2019年5月16日の米USAトゥディの報道より
・Toddler missing for 3 days found alive on 50-foot cliffside near strip mine
またも信じられないほど不可解な子どもの生還が
謎に包まれた「子どもたちの失踪と生還」については、今では In Deep のテーマのひとつともなっています。
前回このことを取り上げさせていただいたのは、今年 1月のことで、米ノースカロライナ州の森で「 3歳の男の子」が突如行方不明となり、洪水と氷点下の気温という環境の中、防寒用具も食べ物もない状態の中で「 2日後に無事に見つかった」ことを以下の記事でご紹介しました。
子どもたちを守る「黒い存在」の正体 : 氷点下で洪水状態の森で行方不明になり「2日後に傷ひとつなく発見された3歳の男の子」は「2日間クマと遊んでいた」と述べた
先日の 5月15日、アメリカのケンタッキー州で、またも「子どもの生還」がありました。
今回も 3歳の男の子で、自宅から突如行方不明となり、3日後に無事に発見されたのですが、この子が発見された場所の環境は、これまでの話に出てきた以上に厳しいもので、通常の考えではまったく理解できない場所で発見されています。
それは、
「大人でも歩くのが厳しい環境の中にある15メートルの高さの崖の急斜面」
で「無事に」発見されたのでした。
捜索隊が立ち入ることも難しい場所で、ドローンによるカメラ捜索などで見つかったようです。救出にはヘリコプターが使われていたと見られます。
そんな場所の崖の側面に、生後 22ヵ月の子どもが、どのようにして行くことができたかという理由わからなくとも、確かにそこで見つかったのです。
まずは、報道をご紹介します。
基本的には、冒頭の USAトゥディの記事ですが、ケンタッキー州の地元テレビ局の報道の内容など、いくつか情報をプラスしています。
Toddler missing for 3 days found alive on 50-foot cliffside near strip mine
USA Today 2019/05/16
三日間行方不明だった幼児が露天掘り鉱山近くにある高さ15メートルの崖の急斜面で生きて発見された
ケンタッキー州警察は、5月15日、三日前から行方不明になっていた 3歳の子どもが無事に発見されたと発表した。生まれて 22ヵ月目の男の子だ。
男の子の名前は、ケネス・ハワードくんで、5月12日に、ケンタッキー州の農村にある自宅から忽然と姿を消し、警察や地元のボランティアたちによる懸命の捜索が続けられていた。
州警察は、ハワードちゃんが 15日の午後 2時直前に発見されたとツイッターで述べた。
発見されたのは、露天掘りの鉱山のある地域で、発見された後、男の子は、すぐに州の救急病院に搬送された。
地元のテレビ局 WYMT の報道によれば、男の子は、自宅から 530メートル離れた場所にある、高さ 15メートルの崖の急勾配の場所にいたという。
テレビ局によれば、現在、男の子は、脱水症状の治療を受けている。
郡の緊急管理局の責任者は、最初、捜索エリアを自宅から 800メートルとしていたが、その後、約 1.6キロメートルに拡大した。しかし、生い茂った草などを伐採しながら進まなければならないほど足下が悪く、捜索は難航していたと述べている。
緊急管理局の責任者は、現場は岩が多く、徒歩での捜索が難しいため、捜索には、犬、バギー車、ヘリコプター、あるいは、ドローンによるカメラ捜索を使用したという。
ケンタッキー州警察のスポークスマンは、子どもの発見前から、この失踪に犯罪の形跡はないと述べていたが、子どもの父親は、子どもが無事に戻ってきた場合、それをなしえた人物に 5000ドル (55万円)の報奨金を出すと述べていた。
子どもの発見後、地元の消防署長補佐のサウス・マゴフィン氏は、テレビ局に対して次のように述べた。
「たくましい子です。あんな小さな子どもが…。私自身、この救出劇を信じることができないほどです。どのような感謝の言葉を皆さんに述べればいいのかもわかりません」
「しかし、ケンタッキー州からだけではなく、他の州からも、たくさんの人々が男の子の捜索のためにこの場所へやって来てくれていたことを知っています。それが、私たちの作業を助け、男の子が無事に発見される助けとなりました」
ここまでです。
男の子が見つかった「高さ 15メートルの崖」という状況もすごいですが、この崖の周辺の状況も、この記事から推測できます。
> 生い茂った草などを伐採しながら進まなければならないほど足下が悪く
> 捜索現場は岩が多く、徒歩での捜索が難しい
> 犬、バギー車、ヘリコプター、あるいは、ドローンによるカメラ捜索
これらが示すことは、このあたりの環境が、
「レスキュー隊員のような屈強な男たちでさえ歩くことがままならない」
という場所であることだと考えられます。
下の写真は、テレビ報道での、捜索の状況です。
子どもの捜索をおこなうレスキュー隊員たち
・WYMT
・WYMT
・WYMT
こういう環境の中を、3歳の男の子が、自宅から 500メートル歩いて、そして「 15メートルの高さの崖の上に行った」と。
3歳の男の子というのは、どのくらいの体格で、どのくらいの雰囲気を持っているかといいますと、下の救出された比較的直後の写真でおわかりかと思います。
中央で、男性に抱き抱えられているのが、救出されたハワードちゃんです。
救出された直後のケネス・ハワードくん
・WYMT
どちらかというと、赤ちゃんに近いと思うのですけれど、興味を持ちまして、発見された場所を知りたいと調べてみました。
実際に発見された場所そのものは、写真などで公表されていない(というより、カメラマンが行けるような場所ではないようです)のですが、場所は、ケンタッキー州のフロイド郡という場所で、そこにはいくつかの「露天掘りの鉱山」があるのですが、そのひとつは下のようなものでした。
どうやら、このような鉱山の「崖」で発見されたようなのです。
米ケンタッキー州フロイドの鉱山の様子
参考までに示しますと、「 15メートルの高さの崖」というのは、以下のような感じです。こちらは海の崖ですが、人との対比でわかりやすいと思います。
高さ15メートルの崖というのはこのくらいです
・50-foot Cliff Jump in Malapascua, Cebu
男の子は、このような崖の「急斜面にいた」ようです。
報道に出てくる消防署長補佐の「信じられません」という言葉は、現場の状況を知っていると、そう思うしかないのだと思います。
というか、「どうやって、そこまで行ったのか」ということ自体がわかりようがないです。
犯罪性はないとのことですが、仮に犯罪性があったとしても、「こんな場所に、子どもを連れていくことができる人はそうそういない」はずです。
こういう「そもそも、どうやってそこに行ったのか」ということがわからないことについては、先ほどふれました記事での 1月の米ノースカロライナ州の 3歳の男の子の失踪でも同じでした。
その記事でご紹介した報道には以下のようにありました。
ケイシーくんの捜索には、何百人ものボランティアと捜査関係者が加わって行われた。
しかし、雨により洪水が発生している場所や、地盤が悪い中でシンクホールが発生している場所が点在し、保安官は「ケイシーくんが行方不明になった場所は、訓練を受けた捜索のプロでも安全に進むことが難しかった」と述べている。
訓練を受けた人たちも歩くことが難しいような場所を何百メートルも進んでいるという点は同じです。
なお、これまで記録されている、同じような「子どもの謎の失踪と生還」については、およそですが、以下のような共通点があります。
記録に残る子どもの奇妙な失踪と生還例に共通する事柄
・ほんの短い間に姿を消している。場合によっては瞬間的に姿を消している
・ほとんどの場合、親や親族がすぐ近くにいる状態
・そもそも、行方不明になる理由が見当たらない
・この年齢の子どもが耐えられるとは思えない苛酷な環境の中で、数日を過ごし、元気に発見されている
・しかも、ほとんどの例で食べ物も飲み物もいっさい持たない状態
・いくつかの事例では、この年齢の子どもが移動できるとは思えない距離を移動している
今回のケンタッキー州の男の子の例でも、大体これが当てはまっているように思われます。
なお、1月のノースカロライナ州の男の子は、発見された後の聞き取りで、
「 2日間、クマと遊んでいたの」
と述べています。
この「クマ」が何かはわからないのですけれど、どうやら男の子は、「誰か」といて、その「誰か」のお陰で助かった可能性が高いように思われます。
しかし、その「誰か」にしても、洪水と氷点下の環境下で無事にいられる「誰か」ということになり、この「誰か」が、どんな「誰か」なのかということに大きな疑問があります。
今回のハワードくんの例では、報道では、発言などは記されていませんが、誰かの助けがなければ生還できない、というより「そもそも、そんな場所に行けない」ことは確実だと思われます。
この「移動に関しての不可解」については、子どもたちの失踪と発見において、最も重要な部分かもしれません。
In Deep で、初めて「謎の失踪」について取り上げたのは、2016年の以下の記事でした。
デビッド・ポーリデスという、かつて警察関係者だった人物が、北米での行方不明例を調査している中で、2000例を超える「不可解な失踪」をまとめたことに関しての内容でした。
アメリカの行方不明者たちのいくつかで共通している「異常に不可解」な事実から推測できる「全世界に広がる失踪システム」。目的や方法は不明
そこで紹介した記事の中に、以下のようなくだりがあります。今回のケンタッキー州の男の子の「崖で見つかった」という事例と似たものかもしれません。
1957年の米国の2歳の子どもの失踪と生還の事例
ポーリデス氏は、2歳の子どもの行方不明ケースで見られた「移動」に関しての不可解な状況を例としてあげた。その幼児は、まだ大きな移動ができる年齢ではないにも関わらず、広大な距離を移動していた。
それは 1957年7月13日に、2歳のデビッド・アレン・スコットちゃんが、シエラネバダ山脈のツインレイクス地域で行方不明になったケースだ。スコットちゃんの父親は、子どもの姿を見てからキャンピングカーに入り、すぐに出てきたが、その時にはすでに子どもの姿はなかった。
この地域は視認性の良い場所だったにも関わらず、捜索隊は3日後までスコットちゃんを発見することができなかった。
その3日後に、子どもは無事に生きて発見されたが、見つかったのは、近くの山腹をのぼった場所だった。
「その子は、まだよちよち歩きでした」とポーリデス氏は言う。明らかに、その子どもが自力でその山に移動したわけではないことは明白だった。
なお、この不可解な失踪に関して、特に子どもたちの失踪について書いた記事は、以下のようなものとなります。
・アメリカの行方不明研究者の事例にある失踪あるいは「消滅」の強烈な実態:生還者たちが語る状況はまるで「異次元とのコンタクト」にも似て
In Deep 2016年9月7日
・「この男の子は絶対に生還する」と私に確信させた過去の世界中の「2歳と3歳の子どもたちの不可解な行方不明と発見の事例」を今再び思い出す
In Deep 2018年8月15日
これらの出来事について、合理的な考えで疑問が解ける余地のある部分はほとんどないと思われます。
要するに「不可解」としか言いようがないのです。
先ほどリンクしましたノースカロライナでの子どもの失踪に関する記事の最後の文章は、以下のようなものでした。
この世には合理的に考えられるものと、どうしてもわからないものがありますが、奇妙な失踪と発見の事例は、その中で最も不可解なものに思えます。
そして、何度も何度も世界中で起きていることでもあり、おそらくは、またいつかはどこかで起きるものだとしか言いようがないのです。
この部分は何度でも繰り返して書くしかないのかもしれません。
つまり、「またいつかはどこかで起きるものだとしか言いようがない」と。
なお、「子どもという存在は、《大人に見えないもの》を見ている」という可能性に関して、以前、メルマガで取り上げたことがありました。
メルマガのタイトルは、「大人が子どもを尊敬するためにも「子どもは異次元と通じる救世主」であることを知るべき」というものでしたが、その中で、今回のような子どもの失踪と生還の事例と共に、
「子どもたちが、大人に見えないものを見ている数多くの事例」
をご紹介しました。
たとえば、以下は、あるアメリカ人の 3歳の女の子の例です。
エリック某氏の3歳の娘さんの事例
エリック氏の娘は 3歳になってから、「クローゼットの中にジョナサンという男の子がいるの」と話すようになった。
その子と話すのが楽しいとも言っていた。
しかし、彼女に兄弟はいないし、どうやら「想像上の友だち」ということのようで、父親は、多少奇妙な話だとは思ったけれど、3歳くらいならあることだろうと、さほど気にはしなかった。
しばらくして、エリック氏の奧さんが妊娠したために、家族は大きな家に引っ越すことになった。
その後、前の家の新しいオーナーから連絡があり、クローゼットの裏側に落とし戸があり、そこに「箱」が置いてあって、中にいろいろと入っているので、それらをどうしたらいいかという電話だった。
箱を受け取ると、箱の中には、見知らぬ赤ちゃんの絵が何枚かあり、赤ちゃんの服も何枚か入っていた。
箱には「ジョナサン」と書かれていた。エリック氏は、ここで初めて不気味な気持ちに包まれた。
こういうような「死者かもしれない」というような「存在」と遊ぶ子どもたちが、想像以上に多くいるようなんですね。
こういうのを「幽霊」とか、そういう概念でまとめてしまうのは問題があり、まあ、幽霊という概念が何かは私にはわかりませんけれど、そういう伝統的なオカルト的な存在なら、「子どもにも大人にも見えるはず」だからです。
そうではなく、「住んでいる世界(あるいは宇宙)」の感じ方の違いに関係する話なのかもしれないなとか思うこともあります。大人と子どもでは、住んでいる世界(宇宙)の感じ方が違うのかもしれないというような。
3歳くらいまでの子どもは、もしかすると、完全な意味での「物質社会の住人ではない」のかもしれないな、とか。
単純に書けば、
「子どもは、この世界と他の世界を共有しているかもしれない」
と。
そういう意味では、小さな子どもは、「死後という概念と、死者という存在の意味を知っている」のかもしれません。
成長とともに、その世界を感受する機能が消えていく。
おそらく、3、4歳を過ぎるころ、日本では、幼稚園などという概念が出てくるころには、他の世界との接点は消えていく……のかもしれないと。
そういえば、イエス・キリストは、「子どものような心にならなければ、誰も天国には行けない」と述べていたことが聖書に書かれています。
今回は、その部分を抜粋して、締めさせていただこうかと思います。
いずれにしても、理由はわからないながらも、
「どんな子どもでも、それが子どもならきっと無事に戻ってくる」
人生の中でそう確信して生きることは、それほど悪いことではないと思います。すべての現実がそうではないとしても。
新約聖書 マタイによる福音書 18章 01-06節
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 言われた。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。