今日、以下の記事を投稿しました。
・ボー・イン・ラーの著書『あの世についての書』で説明される「死後の世界の真実」 パート5
In Deep 2025年6月8日
正直、この回のセクション「永遠の神殿と霊界について」は、内容が私には難解で、「そうなんかい?」とか呟くしかなかったのですが(余計なのはいいから)、翻訳しながら、ふと、ルドルフ・シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』という本のことを思い出しました。
これもまた、「生きている間におこなう修行みたいなもの」が書かれてあるものですが、この本を初めて知ったのは、10年以上前に、子どもと一緒に行った市の図書館においてで、その後に購入もしましたが、それまでシュタイナーのことは全然知らなかったので、
「へえ」
とか、やや感心しつつも、やや理解不能のまま、当時の記事でご紹介したことがあります。
2014年5月の記事ですから、11年前の記事です。
実際には、単にこの記事をリンクするだけでもいいのですが、この記事は(他の記事もそうですが)関係ない前置きがものすごく長くてですね、それでシュタイナーの部分だけ抜粋しようと思います。
最近書いていますボー・イン・ラーの見解と合わせてみますと、一部、同じような概念であり、興味がわきます。
ここから引用させていただきます。
霊的な修行と「薔薇十字系」の修行の特徴
霊的な訓練をする方法では歴史上、
・インド系
・キリスト教、グノーシス主義系
・薔薇十字系
の3つがあり、インド系では導師(グル)が弟子に対して絶対的な立場としての修行をおこないます。キリスト教系では、「イエスが絶対的な導師」というように、インド系、キリスト教系では、「絶対的な導師の存在」があるのに対して、薔薇十字系には導師が存在しないのだそうです。
薔薇十字系の修行では、学徒の自我に基づく自由と自主性が何よりも重んじられます。薔薇十字系の修行には、権威的な指導者としての導師は存在せず、友人としての立場から学徒に助言する師がいるだけです。
と訳者あとがきにあります。
シュタイナーの霊的な修練はこの「薔薇十字系」の修行法です。
薔薇十字系の修練の特徴
『いかにして高次の世界を認識するか』によれば、シュタイナーの薔薇十字系の修練の特徴として、
・日常生活が最良の霊的な訓練の場と見なされる
というものがあるようです。
要するに、集団で修行場で修行するというようなものではなく、「日常生活と共におこなう」ということで、さらにいえば、薔薇十字系の修行では、社会や家庭の中で通常の社会生活をきちんと営むことが何よりも最重視されるそうです。
これについては以下のようにシュタイナーは強く述べています。
「ひとつだけ、どうしても守っていただきたいことがあります。すなわち私たちは、いま自分が置かれている人生の立場と義務から判断して、自由に使うことが許される以上の時間と力を訓練にあてるべきではありません。神秘学の訓練の道をたどることによって、私たちが一瞬でも、ほんの少しでも、日常生活の状況を変化させるようなことがあってはなりません。」
何よりも優先するべきは、「私たちのいつも通りの日常」なのです。
よくオカルト的な構図にあるような「目を閉じてトランス状態になったような状態で霊と交流する」というようなものではないようです。
特別なことを一切せず、日常生活を普通通りに行う中での考え方や生き方です。
瞑想のように目を閉じもしません。
「目を開けた状態」でおこなうのです。
普通の目覚めた状態の中で霊的認識をおこなうというもののようです。
シュタイナーも本書の中で、「目を開けていること」について強く書いています。
薔薇十字系の修行でさらに大事なことは、
・論理的な思考の鍛錬を重視する
・個人の自由が徹底的に尊重される
のふたつだそう。
つまり、
ふだんの生活の中で、絶対的な指導者がいるわけでもなく、常に論理的に考え、そして、自分と他人の自由を最大限に尊重する。
というものだと言ってよさそうです。
まあしかし・・・これは、「論理的な思考の鍛錬」を別にすれば、何となく私が若い頃から考えて実践していることとあまり変わらない感じはします。つまり、私は、
・どんな集団にもリーダーは必要ない
・どんな集団にも最大に必要なのは個人の自由
だと考えて生きてきました。
「リーダーがいないとできない」というのは現代社会の洗脳と暗示が強いと思われます。
今回のシュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』を図書館で立ち読みしたときに、「読もう」という気になったのは、この「自由の尊重」と「絶対的な導師がいない」という部分を読んだこともあるかもしれません。
ここから箇条書きのような感じで、薔薇十字の学徒がどのような修練を日常の中でおこなうかを記してみたいと思います。
別に「高次がどうのこうの」というスピリチュアル的な意味で読むのではなく、「ひとつの人間の考え方」として読んでも十分なものだと思います。
重要なこと
なお、「非常に重要なこと」としてシュタイナーが記しているので書きますが、仮に現在、あるいは未来、あなたが「霊的な事象」を見ることができる場合の話です。
シュタイナーは下のように記しています。
あなたが霊的に見たものについて沈黙することができるようになりなさい。
それどころか、あなたは自分自身に対しても、霊的に直感したものについて沈黙を守らなくてはならないのです。
それはどうしてかというと、
・そのような霊的な現象を未熟な言葉で表現しようとすると、たいていの場合は、自分で幻想を作り上げることになるため。
・日常的に使われる言葉は、本来、霊的な事象について語るために生み出されたものではないため。
ということで、つまり、霊的な体験は言葉では表現しづらいもののようで、それを言葉で他人や、あるいは自分に語った瞬間から、「それは単なる幻想となっていく」ということのようです。
そして、その「幻想」が真実であるかのようになっていき、本人をも追い込むものなのかもしれません。いずれにしても、霊的な事象は言葉で人と共有するものではないことが厳命されています。
神秘学の学徒になるための条件
神秘学の修練をしようとする際に、克服しなければらない点について、シュタイナーは下のように記します。
私たちが克服しなければならない性質には、怒りや不機嫌のほかに、臆病な心、迷信、偏見を好む心、虚栄心、名誉欲、好奇心、必要のないことを何でも人に話したがる気持ち、人間を外見的な地位や性別や血縁関係をもとに差別する態度、などがあります。
そして、「神秘学の学徒になるための条件」として、シュタイナーは、7つの項目を記しています。ひとつひとつに長い説明がありますが、基本的に項目だけを書いておきます。
その前に、このように書かれてあります。
どの条件に関しても、それを「完全に」満たすことは求められていない。学徒に求められているのは、完全に条件を見たすように「努力する」ことだけである。
第一の条件
「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」
この後に、
確かに私たちは、はじめのうちは、みずからの健康状態を自分で決定することはできないかもしれません。しかし誰でも、体と霊の健康を促進するように努めることは可能です。
と書かれてあります。
第二の条件
「自分自身を生命全体の一部分と感じること」
これは人間以外の生命すべてに対してのことであるのですが、しかし、「人間」に関して考えると、たとえば「犯罪者」などに対して、現在の社会、あるいは世論やマスコミでは容赦ない非難と攻撃をするのが普通になっていて、「それが当然」というような感じになって久しいですが、私自身は、昔からそういうことに対して疑問を持っていました。
それは、「私に他の人間を非難する資格や資質があるのだろうか」という疑問でもあり、なので、犯罪や行為にもよりますけれど、基本的に私は「他人を攻撃したり、憎むということができない」で成長してきた人間でした。
シュタイナーは、私の犯罪者に対して持つ疑問について、以下のように「思う」ことが重要だと書いています。
「私は全人類の一部分である。私は、生じるすべての事柄に関して、全人類とともに責任を負っている」
このシュタイナーの言葉を読む限りでは、「他人を攻撃したり、憎むということがなかなかできない」という私の優柔不断な性格もまあ、それでもいいのかな、とかも、やや思います。
第三の条件
「私の行動だけではなく、私の思考と感情も、同様に世界に対して重要な意味をもっている」と考えることができる境地にまで上昇しなくてはならない。
シュタイナーは、ここでも「憎しみという感情が良くないこと」を書いており、
「私が身近な人間に対して抱く憎しみの感情は直接殴りつけるのに匹敵するほど破壊的な作用を相手に及ぼす」と考えること。
だと書いています。
第四の条件
「人間の真の本質は外見にではなく、内面にある」
これは、「人は姿じゃなくて心だよ」というような意味とはちょっと違い、シュタイナーの記述では、
「私という人間は外界の産物、つまり物質的な世界が生み出したものにすぎない」と考えるなら、私たちは、神秘学の訓練において何も達成することはできません。
のように、今回の記事の最初のほうにも書きました「生命は物質から生み出されたわけではない」ということが書かれています。
第五の条件
「一度自分で決めたことは、確固とした態度で守り通す」
第六の条件
「自分に与えられるすべてのものに対する感謝の感情を育てる」
この後に、シュタイナーは、
私たちは、「私という存在は宇宙全体からの贈り物である」ということを知らなくてはなりません。
と記しています。
第七の条件
「つねにこれらの条件が求められるとおりに、人生を理解する」
そして、次に「十二弁の蓮華の育成のための六つの特性」という項目などが記されます。
本には、十二弁の蓮華とか十六弁の蓮華などの言葉が出てくるのですが、私はこのあたりのことがさっぱりわからず、また、シュタイナーの長い説明を要約することも難しいですので、「シュタイナーなら気功ブームをどうみただろうか」というサイトから説明を抜粋させていただきます。
アストラル体の咽喉の辺にある16弁の蓮華(チャクラ)、心臓の辺にある12弁の蓮華、臍の辺にある10弁の蓮華、脾臓の辺にある6弁の蓮華というふうに蓮華を活性化(回転を始め)させてきた修行者は、体内のエーテル流をコントロールできるようになってくる。
そしてエーテル心臓を源としたエーテル流をアストラル体全体に送り出し、そのエーテル流によってアストラル体の各蓮華の回転を制御する。そしてその流れはさらに、蓮華の先端から体外へ出ていく。その及ぶ範囲は、その人が霊的に進歩するほどに広がっていく。シュタイナーは以上のように表現する。
というものだそうです。
まあ、それでも、私個人としては、このあたりのことはよくわからないのですが、その「仕組み」より、シュタイナーの「言葉の内容」を読んでいただきたいと思います。
ここから再びシュタイナーの記述を続けます。
ここからは箇条書きだけとします。
十二弁の蓮華の育成のための「六つの条件」
第一の条件
自分自身の思考の流れを支配すること
第二の条件
思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を、行為においても保持すること
第三の条件
粘り強さの育成
第四の条件
人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度(寛容さ)
第五の条件
人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度
第六の条件
ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること
さらに、シュタイナーは、霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない「4つの特性」というものにも言及します。
霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性
第一の特性
思考において真実と仮象のものを、真理と単なる意見を区別すること
第二の特性
仮象のものと向き合ったときに、真に実在するものを正しく評価すること
第三の能力
「十二弁の蓮華を育成するための六つの特性」で述べた、思考の制御、行動の制御、ねばり強さ、寛大さ、信じること、冷静さを実践すること
第四の特性
内面的な自由に対する愛
長くなりましたが、ここまでです。
ところで、高次に上昇する際に、学徒は「境域の守護者」というものに出会うそうです。
境域の守護者
シュタイナーの記述によれば、それは、それまで自分自身の中にいた美しさと醜悪さの姿を兼ね備えているそうなんですが、その「境域の守護者」が語る言葉について、シュタイナーは物語風に長く書いています。
シュタイナーの記す「境域の守護者」の言葉からの抜粋です。
何ページにもわたる境域の守護者」の言葉の記述の中のほんの一部です。
目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の境域を越えてはなりません。あなた自身のランプに十分に燃料が入っていると確信できないうちは、一歩たりとも先に進んではなりません。これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。
今回ご紹介した著作の中で、人間が高次に移行した後は、これまであなたを導いてくれていた「宇宙の導き」がなくなり、そこから先は「自分で自分を導いていく」ことだと述べています。
そういう意味では、高い次元に移行するということは、巷で言われる以上に「覚悟のいること」だとも言えます。
それでも、上に出てきたシュタイナーの考え方は、「高次元」とか、そういうスピリチュアルを越えて、心地よく響くものであり、あるいは「これからの人類が身につけるべき考えと行動」のようにも思います。
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