「今やテクノロジーが、神の代替物として見事に機能している」
イタリアのサイトを見ていましたら「それに触れた者は死ぬ!」というタイトルの記事がありました。
タイトルに興味を持って読んでみましたら、これが何となく難解というのか、わかりやすくはないのですが、
「ひたすら現状の人類の価値観を悲観している」
というようなネガティブなものでしたが、しかし、何となく納得できる部分もないではなかったので、ご紹介させていただこうと思います。
おそらくは、私たち人間が生きているこの地球というのか宇宙というのは、本来的には「魔法的」なもので、
「すべてが科学的定義で証明できるものではない」
というあたりのことに対しての悲観で、記事には多くの過去の科学者や哲学者などの名前がでてきますが、たとえば、ガリレオに関していえば、
> ガリレオは、科学的方法の定義によって、他の誰よりも、真理は物質科学にあり、証明できないものは虚偽であるという考えを広めた。
というように記されていて、こういう歴史の中の積み重ねの中で、「この世の認識が本来的ではないものへと定着していった」というようなことを書いているようです。
もちろん、現代の社会を生きる上で、科学的方法の定義や「物質的科学の理解」は必要なことでもあり、通常の生活に約立つ場合も多いです。
それでも、「それは本来的ではない」と。
また、本文中にある、
「今やテクノロジーが、神の代替物として見事に機能している」
という記述も気に入った部分でした。
おそらくですが、この筆者の方は、「この地球はもう少し宗教的なものだった」と言いたいのかもしれません。
しかし、現実としては、テクノロジーにしても、それを「崇拝する価値観」にしても、もはや引き戻ることができないような状況にまで進んでいるのが事実です。
それでも、私個人としては、
「いずれは完全に、今の価値観は壁にぶち当たり崩壊する」
とは思っていますけれど、それがいつかはわかりようがありません。そして、もし、人類が唯物論から脱却できないままの未来へと突き進んだ場合は、かつてルドルフ・シュタイナーが述べていた以下のようなことになるのかもしれません。
1906年のルドルフ・シュタイナーの講演「弥勒の世界の到来」より
20世紀のうちに、そしてこれから2千年後のあいだに、 人々はキリストのエーテル形姿を見るにいたるでしょう。人々はエーテル地球を見るようになるでしょう。人間の善良な内面とは異なった影響を周囲におよぼすということも、人々は認識するでしょう。
このエーテル的な 科学を司るのは、およそ3千年後に下生して成仏する弥勒菩薩です。弥勒という名は、「善良な志操の仏」という意味です。弥勒仏は人間に、善良な志操の意味を明らかにします。
そうして、人間は自分がどの方向に行くべきかを知るべきでしょう。
抽象的な理想の代わりに、前進する進化に相応する具体的な理想が現れるでしょう。
そのようなことが達成されなかったら、 地球は唯物論のなかに沈没し、人類は大きな災害ののちに、この地上で、あるいは次の惑星ですべてを新たに始めねばならないでしょう。 indeep.jp
これは、『天地の未来 - 地震・火山・戦争』 (Amazon)というシュタイナーの講義録に収められています。
というわけで、本題に入ります。
なお、筆者のロレンツォ・メルロさんという方は、ノーベル賞受賞者や世界的な科学者が名を連ねていることで名高い「国際学生科学技術フェア (ISEF)」の卒業生のジャーナリストの方のようで、名誉アルペンガイド兼登山インストラクターという肩書きもお持ちの方のようです。
それに触れた者は死ぬ!
Chi tocca muore!
Lorenzo Merlo 2026/07/20
ある種の叡智の伝統が示唆するように、私たちは恐らく、未成熟な「幼児期」にあるのだろう。つまり、禁止しても欲望を抑えるには不十分で、むしろその意図とは裏腹に、その高揚感を増幅させ、結果としてその奔放さを失ってしまうような存在段階にあるのだ。
自然の申し子であった私たちは、自然から切り離された存在ではなかった。私たちは自然を「母」として認識していた。私たちを産み落とし、敬意を払うべき対象であり、単なる「聖なるもの」という概念にとどまらず、それに対する真の感覚を呼び覚ましてくれる存在として。
それは、私たち自身そのものであるものへの感覚だ。単なる一部ではなく、手や感情、道徳心、あるいは倫理観と同じように、有機的な延長としてつながっているものへの感覚だ。
私たちは、自分たちを彼女 --- すなわち自然、地球、あるいは宇宙 --- から切り離された存在とは見なしていなかった。
私たちは、万物に浸透する一つの魂や生命力を分かち合うという精神を共有した状態で生きていた。そして現実の中に、人間の特性を映し出す象徴や、私たちの境遇や関係性を形作るエネルギーの力を感じ取ることができた。
私たちが持っていたのは、日々の糧を得る営みに根ざした文化だけであり、富の蓄積を崇めるような文化とは全く相容れないものだった。それは、創造的で、触覚的で、生命を肯定する「職人的」な文化であり、個々人が持つ独自の才能を育み、開花させることに自然と重きを置くものだった。
それは「疎外」とは相容れない文化だった。疎外とは、実存的な意味の喪失、方向感覚の欠如、深い脆弱性、そして実存的な倦怠感から生じる状態だ。そうした倦怠感は、私的であれ公的であれ、個人的であれ社会的であれ、自分自身や他者に対する暴力の種を常に孕んでいる。
キリスト本人やその本来の教えとは何ら関わりのない、ユダヤ・キリスト教的な概念に内在する「神への畏怖」の勝利と「救済の約束」は、異教の伝統が有していた正当性と真実性を断ち切った。
人間中心主義に駆り立てられたその激しい衝動は、人間を神から引き離し、心理的な強迫観念のなすがままにさせると同時に、制御不能な自己中心主義の虜とした。ここで言う「制御不能」とは、それが無意識のうちに進行し、かつ天そのものによって是認されていたがゆえのことだ。
人間中心主義、自己中心主義、そして地球中心主義 --- これら三つは、新たな一神教の秩序によって西洋世界に据えられた「礎石」の軸を成すものだった。海や海流、気候、大気を分かつ岬のように、この転換点を通過したことで現実は変容し、それに伴って人間や人間の思考のあり方もまた一変した。
その大きな変化は、一種の魔法のようなものだった自然界に内在するあらゆる知識と真理は否定されなければならなかった。異端者の火刑台や不信仰者に対する十字軍が、常に歴史の正しい側に立たせてくれるという神の安心させる庇護のもとで、火を灯され、開始された。
出発点からの逃避競争は始まったばかりだった。それは知識への容赦ない行進のように見えた。そして実際にそうなったのだが、前進するにつれて、出発点を忘れていった。
「客観的知識」という名の駿馬、すなわち、万物が相互に結びつき相対的な関係にあるという統一的な全体像を否定し、虚空(ヴォイド)によって隔てられた個々の事物から構成される現実という名の駿馬に最初に拍車をかけたのは、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、デカルト、そしてニュートンであった。コペルニクスは、地球をその座から退け太陽を宇宙の中心に据えることで、現実が持つ魔法的な側面を事実上失墜させた。
ケプラーは、自らの法則によって客観的世界観という建造物に煉瓦を積み上げ、壁を築き上げた。そしてガリレオは、科学的方法を定義づけることを通じて、「真理は物質科学の中にあり、証明不可能なものは虚偽である」という考えを誰よりも強く育んだのである。科学が持つ「自己言及的」な性質について語るとすれば、その種を無自覚に蒔いたのは、あのピサ出身の思想家だった。
続いて登場したデカルトは、「思惟する実体」と「延長する実体」という概念を通じて、精神と宇宙を分断する呪縛を強固なものとし、科学の客観性・公平性や、我々とは切り離された世界という(今日なお崇められている)トーテムを打ち立てた。
そして最後に --- ここで挙げるのは主要な人物のほんの一部に過ぎないが --- ニュートンの存在がある。古典力学を確立したことのみならず、我々が暗黙のうちに、疑う余地なく、そして決定的なものとして認めている「普遍的真理」という絶対的な主張を、この力学に付与したのも彼だ。専門化の極みへと向かって奔走してきたその馬は、今やテクノロジーと、倫理的指針を失ったバイオテクノロジーの翼を得て、なおも荒々しく疾走を続けている。目指す先は「母」なき世界 --- 何ら敬意を払うに値しない世界だ。
数値化できず、測定できず、実証もできないものは切り捨てられると信じる世界、文化、精神性、そして「前向きさ」への渇望。
私たちは今、そのような世界へと足を踏み入れたのだ。そこに至る門には、大胆にも「それに触れれば死ぬ!」と記されていたにもかかわらず、私たちは喜々としてその門をくぐり抜けたのである。
「それに触れれば死ぬ」
前述の思想家たちが馬を疾走させたのだとすれば、カントと啓蒙主義こそが彼らを自らの牧場へと集めた。そこで彼らはようやく休息を得て、ほぼ全世界に広がる牧草地で草を食むことができた。
それまでは、軽蔑的で不適切な表現ではあったものの、理性の時代によって一掃された魔法のような世界を暗示することはできた。しかしその後、その世界は魂の屈辱と肉体の侵害を受けただけでなく、知識を欠き、ますます忘れ去られつつあるグロテスクで無意味な原始主義へと堕落し、現代の異端者に対する武器としてのみ有用となった。
合理主義と唯物論の魔力は人類を魅了し、人々をますます速いスピードで自らの起源から遠ざけ、永遠の反論権を持つ独立した個人であると信じ込ませたのである。
進歩という名の天へと続く階段を、その順を追って列挙するのは、もはや繰り返すまでもないことだろう。産業革命という「アナログ」な段階に続き、次々と「デジタル」な段階が到来した。
ロボット工学(労働の軽減か、失業の増大か)、ウェブ(表現の自由か、検閲か)、顔認識技術(セキュリティの向上か、監視の強化か)、そして人工知能(圧倒的な有用性か、あらゆるアナログ的創造性の凍結か)。
何があろうと人間が常に「神」を必要とするのであれば、かつてのイデオロギーも、そして現在のテクノロジーも、その役割を見事に果たしてきたと言える。
「地球村」はすでにその姿を現しており、今後数年のうちにその構造はさらに洗練されていくだろう。物資と引き換えの服従、キャリアと引き換えの従属、そして地位の証(あかし)と引き換えの剥奪 --- それらが待ち受けている。
「新世界秩序」や「グレート・リセット」を推進する勢力、あるいはイーロン・マスク、ピーター・ティール(※ 米国の起業家、投資家)、ユダヤ系ロビー団体といった面々は、確かに人類の福祉を念頭に置いてはいるものの、その判断基準はあくまで企業的 --- そして例外なく資本主義的 --- なものであり、そこに本質的な矛盾が生じている。
世界人口や廃棄物量の削減は、ある意味では理解可能な「オーウェル的」な政策を通じて実現されるだろう。しかし問題は、一握りの富豪たちが招いた過剰な事態のツケを、最終的に私たちが支払わされることになるという点だ。
民主主義はもはや国民の手を離れ、民間かつ国際的な経済権力ブロックの手に委ねられてしまった。制度や、権力に追従する政党政治への信頼が失墜したこと --- 価値観の崩壊、政治の破綻、そして究極的には国家主権の喪失を、これ以外にどう説明できるというのだろうかか --- を考えれば、これは受け入れがたい現実と言わざるを得ない。
移民政策は、おもてなしを装いながら、文化やアイデンティティを解体するための計画的なプログラムだった。それは、いわゆる「覚醒」イデオロギー、プライドパレード、そしてイデオロギー的フェミニズムを無条件に受け入れるのとよく似ている。
一方、世界の合理化と孤独は切り離せない関係にある。自らの意思でこの状況から脱却したいと願う者には、「相続人にとって非常に有益かつ重要な」補償金が提供される。これは、再生紙に印刷された進歩のパンフレットに書かれている言葉だ。その隅には、次のような指示が記されている。
「地面に落とさないで、ゴミ箱に入れてください」
私たちはパゾリーニ (※ イタリアの映画監督)の声に耳を傾けるべきだった --- 少なくとも、彼を殺害した者たちがそうしたのと同じくらいに。
チェロネッティ (※ イタリアの詩人、哲学者)の声にも耳を傾けるべきだった --- 彼を単なる詩人と見なし、自らの首に振り下ろされる運命にある「断頭の刃」だとは気づかず、教養ある気分に浸るためにその著作を読んでいた、あの独りよがりな小ブルジョワたちとは違って。
そしてガーベル (※ イタリアの歌手)の声にも --- 私たちは彼に導かれて深淵へと足を踏み入れることに憧れを抱いたが、結局は劇場ロビーへと戻り、クラブメッドの客さながらに、享楽的かつ個人主義的な満足感に浸るだけだった。
しかし、快適さと楽しみの衰退は、すでに終焉を迎えた。
かつて私たちを救ってくれたかもしれない倹約の価値観と実践は、今や強制されているが、私たちはもはや、この闘いにおいて頼り合い、団結するための共同体の遺産さえも失ってしまった。
富の象徴、公民権運動の群れ、広告の「私にはできる」というスローガンは、個人、社会、国家、そして人間のアイデンティティの崩壊を助長してきたのだ。
『ベラ・チャオ』(※ イタリアのレジスタンスソング)や、至る所に蔓延るファシストの影、そしてポピュリズムよりも遥かに深刻な病理である「進歩主義」 --- そうしたものの代わりに、「進歩」(あるいは、この張り詰めた緊張感に満ちた光景)を掲げるマニフェストには、『触れれば死ぬ!』というタイトルこそが相応しいはずだ。
つまり、もはや何の価値もないだけでなく、邪悪な自己利益のために海に投げ捨てたもの、すなわち美と知識に対して、偽りの涙を流すことしかできない、緊張感に満ちた領域のタイトルであるべきだ。
果たしてこれが、我々が進化し、精神的な不毛さを乗り越える助けとなるのだろうか?
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