最近、ボー・イン・ラー氏の『人間についての書』というものの章をいくつかご紹介させていただきました。女性とか男性とか子どもとか、なかなか興味深いものもありました。
ご紹介させていたただいたのは、以下の章です。
・ボー・イン・ラー『人間についての書』よりセクション「男と女の謎」
・ボー・イン・ラー『人間についての書』よりセクション「結婚」
・ボー・イン・ラー『人間についての書』よりセクション「子ども」
この『人間についての書』についてご紹介するのは今回が締めとなると思いますが、
「新しい人類」(New Mankind)
というセクションをご紹介させていただきます。
やはり、わかりやすいものではないですが、「新しい人類がそのうち出てくる」ことを述べています。
そして、いずれにしても、今の物質的文明の支配体系やシステムは、未来永劫に存在し得るものではなく、これからも古代文明のように何度も何度も滅亡し続けるのだろうということも書かれています。
まずは、ご紹介します。今回は太字は入れていません(どこを強調していいのだか、よくわからない)。
そのあとに、少し注釈を書かせていただきます。
ボー・イン・ラー『人間についての書』 - 「新しい人類」
THE BOOK ON MAN by Bô Yin Râ -- Part Seven: "New Mankind"
Richard C. Cook 2026/08/05
ボー・イン・ラー(1876年 - 1943年)
人間がこの世でいかなる共同体においても共に暮らす限り、他者と結びつく共同生活に満足しない個人は必ず存在するだろう。しかしながら、人間は決して完璧な政治形態を見出すことはないだろう。
常に、ある人が持つ利点は、別の人にとっての不利益となる。そして、たとえそれが他人に不利益をもたらすと認識していても、自らの持つ利点を進んで手放す人はほとんどいない。
すべての人を愛で自由に結びつける「神政政治」がこの地上に成立することは不可能だ。なぜなら、かつて人間自身が自らの力に恐れを抱き、地上の支配権を失った時、この地上は神から奪われてしまったからだ。
地上におけるすべての人々の幸福がどれほど理論的に謳われようとも、現実はそれらの理論を無関心に嘲笑うだろう。あらゆる「共和国」には「王」と「君主」が存在し、「専制君主」は自らの権力と恣意性が通用しない領土が自らの支配下に存在することを決して阻止できないだろう。
「万人の評議会」から、かつて世界の偉大な「王」たちが制定した賢明で崇高な法律を超える法律が生まれることは決してないだろう。
自然が混沌に秩序をもたらし、指導者のいないままでは自らも他者も繁栄をもたらせない人々を導く才能と力を授けた人物は、ごく少数しか存在しないだろう。
さらに稀なのは、生まれながらにして、自己制御ができない、あるいは自己制御をしようとしないあらゆるものを支配する権利を自然から授けられた人々である。
宇宙のあらゆる領域において、それが物質的感覚であれ精神的感覚であれ、上位と下位の「階層」のシステムが支配しており、その力と影響力が及ぶ範囲が広がるほど、有効な力の数は減少する。
地上における人間の共同生活もまた、この法則に従う。善意をもって「平等」を創造しようとするいかなる恣意的な意志も、本質的に最初から失敗する運命にある。
それは、自然がその法則を認識できない、あるいは認識しても無視するあらゆる人間の知恵のために常に用意している、数々の失望の道を辿ることになるのだ。
地球上のあらゆる人間社会は、自然の法則に従って階層と階級の上に成り立っている。もし意識的にそれを求めなければ、自然は自らの法則に従って、その鉄則が要求する犠牲者の数など気にすることなく、それを構築してしまうだろう。
宇宙の普遍的な法則が命じるところへは、回避も代替ルートも存在しない。
王宮に生まれたからといって「王」になれるわけではないし、国民が自分の指導の下で幸せになることを願う哲学者のあらゆる知恵をもってしても、彼を「政治家」にするわけではない。
「王」を生み出す神秘的な力は、何世紀にもわたって王朝の中に保持されるかもしれない。しかし、かつて王族の性格を形成していた衝動が、その行動と生活の中で尽き果てた瞬間、それは消滅しなければならない。地上において、他の権威によって消滅したものを代替できるものは何もない。こうして、空虚な「王権」が守られることはないのだ。
しかし、領地を失った「王」が必ずしも王家の毛皮を身に着けるのをやめたわけではない。 --- その逆もまた然りである。多くの王位は、「王」の権力の敵によって倒されたが、その敵は自分がまだ領地を見つけていない「王」であることに全く気づいていなかったに違いない。 ---
社会構造に関する限り、「進化」という概念を信じることは許容できる。なぜなら、人間の目は、身近な環境を「世界」と見なしがちだからだ。同様に、人間は自分が観察できる時間を「永遠の秒数」と捉えることに苦労する。
地球上で空間と時間をより広く知覚できる少数の人々は、あらゆる明白な矛盾にもかかわらず、地球上の人間が「政治体制」に関して「進化」とみなすものはすべて、単なる虚栄と幻想であることを認識しなければならない。
数千年後、人類は今日繰り広げられているのと同じ、あるいは数千年前に文明が崩壊し、考古学者によってまだ何の証拠も発見されていない時代に繰り広げられたのと同じ覇権争いで、自らを滅ぼすことになるだろう。
時として「民衆」は、自らが「支配者」となり、自らを「支配者」として統治できるという幻想に陥るだろう。またある時には、真の「王権」とその神秘的な力を全く欠いた王たちが、何の権利もない王位を武力によって確保しようとするだろう。
幾度となく運命は変わり、霊的な洞察力がそれを阻止しない限り、地球上に残された最後の人間は互いに殺し合うことになるだろう。
なぜなら、最後の動物ははるか昔に屠られ、最後の植物は砂と氷の中で滅びたからだ。この地球は凍りつき、地上の人間の永遠の「救済」は、新たな世界周期を目撃することになるだろう。
「最後の人間」に災いあれ。
地上の人間が、すべての「あなた」は、自分自身の中に自分を探し求める「私」であると、時が経つにつれて悟らない限り、カインとアベルの神話は千回も繰り返されるだろう。
(※ 注) カインとアベルの神話は、旧約聖書の『創世記』に登場する人類最初の人間アダムとイヴの息子たち。人類最初の殺人劇。
霊とその伝達によって時空の広がりが明るく照らされたごく少数の人々は皆、私と同じ願いを抱いている。――今日あるいはこれから先、地上で永続的な幸福を願う人々のうち、たった一人でも、私たち少数の、慈悲に圧倒されそうなほどの私たちが、はっきりと見ることを教えなければならないものを見ることができるようになりますように!
彼はきっと、恐怖に麻痺し、深い恥辱に苛まれ、未来への夢を魂の奥底に葬り去るだろう。そして、魂が示し、錯覚という幻想に囚われながらも、この宇宙の粒子である「地球」で形を与えられると信じていたものを、二度とこの地上で求めることはないだろう。
しかしながら、これらの先見者たちの幸福な夢は真実に満ちている。ただ、彼らが人類に願う幸福は、地上では決して実現できない。地上の手段では決して実現できない。地上の人間が夢の形で享受できるものではないのだ。
それゆえ、私たちはこれまでとは異なる「新しい人類」を求めよう。それは、地上に住み、この世の生活を可能な限り楽しむ一方で、もはや「この地上のもの」ではなくなった人類である。
地上の幸福という幻想に惑わされた「慈善家」たちに友愛の精神をもって支援を提供するには、人々をより深い幸福の源、より豊かに流れ出る源へと導かなければならない。
彼らが漠然と感じ取り、不毛な哲学に押し込めようとする真実を、人類にとって有益なものにするためには、彼らを自分自身と彼らの夢から解放しなければならない。
真に正義の人であっても、すべての人に正義をもたらすことは不可能だが、それでも一人ひとりが正義を目指して努力することで、神の力をもってしてもこの世から消し去ることのできない不正を犯そうとする意志に対抗することができる。
「人類の幸福」とは、個人の幸福であり、それは各個人の魂の中でしか達成できないものである。
いつの日かこの地球上に現れるであろう「新しい人類」は、もはや幸福が外部からもたらされるとは決して期待しないだろう。
彼らは、この外界の事物は、私たちがそれらをどう捉えるかによってのみ決まるものであり、私たちがそれを許容する限りにおいてのみ、それらが私たちを決定づけることができるのだと認識するだろう。
個人の内面世界は、平和と純粋な幸福の世界とならなければならない。地上において、人間が真の幸福を見出すことができるのは、まさにこの内面世界においてのみである。
個人の幸福をどのように見出すかは、これらの書物に記された教えによって示されている。
彼らの助言に従うことで、外界での生活もはるかに幸福になることを、この外界におけるあらゆる存在は、内なる力の目に見えない影響の証人に過ぎないと一度認識した者なら誰も否定しないだろう。
地上での外的な生活において真の幸福をもたらすものはすべて、内面から芽生えなければならない。
外界には、魂の奥底にのみ根ざした力の影響が及ぶ領域のみが存在する。
この世の世界で物事を改善しようとする者は、幻の成功しか得られず、束の間の幸福しかもたらされない。そして、彼らが成し遂げたことは、この世でそれらを維持するために必要な本質的なエネルギーが欠けているため、すぐに崩壊する運命にある。
この『人間についての書』が、善意に満ちていながらも、いまだに「人類の幸福」を外の世界で達成しようと望み、自らの力を無駄にしている多くの人々の目を開かせてくれることを願っている。
夜明けから夕暮れまで救いと助けを求めて見張り続ける人々が、ついに悟りを得られますように!
「外を見つめる」ことが「内を見つめる」ことに取って代わられた時、初めて人類の外的な生活もまた、人間にとってふさわしいものとなる。
そうして初めて、現在主流の方法では霧や靄の中に消え去ってしまう危険性しかない「未来への夢」の一部が実現可能になるのだ。
「古代の人類」は、外部世界を自分たちの意のままに操ることに非常に長けていた。しかし、この「強制」は外部からのみもたらされるため、自らが解き放った力に屈する危険を冒すことになる。
「新しい人類」はもはや外部から物事を押し付けようとはせず、内部からより効果的に物事を導く方法を学ぶだろう。
「新人類」に属するすべての個人には、かつて「旧人類」が「精神的業績」として誇らしげに称賛したあらゆるものを凌駕する力が顕現するだろう。しかし、彼らは、稲妻の力のように全世界を満たす「精神」を、いかなる思考も決して理解できないことに気づいていない。それは思考によっても、外部の機械によっても、決して人間に役立つことはない。多くの「思想家」の「精神」が自らの現実に対して仕掛ける嘲笑そのものを、それは嘲笑うのだ。
あらゆる幻想から遠く離れて、私は確信している。真の精神は、一夜にしてあらゆる場所に姿を現すことはできない。なぜなら、古来より人類は、現代の人間が自らの内なる深淵、すなわちあらゆる存在の源泉へと至る道筋を、組織的に塞いでしまったからだ。
しかし、いつの日かこれらの源泉は再び開かれるだろう。その時、そこから力を引き出すことができる者は、真の精神の力によって、今日、理性的な思考力をもってしても無駄に追い求めている多くのことを成し遂げることができるようになるだろう。
しかし、それでもこの地球は「天国」にはならず、制御不能な力が大多数の人々を束縛し続けるだろう。
「新しい人類」は、選ばれし者たちの領域となるだろう。そして、一部の人々はすでに、自らの内にこの領域を築き始めている。
この世代でさえ、その最初の痕跡を経験する可能性がある。そして、私たちの孫世代たちは、いつか必ずその力を知ることになるだろう。
ちょうど私たちが今日、古代の人類が自然から奪い取ったと信じていた力、つまり外部の力を巧みに利用して自然を自らの目的に利用してきた力を知っているように。
古代の聖典は、排除できない外的勢力の「光の子ら」の王国と「この世の子ら」の王国の両方を正しく説いている。これらのことを真に知っていたある者はかつてこう言った。「この世の子らは、その世代において光の子らよりも賢いのだ!」
「光の子ら」が、より「賢明」になり、「この世の子ら」によって縛られている呪縛を解けるようになることを願うばかりだ。
ここまでです。
ラストにあります「この世の子らは、その世代において光の子らよりも賢いのだ」は、聖書『ルカによる福音書』16章8節にあるイエスの言葉だと思われます。面白い章ですので、少し長めに引用します
ルカによる福音書 16章 5-9節
それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
このように、借用書の数値を勝手に書き換えたことについて、イエスは「この不正を褒めている」のですね。さらに「この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である」と述べている。
この世の子らが自分の将来のために熱心に先回りして準備するその抜け目なさを、神の国に生きる者も良い意味で見習い、知恵を持って生きるべきだと述べています (神の国に生きる者には借用書はないでしょうけれど)。
もちろん、イエス・キリストは不正を勧めているわけではないにしても、
「もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか (ルカ 16章 11節)」
というようなことも述べています。
なかなか興味深い下りです。
なお、ルイス・ブニュエル監督による「キリスト教の異端史や聖書の挿話をベースにした」スラップスティック映画『銀河』(1968年)には、イエスが、このルカによる福音書のこの借用書の部分をワインを飲みながら聴衆に語るシーンがあり、聴衆たちもまたワインを飲みながら、大受けするシーンが描かれています。
イエスによるルカ伝を聞いて大はしゃぎする酔っぱらいの観衆たち(右に立っているのがイエス)

『銀河』1968年
私はこの銀河が大好きで、何度も見ました。この画像はビデオ版のもので、画質が悪いですが、アマゾンを見ると、画質のきれいな DVD 版も出ているようです。奥様と見ると、奥様は必ず「こんな訳のわからない映画見たことがない」と言ういうような映画ですけれど。
話が逸れましたが、ボー・イン・ラーは自分の孫の世代には(普通に考えれば 20世紀の終わりくらいですかね)「新しい人類」が出てくるのだろうと述べています。
そうではない場合、
> 幾度となく運命は変わり、霊的な洞察力がそれを阻止しない限り、地球上に残された最後の人間は互いに殺し合うことになるだろう。
と記していますが、これは、ルドルフ・シュタイナーも同じようなことを述べていたことを思い出します。
どれでしたかね。
ああ、これですね。1924年の講義にあります。
1924年7月のシュタイナーの講義『宇宙と人間の発生ならびに人類文化の進化の歩み』より
人々は、「世界戦争のようなものは、かつてなかった」と言います。人間がこのように切り裂かれたことは、今までありませんでした。
しかし、悟性(※ 知性)が再び精神を得る方向に進まないと、もっと大きな戦争が勃発するでしょう。ますます野蛮な戦争が勃発するでしょう。そして、人間は根絶やしにされるでしょう。
ねずみ小屋にとじこめられた二匹のねずみが互いに食い合って、最後には二本の尾しか残らなかったというのと同じ事態となるでしょう。
これはオーバーな言い方ですが、人類はもはや人間がいなくなる方向に向かっています。人類の本来の歩みを知ることは非常に重要なのです
人類の知識や知性(悟性)が唯物論に偏り、霊的な精神性を失ったことが第一次世界大戦の引き金になり、これを正さない限り、さらに巨大な破滅が訪れるとシュタイナーは、いろいろな講義や書籍で警告していましたが、その後、第二次世界大戦が起こり、それを含めたありとあらゆる戦争が世界中で起こり、今は、もしかすると、第三次世界大戦に向かっています。
そして、知性が唯物論に偏り続けている限り、それは終わらず、
「人類はもはや人間がいなくなる方向に向かっています。」
というような状態なのかもしれません。
さきほどの 1924年の講義は、ブログでは「日本のこの100年間とは何だったのか」(In Deep 2017/07/24)で抜粋していますが、この講義が掲載されている日本語の書籍は『地球年代記』というものだと思います (Amazon)。
ボー・イン・ラー氏の内容から少し離れた話となってしまいましたが、しかし、そんなに離れてもいないのかもしれません。
今後、繰り返される「かもしれない」物質的な戦争の中で、私たちが何に気づいていくかということが大事なのかもしれないですし、あるいは、そんなこと(第三次世界大戦など)に行き着く前に戦争など起こらない社会になるかどうかという瀬戸際なのかもしれません。
とはいえ、そうなることは、現状ではなかなか難しそうです。
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