聖書の記述にある「家族」とは
家族という言葉は、今ではたとえば核家族的なものであったり、「家族団欒」というようなイメージがあったりと、いろいろですけれど、クリスチャン関係の人だと思われるブライアン・シルハビーという人の記事を読んでいましたら、
「もともとの聖書に家族という言葉は出てこない」
という記述に行き当たりました。
その記事の冒頭は以下のように始まります。ちょっと英単語が多くて、読みづらいかと思いますが、そこを日本語にしてしまうと、むしろ意味がわからなくなりますので、原文のままにしています。
記事「西洋における「家族」という概念は、古代の聖書文献には見られない」より
現代英語において、「family」という英単語は非常に限定的で狭い意味を持つ。
例えば、「ご家族はお元気ですか?」と尋ねられた場合、あなたが結婚していて子どもがいるかどうかによって、一般的には 2つの意味に解釈される。
それは、あなたとあなたの配偶者、そしてあなたに子どもがいる場合、あるいはあなたとあなたの両親、そしてあなたの兄弟姉妹がいる場合のいずれかを意味する。
しかし、そのような「家族」という概念は、聖書が書かれてから 1400年以上経った 15世紀になって初めてヨーロッパで生まれたものだ。
英語の語源をたどるウェブサイト etymonline.com の「family」の項目を以下に示す。
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家族(名詞)
15世紀初頭、「家庭の使用人」、ラテン語から familia「家族の使用人、家事使用人、世帯の使用人」という意味で、また「世帯の構成員、財産、資産、親族や使用人を含む世帯」という意味で、抽象名詞として形成される。famulus は「召使い、奴隷」という意味で、語源は不明である。
ラテン語では「親と子ども」という意味で使われることはほとんどなく、domus(形容詞 domestic を参照)が使用された。famulus 含むfamula「召使いの女性、メイド」famulanter「召使いのように」famulitas「隷属」familiaris「自分の世帯の、私的な」familiaricus「家事奴隷の」familiaritas「親密な友情」。
英語では、「両親、子ども、使用人、時には下宿人や寄宿人を含む、1人の頭と 1つの家庭政府の下で 1つの世帯を形成する人々の集団」という意味が、1540年代に確認されている。
…と、さらに引用は続くのですが、つまり、今の意味の「血縁関係としての家族」という意味は、かつてはなかったということのようです。
そして、記事では、さらに、
「古い聖書では家族という言葉はほぼまったく使われていない」
として、キング・ジェームズ版聖書という 1611年にイングランド王ジェームズ 1世の命により発行された、最も有名で影響力のある英語の聖書を作者は検索します。
その結果、聖書全体で「たった一度だけ」使われていただけでした。
「エフェソの信徒への手紙」の 3章15節にそれは出てきます。
エフェソの信徒への手紙/ 03章 15節
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
ここだけのようです。
ここで注目すべきなのは、
「天と地にあるすべての家族が」
としているところで、特定の家族を述べてはいないのですが、作者は、このように解釈します。
> ここで「家族」という言葉が重要な理由は、それが明らかに神によって創造されたすべての被造物、つまり「天と地」に存在するすべての被造物を指しており、それらの「名前」や「アイデンティティ」は創造主である神から受け継がれているからである。聖書で最もよく使われる神の名は「父」である。 Brian Shilhavy
解釈はともかく、その後、
「聖書が新しくなるたびに家族という言葉が多く出てくるようになる」
ことが見出されます。
1963年に出された英語の「新アメリカ標準訳聖書」では、
「家族という単語が 6回出てくる」
ことになり、さらに、
「1984年版の聖書である新国際版では、家族という単語が 22回出てくる」
ことを検索し、さらに新しい「グッドニューズバイブル」という聖書では、
「家族という単語が 45回使用されている」
というように、聖書が新しくなるたびに「家族」という単語が使われていったようです。
そして、イエスの言う「家族」とは何か、ということをマルコによる福音書3章から以下のようにまとめます。
「私の母と兄弟は誰ですか?」と彼は尋ねた。
それから彼は自分の周りに円になって座っている人たちを見て言った。
「ここに私の母と兄弟たちがいる。神の御心を行う者は誰でも、私の兄弟であり、姉妹であり、母である。」(マルコによる福音書3章34-35節)
ちなみに、たまに引用させていただくルイス・ブニュエル監督の破天荒な映画『銀河』でも、イエスがこの言葉を言うくだりが描かれています。「これが母と兄弟だ」としている人たちは、すべて弟子たちです。
これはともかく、少なくともイエスあるいは、本来のキリスト教的価値観では、
「家族という概念とと血縁はまったくのないこと」
であるとは言えます。
記事の作者は、ギリシャ語の聖書の原文まで遡り調べ続けますが、その詳細はともかくとして、少なくとも数百年前までは、今使われている意味での「家族」という概念は西洋にはなかったようです。
さらには、記事を書いた方は、クリスチャンであると同時に、陰謀論者でもあるようで、「何が家族という概念を今のようにしたのか」ということについて、
「サタンの子たち」
と述べています。
かなりの陰謀史観ではありますが、一部抜粋します。
奴隷か自由人か ― 神の家族とサタンの子ら
現代の西洋文化において、サタン崇拝ユダヤ人(シオニスト)が行った主なことの一つは、「家族」の定義を、両親と子どもからなる「核家族」、ただし子どもは 2~ 3人までと再定義したことだ。
なぜなら、現代の西洋文化ではそれ以上の子どもを持つことは「無責任」だと考えられているからだ。
核家族は現代西洋文化の基盤であり、悪名高い「中流階級」とは、単に「奴隷制度」のより穏やかで優しい形態に過ぎない。
特に第二次世界大戦後にアメリカ合衆国で台頭した「中産階級」こそが、現在に至るまで支配階級の莫大な経済的利益を支えてきた原動力だった。
主に白人で保守的なキリスト教徒の中流家庭が抱く幻想は、週 5日、午前 9時から午後 5時まで働くことで、自分たちは「自由」であり、車や家などの物を実際に所有できると信じていることだ。
しかし、悪魔的なシステムが彼らに購入や「所有」を許すものはすべて、彼らが勤勉な働き蜂として、あるいは人類の歴史を通じて最もよく使われてきた言葉で言えば奴隷として、国家に対する義務を果たさなければ、政府の措置によって簡単に奪われてしまう可能性がある。
小規模な中流階級の核家族は、現代における奴隷制の経済モデルであり、彼らの労働は悪魔的なシステムを維持するために必要なことを担っている。
本文はまだまだ続きますが、締めとして、作者は、聖書「ローマ人への手紙8章12-19節」を引用しています。
ローマの信徒への手紙 8章 12-20節
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
うーん。全体的にわかるようなわからないような展開ではありますが、ともかく「家族」という概念が時代と共に「ねじ曲げられてきた」ということはあったようです。
しかし、これは西洋の話ですけど、「日本」はどうだったのか?
日本も基本的には同じ
これもまた同じようなもので、少なくとも、150年くらい前の日本には、
「家族という言葉さえなかった」
ようです。
1868年(明治元年)頃に、明治民法に「家族」(あるいは家属)という言葉が初めて使われたのだそう。
この「日本での家族という概念の変遷」については、実践女子大学人間社会学部の広井 多鶴子教授の
「家族概念の形成 - 家族と family」
という日本語の論文に詳しく書かれています。こちらにあります。
この資料によると、「家族」という漢語そのものは江戸時代からあったようですが、決して一般的な言葉ではなかったようです。
論文の「おわりに」では、広井教授は以下のように述べています。この 1800年代の後半くらいに「家族」という意味が、現在の家族とやや通じるものとなっていったと考えられます。
幕末から明治初年にかけて、家族は family に該当する語として使われ出す。1867(慶応3)年に出されたヘボンの『和英語林集成』は Kazoku をFamily と訳し、福沢諭吉は、翌1868年の『西洋事情外編』において、家族(family)とは「夫婦親子団欒一家に居るもの」であり、家族こそが「人間の交際」の基本であって、家族の集合が「一種族又は一国の人民」であると明言した。
英和辞典では 1872(明治5)年の知新館社訳『英和字典』が最初に family の訳語に「家属」の語を当て、1880 年代半ば、明治 10 年代末になると、家族は英和辞典や翻訳書において family の訳語として定着する。
こうして使われるようになった家族という語は、もはやかつてのような親族や眷族、同族と同義の語ではない。
1880年代に広まった家族ということばには、人間としての自然の本能や天性に基づく最も親密で根源的・普遍的な集団、人類の子孫を生み育てる場、人々の幸福と国家・社会の安定・繁栄の源、社会や国家を構成する基礎集団といった思想や理想が込められていたからである。
日本でも家族という概念は作られたものだったと考えられそうです。
なお、「家族団らん」という概念に関しては、『「食べること」の進化史』という著作を出された分子調理学者の石川伸一さんという方が、以下のように書いています。
…その後、家族団らんが、一般的な家庭の食事風景になったのは1970年代頃でした。NHKの国民生活時間調査によると、この頃、家族で食事している家庭は約9割に達しています。共食が常識だったこの時代の家庭科の教科書には、家族一緒の食事を促す記述はほとんどみられません。
食卓での家族団らんが、家庭の常識として成立していたのは、高度経済成長期にあたる1955~1975年の20年間ほどでした。
社会の中ではいろいろと概念は変化していくものですが、私自身、家族という概念をきちんと考えたことがなかっただけに、最初にご紹介したブライアン・シルハビーさんの記事は印象的なものでした。
確かに、誰しも血縁としての家族への思い入れは大変に強いものですが、単に「思考してみる」という部分だけでも、本当の意味の家族ということも考える時代なのかなと思ったりもします。
もちろん、イエスのように家族という概念をとらえることはとても難しいことではあります。
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