地球の最期のときに

カタストロフが常に私たちに突き出す「生命の真意」



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10月11日 台風19号ハギビスが日本に上陸する前日に各地で撮影された紫やピンクの空

daily-rose.com

台風19号が日本に上陸した前日の10月11日、各地で上のような色の空が撮影されていました。大気の状態の条件が通常とは違っていたということなのだと思われます。




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度重なる生命の悲惨の目撃の中で

今朝(10月13日)、日本各地で、決壊、浸水被害で大変なことになっていることを知りました。昨日、こちらに書きました記事では、自分の地域のことだけ書き散らしていたのですけれど、その後、日本各地で極めて重大な被害が続出していることが明らかになっています。

特に、千曲川の決壊被害の様相をテレビで見た時には、言葉を失いました。

結果を知る前から結果がわかっているかのようなすさまじい光景に、少し見たあとにテレビから離れました。

思えば、2011年3月11日、東北で地震が発生した直後も、テレビをつけた瞬間、そこに写し出されようとしている光景を数秒見て、すぐにテレビを消したことを思い出します。

何が起きようとしているのかは、見るまでもありませんでした。そして、この東北の地震の際は、その後、何週間もテレビをつけませんでした。

その時のことはともかく、今朝の決壊や浸水の様相を見ていると、到底、普通に記事を更新する気にはならないのですが、しかし同時に、2011年に感じたのと同じような「私たちは、いつまで、こんな光景を見続けなければいけないのだろう」と改めて思います。

ブログ In Deep は、10年くらい前からありますが、その内容に多少意味があるようなものとなっていったのは、2011年の東北の震災の後からでした。

3月11日の地震の直後から「生命とは何か」ということが頭に取り憑くようにこびりつき、そこから離れられなくなりました。そして、その日から数カ月間のブログ In Deep は、狂気に近い書き殴りが続くものとなっていきました。

たとえば、以下は、震災 3日目の記事の中からの抜粋ですが、この「なぜ人が死ぬことが悲劇となる人類の思想が続いているのか」ということについて、今でもそれは克服されていないですが、この思索が続きました。

2011年3月14日 In Deep 「生命の真意」より抜粋

今回の地震の言葉にならない悲惨。
人命があれだけ無造作に消えていく無常。

このあからさまな悲劇を「悲劇と感じなくするような方法」というのはこの宇宙に存在するのか? ということがあります。

たとえば、今回のような壮絶な光景(消滅した文明という意味の)を伴っての大量の犠牲の痛ましさの向こうに、たとえば、毎年数万人が自殺している悲劇や、殺人や事故で亡くなっていく悲劇があります。

それは、すべてがわれわれの目や耳に情報として入るわけではないので、私たちは知らないことが多いですが、では、それは悲劇ではないのだろうか?

「恋人が自殺してしまった」

「子どもが殺されてしまった」

少なくとも当事者の個人には、これらの悲劇は世界のどんな悲劇とも、どんな事象とも比較できない最悪のできごとであるはずです。

しかし、起きている。

毎日毎日、しかも、この数千年に限っては、多分ずっと起き続けている。

他にも様々な「悲劇」はありますが、これら「人の命」という悲劇が最大に重いもの(に感じる)ことは確かであり、そして、今のままの私たち人類の生命の解釈では、今後も何百年も何千年も、いや、人類がいる限り、未来永劫にその「悲劇」が続いていくことになってしまう。

そして、人類が存在している限り、それ(死ぬこと)は必ず起きる。

「悲劇」という概念(もちろん他の様々な概念も)が、宇宙が人類に与えたものだとすると、私たち人類が宇宙との対等に近づくためには、その「真意」、その真意とは、つまり、私たちは「生命の生きることと死ぬことの真意」を知らなければならないのだと思うのです。

「人が死ぬことが悲劇ではなくなる」という響きは、一見、むしろ冷たく聞こえるかもしれないでしょうが、それは、私も含めて、その「真意」がわかっていないからなのではないかと考えるようになりました。

真意というのは、「肉体の生と死は本来(宇宙の最初)はどういう意味だったのか」という真意です。

人はどうして死ぬのか? ということが言われることがありますが、それは生命の仕組みを見ると当たり前のことで、あらゆる多細胞生物はいつかは死にます。

しかし、たとえば、他の生き物では「死は不幸と結びついているのか」ということを思うのです。死の意味はそれとは違うところにあるのかもしれないと。

もし、私たち人類が、この宇宙が人類に突きつけた生と死の真意を知ること、あるいは気付くことができれば、この世の多くに覆い被さる「悲劇」というもののクリアに一歩近づく気もするのです。

 

抜粋はこのあたりまでとさせていただきますが、このようなことを・・・まあ、それまで考えたことがなかったということ自体が、私の人間としての浅さを示していますけれど、いずれにしても、この「生命の真意」というテーマは、その後のブログ記事などのテーマ探しに強く影響するようになっていき、ブログ In Deep の内容は変化していきました。

そのうち、「ロシア宇宙主義」という、20世紀初頭のロシアの思想がこのようなことの理想型を突き止めていたことを知ったりもしました。太陽活動と人間社会の関係性を研究したチジェフスキー博士が属していた学派です。

たとえば、ロシア宇宙主義は、以下のような理念を持ちました。

ロシア宇宙主義

・人間の意識の進化と世界の霊化には関係性がある。

・宇宙での現象あるいは自然災害などの破壊的な現象と、人間の意識には相関関係がある。

・この学問の目標は人間が死を克服すること、宇宙の中で不死の生命を作り出していくこと。

その中で、チジェフスキー博士(1897-1964年)は、1920年代に以下のような洞察に至るのです。

地球上の生命現象は、宇宙の物理的な現象とつながっている。

ひとつひとつの生きた細胞は「宇宙の情報」に感応するのであり、大宇宙は、この情報を細胞のひとつひとつに浸透させている。

このように、1920年代のロシアの科学者たちの一団の中には、

「不死の生命を作り出すことが人類の進化」

であり、

「それは宇宙と感応している」

というような主張に至った人たちがいたのです。

この学派は、後にロシア国内でもスターリンなどの弾圧により消えていきますけれど、

そして、このロシア宇宙主義を知ったずっと後、わりとつい最近ですけれど、「《真実のキリストの教え》の思想は、同じようなものだった」ことを知るのです。

これは、現在の教会体系にあるキリスト教とは関係のないものですが、ロシア宇宙主義の学者たちは、キリスト教神秘主義の思想を重視していました。

以前メルマガで、スヴェトラーナ・セミョーノヴァという人の著作「ロシア宇宙精神」を抜粋したことがありましたが、そこには以下のように書かれています。

セミューノヴァ『ロシアの宇宙精神』序論より

「肉体は霊の牢獄にすぎない」という言葉に象徴されるように、キリスト教では常に唯心論的な傾向が顕著であったが、(本来の)キリスト教の神秘主義的伝統においては、将来の神化のために魂や知だけではなく、肉体をも変容させ、肉体に光を与えることが必要とされる。

重要なことは、意識を肉体から引き離し、意識によって人間の肉体のすべての器官と力を霊化し、統御することなのである。

人間の道徳的完成を安定したものにするためには、その前に、人間の肉体を変革しなければならない。他の生物を食べ、押し退け、殺し、そして自分でも死ぬという自然的な性質から人間を解放しなければならない。

ここまです。

本来のキリスト教では、「心を変える」だけではなく、

「肉体そのものを変えなければならない」

とされているのですね。

それは、「死なない人間になる」ということです。

難しい話に聞こえますが、ブッダの言う「受肉をしない段階に至る」という意味での悟りの位置であり、ルドルフ・シュタイナーも同じように言う最後に到達する人間の位置を指していると思われます。

おそらく、このあたりに「死の悲劇の回避」という答えが隠れているであろうことは確かなのでしょうけれど、それがわかるかというと、なかなか難しいです。

私あたりは、わからないまま、この世から消えていくのだと思いますが、このことを考えることは、すべての人類において大切なことだと考えます。

何しろ、どうやっても、自然災害はこれからも増え続けるのですから。そんな世の中で、生き残った者が勝ち、ではおかしい。生きたものと、そうでなかった者と、どちらにも違いがない世でなければおかしい。

ということで、何だか変なことになってしまいましたが、被災地の皆様方におかれましては、被災者の方々も、救援等を行われている方々も、出来うる限りの最善の中で尽力されていただければ幸いです。

失礼します。