓国も夜が楽しい町です。

夜の韓国の良さ(当時)は、たとえばソウルなどの大都市でも、屋台がものすごくたくさん出ていることで、東京などでは屋台は消える一方の状況でしたので、屋台や小さな飲み屋が好きな私は毎晩大喜びで飲んでいたのですが、不思議だったのは、「物価が安くない」ことです。

今と違って、当時は日本と韓国の経済状態はずいぶんと違ったはずで、つまり、たとえば、給料の平均額なども日本と韓国では倍くらい違ったかもしれません。

それなのに、「食べ物や飲み物の値段は日本と同じレベルか、むしろ日本より高い」というようなこともありました。日本では、たとえば牛丼店の朝定食は今も昔も 300円台ですが、ソウルの定食屋の魚焼き定食などは 600円とか 700円していました。それでも、店はどこもサラリーマンで混み合っている。

他の様々な場面でも思ったのですが、「韓国という国は、どうも収入と価格のバランスがとれていないのではないか」というようなことは感じました。

そのことはあとでわかったのですが、その時の話など。

 

1998年の「 IMF 定食」

田中くんと韓国に行った1997年か1998年かどちらかは、韓国は国家として危機的な状況だったことを、私は田中くんに聞いて初めて知りました。

社会や経済情勢にうとかった私は、その時は知らないで行っていたのですが、その時はアジア通貨危機だったのでした。

ソウルに到着した日、定食屋が並んでいる通りを歩いて、店の外に出ている定食のサンプルなど見ていました。

韓国は全部ハングルですので、基本的にはそれほど読めないのですが、その中のメニューに、

「IMF 정식」

というものがありました。

少しだけハングルの読める私に、田中くんが訊きます。

田中「 IMF 何とかと書いてありますね」
私 「そのあとは・・・これは『定食』って書いてある」
田中「IMF 定食! (@_@) 」
私 「今、なんか起きてんだっけ? この国」
田中「韓国は今、IMF の支援を受けてるんですよ」
私 「それはシリアスな事態?」
田中「国家存亡の危機と言われています」
私 「しかし、今、目の前にあるのは・・・」
田中「 IMF 定食・・・」
私 「商売がうまいのか、世の中をナメているのかわからないね」

ちょうど、店の人らしき女性が出てきたので、私はそのメニューを指さして、

「IMF とは、あの IMF のことを意味しているのかどうか」

というようなことをききますと、おばちゃんはなぜかニッコリと笑って頷き、私に韓国語で何かいろいろと言っていましたが、あまりわかりませんでした。ただ、要するに、「自分の国がこんな時だから、私たちも頑張らないといけない」というようなことを言いたかったようです。

田中「うーむ・・・この IMF 定食というのがその頑張りをあらわしていると」
私 「そういうことみたいだね」

日本円で 600円くらいの定食でした。

食べてみたかったですが、昼食を食べたばかりだったので、諦めました。

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昼はホテルマン、夜はいろいろとやっているキムさん

ソウルの屋台
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上のほうに書いた「どうも収入と価格のバランスがとれていないのではないか」という問題はわりと事実だったことを、その日の夜に知ることになります。

まず、この話の前提として、当時(あくまで 20年前などの当時の話です)、韓国の格安ホテルの従業員たちの多くが、いわゆる「夜のお仕事」的なことに属する関係の店などの客引きを兼ねていたことを知ることから始まります。

このことは、はじめて韓国に行った時にすぐにわかりました。

何しろ、ホテルの従業員たちは、フロントで「男性だけの客」をチェックし続けているのです。もちろん、フロントではそんな素振りは見せないのですが、宿泊客がフロントでチェックインを済ませて部屋に入った「途端に」フロントから電話がかかってきます。

電話は「日本語」でかかってきます。

トゥルルルルルル。

わたし 「どうして知り合いのいない国で電話が鳴る?」(受話器を取る)
フロント「フロントですが」
わたし 「はい」
フロント「女の子呼びますか?」
わたし 「はい?」
フロント「どんな子がいいですか?」
わたし 「えーと・・・意味がわからないのですが」
フロント「料金は相談できるネ」
わたし 「いや、そうじゃなくて、何の話ですか?」

ときくと、ホテルの人のほうが意外な感じでこう言います。

「うちのホテルね、部屋に呼ぶサービスやってる。変なところに遊びにいくと危ないからネ。うちで遊ぶといいネ」

「うーむ・・・なるほど、いろいろとこういう複雑なことになっているのか」と私は感心しながらも丁重に断りました。

その後、会った人などにいろいろときいてみると、日本人観光客の多いソウルは、どこでもこんな感じのようです(あくまで 20年近く前の話で、今のことはわかりません)。

ちなみに、その時、私が止まったホテルはソウルのミョンドンという、日本でいえば渋谷とか原宿のような若者向けの繁華街のど真ん中にあり、しかも、そのホテルの隣は「ソウル警察」の本署で、いつも警官だらけの場所です。

警察の隣で、どう考えても合法的だとは思えないことをしていると。

まあ、とりあえずは、そういうような複雑な背景がありそうな「仁義なき営業」がおこなわれているという前提をほんの少し垣間見まして、「なるほどねえ。韓国ではこういう感じでアンダーグラウンドな事業的なことがおこなわれているみたいだね」と、田中くんと話しながら街を歩いていたのですが、夕方頃、ソウル市内の繁華街の外れの交差点のところで、三十代くらいの男性が声をかけてきました。

男性 「あれ? うちのホテルに泊まってる人じゃない?」
わたし「うちのホテルって、あなたはあのホテルのホテルマンの人?」
男性 「そう。何やってんですか?」
わたし「何って観光ですが」
男性 「女の子は?」
わたし「またそれかよ」
男性 「どう?」
わたし「あなたこそホテルの外で何してんの?」
男性 「これも仕事ね」

ということで、聞けば、彼は「路上で男性に声をかけて、お店を紹介する仕事」もやっているのだそうです。そのお店は、彼から話を聞けば聞くほど怪しげな感じのするものでしたが、行っていないので、よくわかりません。

そして、その場では、その男性とは別れたのですが、つくづくこのホテルマンとは相性がいいというか、因縁があるようで、その夜、私が屋台でお酒を飲んでいたら、その屋台に入ってきたのが・・・そのフロントマン。

男性 「あれ? こんなところで飲んでるの?」
わたし「うん。・・・てか、よく会うね」
男性 「こんなせこいところで飲んでちゃダメ。もっといいお店教えてあげるね」
わたし「こんなとこに、あんたも飲みに来てるだろ! ここでも仕事かい」
男性 「いやいや、もう仕事は終わったけど」
わたし「まあ、じゃあ、静かに飲ませてくださいな」

ということで、その日本語の上手なホテルマンと屋台で少し話をしたのですが、(当時の)韓国の男の人たちはなかなか大変みたいで、彼のその時の言葉をひとつの会話にしますと、こんな感じでした。

「誰もメインの仕事だけじゃ食べられないんだよ。オレもホテルの他に、夜は観光客にいろいろな店を紹介して手数料もらってるのと、あと、他にも貿易関係の仕事も知り合いとやってる。何を貿易しているかって? それは言えないよ。いろいろやらないと、食べていくこともできやしない。あのホテルも、家族を養っている男たちはみんな副業をやってる。韓国は仕事ひとつじゃどうにもならないんだよ」。

とのことでした。

ちなみに、その 1997年か 1998年頃の韓国の経済危機のひどさを知ったのは、「公園にたむろする人々の多さ」からでした。

冬だったんですが、ソウル市内の公園のベンチや地面にただただ座り続けるものすごい数の男性たち。

聞けば、仕事を探したくても、求人なんてないし、家にもいられないし(家族に対して昼間働いているフリをしている人も多いと言ってました)、行き場のない男性たちが日中ずっと公園で過ごしているのだそう。いわゆるホームレスではなく、夕方になればみんな自分の家に帰ります。

私は、日本では、あのような壮絶な失業している人々の集団をまだ見たことがないです。しかし、あの通貨危機の時のような状態になれば、どの国にでも起きうることだとも思います。

いずれにしても、職のある人にしても、上に書いた「収入と価格のバランスがとれていない韓国のシステム」を、いろいろな方法でしのいでいるらしかったですね。

それにしても、先ほどのホテルマンの人などもそうですけれど、韓国の人は、いい意味でいえばフレンドリー的な「ぶっちゃけ感」が強いですし、悪い意味でいえば、ぶっちゃけ過ぎている感じはあります。

当時は私はまだタバコを吸っていたのですが、タバコを吸っていて、

「タバコくれよ」

と韓国語で何度話しかけられたかわからないです。

日本で知らない人に「タバコくれ」と言われたことは一度もないですが、韓国では、たった数日で何度もそれがありました。

あと、ホテルで、暖房が壊れていたので、フロントに電話したことがありました。

わたし 「暖房が壊れてるんだけど」
フロント「はい?」
わたし 「だから、暖房が効かないんですが」
フロント「ケンチャナヨ(気にすんなよ)」

という応対で終わったことがありました。

まあ、言われた通り、気にせず、「部屋は寒いから外で遊ぼう」と、むしろ暖房が壊れていたほうが楽しいときを過ごせたのも事実ですので、フロントの言っていた「気にすんなよ」は正しかったことにもなりそうです。

あと、そのホテルでは、照明のつまみを引っ張ると、基盤ごと壁から落ちてきたりもしましたが、そのような「いろいろと壊れている」ことは、後にも何度も経験しましたので、あれが(あくまでも当時の韓国の)格安ホテルのスタンダードだということかもしれません。逆に、ホテルに泊まって壊れている部分がないと、何となく寂しい気分になったものでした。

 

結局、何度か集中的に行った後、その後は行かないまま何十年も経ってしまいました。もう韓国に行くことはないでしょうけれど(というか、もう海外に行くことはないような気もします)、田中くんと行った韓国は楽しかったです。というか、まあ、悪い思い出のある外国ってないのですけれどね。

今回は思い出話だけの記事になってしまいましたが、そろそろ本格的な年末ですので、2015年のことや、2016年のことなどに関しての記事も書きたいとも思っています。



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