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鏡の中から
前回の記事「AIの時代の悪魔の台頭」で、体調が通常ではない時には「変な夢を見ることが多い」ことを書きましたけれど、その頃見ていた夢に、
「鏡の外と鏡の中を出入りしている自分」
の夢がありました。
私はこの「鏡像人間」というテーマについて、十数年前から興味がありまして、もともとは、地球の生物全部が「左型のアミノ酸でできている」ことを知ったことによります。
これは、やや面倒な話ではありますけれど、
アミノ酸には《左型》と《右型》がある。自然に発生した場合は、どちらも均等になるはずなのに、地球の生物のアミノ酸は《全部、左型》
という事実があり、「地球の生命の最大の謎のひとつ」と言われているものです。
日本の国立天文台が 2010年に発表した「宇宙の特殊な光から地球上の生命の起源に新知見」というリリースで、
> 「円偏光」という特殊な光が、太陽系の 400倍という広大な範囲を照らしていることを初めて突き止めた。
ことを書いています。
この「円偏光」という光が、地球の生物のアミノ酸をすべて左型にした理由だろうと。
以下の記事に、2010年の読売新聞の記事などを含めて書いています。
In Deep 2018年9月28日
つまり、地球の生命がすべて左側のアミノ酸でできている、という事実は「地球の生命のアミノ酸(あるいはそれを構成する要素)がすべて宇宙から来た」という証拠でもあるのですけれど、このことはともかく、その時に思ったのは、
「だったら、この広い宇宙には、まったく逆の構成の生物だけの星、つまり、すべての生物が《右側のアミノ酸》でできているような星もあるのだろうな」
ということでした。
仮にそこに、姿が人間とまったく同じ生物がいたとして、それは、
「見た目は同じでも、まったく異なる人類」
となるはずです。
まさに、私たち(左型のアミノ酸だけの人類)と、その人たち(右側のアミノ酸だけの人類たち)は、
「鏡で向かい合っているようなもの」
となるように思ったのです。
まさに、鏡の向こうの人たちです。
しかし、私たちの一般的な生活では、「鏡の中の存在と物質的に接触することはできない」か、あるいは「接触してはいけない」というルールがあります。
そんなこともあり、鏡と人間については興味はありました。
先日、先ほど書きましたような鏡の夢を見たもので、少し検索していたのですが、出てくるのは「死と鏡の関係」についてのものが多く、それはそれで探しているものとは、やや異なる部分もないではないのですが、せっかくいろいろ出てきましたので、いくつかご紹介します。
まずは、ロジャー・シュルーターさんという人の(どたたなのかは存じないですが) 2017年の寄稿記事です。
前半、やたらとポップカルチャーの例えが多い記事となっていまして、あまり知らないものも多いですが、全部注釈しますと、注釈だらけとなってしまいますので、そのまま翻訳しました。
なお、今でも世界各地で「葬儀中などに部屋の鏡を布などで覆う」という習慣が広く残っていることを知りました。
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鏡と死にはどんな関係があるのだろうか?
What’s the connection between mirrors and death?
Roger Schlueter 2017/03/020
毎朝眠い目をこすりながら目の前で髭を剃るだけのありふれたガラスではなく、「見た」もののイメージを映し出すことができるものというアイデアは、クリエイティブな心にあらゆる種類の魔法のような可能性を刺激してきた。
これは、おそらく初めておとぎ話を聞いた時に覚えている概念だろう。『白雪姫』で邪悪な女王が「鏡よ鏡よ、壁の上の鏡よ、この中で一番美しいのは誰?」と尋ね、鏡が答えるシーンを覚えていらっしゃるだろうか?
言葉遊びはさておき、作家たちは、こうした潜在的な力についてしばしば考察してきた。アルフレッド・テニスンの『シャロットの女』では、主人公は直接キャメロットの人々を見ることができないため、鏡を使って人々の姿を見る。ハリー・ポッターのファンなら、「みぞおちの鏡」を覚えているだろう。この鏡は、使う人が自分の姿だけでなく、自分の願望(Erisedを逆から読むと)を見ることができるのだ。ザ・フー (英国のロックバンド)のファンなら、トミー (ロックオペラの主人公)にかかったあの鏡の呪いをよくご存知だろう。
大学を卒業してすぐ、友人のジョイスがカート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』を紹介してくれた時、個人的に一番好きな例を見つけた。この小説の中で、主人公のキルゴア・トラウトは鏡を「漏れ」と呼ぶのだが、それは彼が鏡を二つの宇宙の間にある穴、あるいは漏れだと捉えているからだった。
しかし多くの場合、鏡の力ははるかに邪悪なものだ。スティーブン・キングは『死神の像』の中で、エリザベス朝時代の珍しい鏡を題材に、その前に立つ人物が死神の姿を見て、その後、恐ろしい最期を迎えるという物語を紡ぐ。
キング氏らは、これらの物語を根拠もなく作り出したわけではない。鏡と死との関連に関する古くからの迷信に由来している。
これは世界中の文化圏で何世紀にもわたって受け継がれてきた慣習だ。例えば、ドイツやベルギーでは、弔問客は鏡を白い布で覆った。中国の様々な地域では、鏡はすぐに覆われるか、逆向きにされる。
『金枝篇』の著者ジェームズ・フレイザーは、以下のように書いている。
「ボンベイのスンニ派イスラム教徒は、死にゆく人の部屋の鏡を布で覆い、死体が埋葬のために運び出されるまでそれを取り外さない」
フレイザー氏によると、鏡を覆ったり壁に向けたりする習慣はイングランド、スコットランド、マダガスカル、クリミアでも見られるという。
これは明らかに、(米国の)独立戦争以前に新世界にもたらされた習慣だったようだ。1780年代にはすでに、プルーデンス・パンダーソンが死の直前に完成させた有名な刺繍作品「死すべき運命の最初、二番目、そして最後の場面」にこの様子が描かれている。この作品では、棺の上に白い布で覆われた鏡が縫い付けられていた。
1865年4月18日、エイブラハム・リンカーンの遺体がホワイトハウスのイーストルームに安置された際、会葬者たちは「部屋の両端の窓は黒い無地の布で覆われ、窓の間の鏡の額縁と大理石のマントルピースの上の鏡の額縁も同じ布で重く覆われていた」と、ウィリアム・コッゲシャルが 1865年に著した『リンカーンの旅』に記されている。
「額縁の重厚な金箔は完全に覆われ、鏡の板は白い布で覆われていた」
この慣習の背後には、一体どのような考えがあったのだろうか? それは誰に聞くかによって異なる。
死後に鏡に自分の姿を見た人は、自分も間もなく死ぬと信じられているという人たちもいる。1910年に中国でこの慣習を記録したレジナルド・フレミング・ジョンストンは、「死者が鏡に映った自分の姿に気づいた場合、自分が幽霊になっていることに非常に恐怖し、その姿にひどく失望するだろう」と記している。
さらに、ジョンストンは、「すべての鏡には、その表面に映るすべてのものを目に見えない形で保持し、蓄積するという不思議な力があり、死体や幽霊など不吉なものが鏡の前を通過すると、それ以降、その鏡は不運を永久に放射する存在となる」と指摘した。
1964年にノースカロライナ州で行われた同様の風習調査でも、様々な説明が明らかになった。死者の魂が自分の姿や土地、人、食べ物の絵を見ると、気が散って地上に留まりたがると考える者もいた。
また、死後 3日間は魂が家の中に留まり、その姿を映した鏡は曇ったり、最悪の場合、死者の姿を永久に映し出したりすると信じる者もいた。
1773年当時でさえ、この考えをかなり愚かだと考える人もいた。スコットランドの牧師ジョージ・ローはオークニー諸島を訪れた際にこう記している。
「家族の誰かが亡くなると、なぜ家の猫を全部閉じ込め、鏡を全部覆うのか、私には理解できません。また、そのことについて納得のいく説明もできません」
しかし、この習慣は特にユダヤ教において根強く残っている。死後 7日間続く喪の儀式であるシヴァの間、鏡はしばしば二つの理由で覆われる。一つは、弔問者が亡くなった友人や家族に集中するのを妨げる可能性を排除するためだ(例えば、化粧をチェックしたり、髪を整えたりする誘惑に駆られることを防ぐため)。もう一つは、シヴァの間、鏡に映った姿に悪霊が憑りつくという歴史的な信仰があるのかもしれない。
つまり、黒猫を避けたり、お正月にハムを食べたりするのと同じように、あなたの家族は兄弟の死後、さらなる不運を避けるために古くからの慣習に従っていただけなのだ。
ここまでです。
最初にこれを検索した際(”mirror image human in relation to death” / 死と関連した鏡像人間、という言葉で検索) ……今では Google で検索をすると、最初に AI が語り始めるというのが普通になっていますけれど、Google の AI は次のように述べていました。
部分的な抜粋です。
AI による「鏡と人間」
死と関連した「鏡像人間」という概念は、主に文化的伝統や民間伝承、特に死後に鏡を覆うという広く普及した慣習と重なっています。
この慣習は、死後の生物学的・科学的現象ではなく、魂と来世に関する古代の迷信や宗教的信仰に根ざしています。
鏡と死の文化的意義
様々な文化、特にユダヤ教(シヴァ神の喪に服す期間)、カトリック(一部の特定のグループ)、そしてヴィクトリア朝時代のイギリスにおいて、故人の家の鏡を覆うという慣習は深く根付いています。この興味深い伝統には、重なり合う複数の解釈があり、その多くは鏡面に宿る象徴的な力に関係しています。
民間伝承や伝統に見られる主な理由をいくつか挙げてみましょう。
魂が閉じ込められるのを防ぐ:死者の魂は来世への旅の途中で混乱したり迷ったりし、鏡の反射面に閉じ込められてしまう可能性があるという信念が広く信じられています。鏡を覆うことは、魂が邪魔されることなく安らかに旅立つことができるようにするための方法だと考えられています。
鏡は門:多くの古代文化において、鏡は物質界と異次元、あるいは霊界を結ぶ潜在的な入り口、あるいはポータルと考えられていました。鏡を覆うことは、霊が現世に侵入するのを防ぐ、あるいは死者の魂が鏡を使って現世に帰還し、生者を悩ませるのを防ぐための防御策でした。(略)
生物学における「鏡像」:別の概念
上記は「死後、鏡像の人間」の文化的な意味についてですが、純粋に生物学的な文脈において「鏡像の人間」とは、人の内臓が逆さまになっている非常に稀で特異な状態を指すことは興味深い点です。この状態は内臓逆位と呼ばれます。
驚くべき事例の一つに、ローズ・マリー・ベントレーという女性がいます。彼女は 99歳まで生き、彼女の内臓は典型的な人体解剖学のほぼ完全な鏡像でした。
この発見は、彼女が死後、遺体を科学研究のために提供した際に初めてなされました。これは、死そのものや霊的な来世ではなく、発達に関連する興味深い科学的現象です。
要約すると、死後の鏡像の人間という概念は、魂の移行に関する多様な文化的信仰に根ざした、説得力のある物語であり、儀式の力と死者を安らかな眠りへと導きたいという願望を強調しています。これは、人間が死という深遠な神秘に向き合うために象徴をどのように用いているかを示す力強い例です。
Gemini
このローズ・マリー・ベントレーさんという人に関しては、2019年頃に、よく報じられていました(例:BBC「99歳まで長生きした米女性、内臓が左右逆だったことが判明」)。
AI といえば、最近、
「人間の動脈の血液と、静脈の血液は磁性として逆の性質を持っていて、つまり《動脈血と静脈血は鏡像のようなもの》」
だということを知りました。
以下に一部あります。
・「静脈の血が常磁性」で「動脈の血は、反磁性」だと初めて知った
nofia.net 2025年12月17日
まあ、このことはともかく、「自分の姿を見る」というのは、夢を除けば、現実社会では、鏡(あるいはそれに類したもの)を見るくらいしか方法はないわけですが、小説『ドリアン・グレイの肖像』というような「肖像画」というのもあるでしょうが、リアルタイムではないですし。
自分の本当の姿としての鏡像
そういえば、『ドリアン・グレイの肖像』というのは、人間のほうが欲望と悪徳に満ちていく中で、本人の姿ではなく、肖像画の姿のほうが醜くなっていくというような話だったような気がしますが、この、
「醜くなった自分(のようなもの)を見る」
ということについて、ルドルフ・シュタイナーも著作『いかにして高次の世界を認識するか』で述べています。
この本は、霊的な訓練(神秘学の修行)を通して、高次の世界を認識していくという方法が書かれているもので、まあ…私も含めて、一般的な生活とは関係のない内容ですが、訓練の「最終段階」において「境域の守護者」というものが出てきます。
その姿は、「非常に醜く、悪魔のような外見」なのだそうですが、これは自分の姿の反映でもあるらしいです。
シュタイナーさんは、以下のように書いています。
『いかにして高次の世界を認識するか』 – 境域の守護者より
神秘学の学徒が「境域の守護者」の言葉に含まれている要求にこたえるだけの力を自分のなかに感じることができないときには、「境域の守護者」はそれ以上先に行かないように警告します。
「境域の守護者」がどんなに恐ろしい姿をしているとしても、それは学徒自身の過去の人生の結果であり、学徒の外で独立した生活を営むようになった学徒本人の特性なのです。意志と思考と感情がばらばらに解き放たれることによって、学徒の特性は独立した生活を営むようになったのです。
このように、自分自身が霊的な存在を生み出した、と初めて感じることが、すでに学徒にとって意味深い体験になります。このとき学徒はまったく恐怖を抱かないで、恐ろしい姿を見ることに耐えなくてはなりません。学徒は「境域の守護者」と出会った瞬間に、「私には『守護者』の姿を美しいものに変える仕事を完全に意識的に引き受けるだけの力がある」と感じることができなくてはなりません。
しかし、これがほとんどの人たちの「心の奥底の実相」だとも思います。つまり、どんなに素晴らしく生きているように見える人でも、温厚だったり優しい心のように見える人たちであっても、
「心の中には(自分の真の存在を醜くしてしまうような)抑圧された感情がドロドロに醜く溜まっている」
のだと。
以前から、「原因のわからない痛み(腰痛など」と「心」の関係を書くことがありましたが、心との関係というようり、「心の奥底に溜まったドロドロのもの」が痛みを誘発しているという考えが、今ではわりと普通の観念となっています。
最近では、以下の記事で再度取りあげました。
In Deep 2025年11月3日
人はふだんは自分の心を客観的に眺めることがないですので、「鏡のように」それを見られるのだとすれば、それは痛みだったり、(シュタイナーの言うような形而上的な存在も含めての)醜い自分の姿だったりするのかもしれません。
これらは、鏡の中の自分とは異なった概念かもしれないですが、死や混乱が社会に広がる中では、そういった幻影を多く目にすることもあるのかもしれません。
まとめようのないものなのに、妙に長くなってしまいました。
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