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自由の幻影
ネンマTWO、ということで(読みにくいっつーの)、今回は時事ではなく、最近ちょっと気になっていたものをご紹介させていただこうと思いました。
以前、ボー・イン・ラー(1876年〜 1943年)というドイツの精神的指導者の『あの世についての書』(The Book on the Beyond)を、しばらく翻訳連載したことがありました。
これは、元米国連邦アナリストであるリチャード・C・クック氏という方が、そのボー・イン・ラー氏の著作をドイツ語から英語に翻訳して公開していたもので、その後も、リチャード・C・クック氏は、ボー・イン・ラーのさまざまな書物やエッセイーを公開していましたが、その後は、その中から、『邪悪な個人』というエッセイをご紹介したことがあります。
『あの世についての書』のすべてのリンクは、以下の記事にあります。
In Deep 2025年10月8日
最近になって、リチャード・C・クック氏は、ボー・イン・ラーの『自由の亡霊』という書物を連載しています。
今のところ、全パート12のうちの 2までが公開されただけの状態ですので、全体的に面白いものかどうかわからない面はありますが、ちょっと読むと、個人的には興味深かったですので、ご紹介させていただこうと思います。
「自由の亡霊」というタイトルにも惹かれたのかもしれません。私自身、若い頃から「今の世で言われる自由」という概念は幻影に近いのではないかと考えることがありました。
そんなわけで、少しずつですが、ご紹介させていただきます。
リチャード・C・クック氏は、「導入」として、自らの「自由」について考え方を冒頭に書いていますが、パート1は、その「導入」も掲載させていただきます。
なお、本文に関しては、以前は、『あの世についての書』などでは、私のほうで強調(太字)をすることはしませんでしたが、やはりわかりにくいといえば、わかりにくい内容ですので、こちらで強調している部分があります。ただ、その強調が、著者から見て正しい強調かどうかはわかりません。
ここからです。
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ボー・イン・ラー『自由の亡霊』 — 全12部構成の第1部
Bô Yin Râ: “The Specter of Freedom” – Part 1 of 12
Richard C. Cook
リチャード・C・クック氏による「導入」
近代人類史において最も普遍的に認知されている言葉の一つに、「生命、自由、そして幸福の追求」というフレーズがある。これは、アメリカ合衆国独立宣言の原則として述べられている。
確かに、私たちは皆、この地球上での生活を充実させるために、これら三要素が不可欠ではないにしても、有益であることを漠然と認識している。
また、私たちの多く、特に権力を持つ人々は、様々な状況下で、自らが持つ特権に固執し、これらの要素を他の人間に与えることを拒否している。もちろん、そのような拒否にも限界があり、例えばアメリカ合衆国権利章典にそのことが示されている。
そこで、次のような疑問が湧く。本当の自由とは何だろうか?
この問いに向き合う時、私たちはイエスの言葉を思い出すかもしれない。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ 8:32)
では、真理とは何だろう?
そして、その真理は人生においてどのように機能し、奇跡を起こし、表明された自由を生み出すのだろうか?
『自由の亡霊』 パート1 (全12部)コンテンツ:
1. 蜃気楼
2. 必要性
3. 共同体性
4. 権限
5. 仲間意識
6. 失敗した経済
7. 競争
8. うたい文句への熱狂
9. 自己実現
10. 宗教
11. 科学
12. 現実の意識
—
パート1 :蜃気楼(Mirage)
(※ 訳者注) Mirage (ミラージュ)には、蜃気楼という意味の他に幻覚や妄想といった意味もありますが、ここでは蜃気楼と訳させていただいています。
私がここで言わなければならないことは、詩人や英雄が見出した真の自由について特に言及するものではない。もっとも、詩人や英雄は、しばしば、たとえ無意識であっても、ここで主に議論されている事柄のために、真実のために戦い、奮闘してきた。
自由の欠如を感じているすべての人々が切望する価値ある目標は、ここで軽視されるべきものではない。むしろ、現代において自由を渇望する人々をこれまで以上に愚弄する風刺を容赦なく払拭したいのだ。
ここで助けとなるのは、啓示のみである。生きた光だけが、白昼堂々と思い描いた欺瞞を拭い去ることができる。
それは日々、希望と憧れの蒸し暑い霧に運ばれ、大地に深く根ざした、恐ろしい砂漠の絶望的な不毛へと無数の犠牲者を誘い込む欺瞞である。
しかし、助言を受け入れる人だけが助けられるというのは真実であり、したがって私の言葉は、私に耳を傾ける意志が存在する場合にのみ役立つだろう。
言葉は、意識的な意志で獲得されると世界を変えることができるが、抵抗すると賢明な仕事を失うことになるため、魂にほとんど何も伝えることができない。
警告の言葉に耳を閉ざすことは必ずしも知性の表れではない。また、聞くことを期待していないことを拒否することは、決して深い洞察力の表れではない。
私は、一部の人にとっては不快に聞こえるであろう多くのことを言わざるを得ない。また、今日の大多数の人にとっては不条理なことについても話さざるを得ない。
しかし、ある人にとって理解できないことが、必ずしも他の人にも説明できないままである必要はない。考えるべき時に夢を見ることを好み、夢を超えたあらゆるものを認識することに盲目になっている人々を喜ばせることは、実のところ現実の真の特徴ではない。
オアシスへの道を知っている砂漠の遊牧民だけが、吹き飛ばされた砂の熱いもやの中の空気によって生じる錯覚と、彼らがよく知っている現実との違いを区別できる。
砂漠を熟知した者が率いるキャラバンが果てしなく続くように見えても、経験から得た知識の前では、初心者の意見など何の重みも持たない。その知識は、自信のある者たちに喜びの表情を抑えさせ、幻影(蜃気楼)は幻影に過ぎないと断言させるのだ。
私は自分が何を話しているかを知っており、助言や援助を求める人々に助言や援助を与えることができる。
私の言葉を「傲慢」だと思う人たちは、まだ私を知らないのだ。
私は、魂の国から来たのであり、そこで意識的に生きている人の中で、他人に関して特別な知識を持っていると主張する人は誰もいないのだと彼らに告げなければならない。
同じ光の中で生き、意識を持つ私たちが、卓越性を目指すのはまったくの愚かなことだ。
まだ光の国に生きていない人々の前で私が闊歩するなんて、どれほど愚かなことだろう。
しかし、私の同胞全員から見て私に近いわけでも遠いわけでもない、この地上のあらゆるものよりも、常に私の前に存在している何か他のものがあることを隠そうとするなら、私は嘘つきになるだろう。
今日、何百万人もの人が「幸福」をもたらすには「自由」だけが必要だと信じている。
これは独房に囚われた囚人だけが考えることではなく、先祖がかつて享受していた多くの自由を放棄しなければならなかった王子や王女も同じように考えるのだ。
しかし、ほとんどすべての人は砂漠の幻影に誘惑され、誠意を持ってそれに従う人は誰でも「野生の生き物」の餌食になる。
残念ながら、非常に多くの人が一つの信念、一つの希望、一つの愛を共有している場合、個人がその欺瞞を見抜くのは困難であり、集団的妄想の全能性によって容易に惑わされてしまう。
人は、自分の不浄な状態について豊富な知識を持っているので、自分の「救済」への道を見つけようと努める。熱心に救済に導くと約束する欺瞞のイメージはすべて「神聖」になる。
こうして、自由の亡霊が人間界に勢力を及ぼし、真の自由を求めるほとんどすべての人々を惑わす脅威となっている。
今日、ほとんどの人が「自由」と考えている幻想的なイメージは完全に漠然としており、霞んで消える雲のようなものだ。
しかし、真の自由は明確さと決意を持って現れる。なぜなら、それは明確な形を必要とするからだ。
真の自由は、このような形の自己完結を通じてのみ存在し、解放の働きを遂行することができるのだ。
封じ込めなければ、それは自ら消滅してしまうだろう。
「制限のない」自由は、自由なものの自己消滅と同一である。
概念だけで感じることのできない自由は、人間にとって価値がない。しかし、限界のあるものだけが感じられるのだ。
制限だけが形を与える。感情は明確に定義された形によってのみ崩壊から保護される。
形とは、「多すぎる」部分と「少なすぎる」部分の間のバランスだ。
真の自由が支配するところでは、「自由が多すぎる」とか「自由が少なすぎる」という問題は存在し得ない。なぜなら、「少なすぎる」ということは、「多すぎる」ということと同様に、自由の存在を否定することになるからだ。
そのような測定がまだ可能な場合、自分の気まぐれに応じて力を「測定」できる幽霊のみが支配する。
真の自由は決してそれ自体が目的ではないのだ。
真の自由は、それが果たす目的によってその価値を最大限に発揮する。
真の自由は満たされた必要性の成果であり、自由よりも高い何かを獲得する目的で存在すべきなのだ。
自由は決して意志の主人となることはない。なぜなら自由は意志に仕えるからだ。
しかし、自由の亡霊は意志を従わせようとし、自らの力を維持するために意志を枯渇させようとする。
自由の亡霊は、それを信奉するすべての人々の間に広がる。それは、限りない無限への抑えきれない熱狂だ。
自由の亡霊は形を体験するあらゆる能力を弱体化させる。
それは認識の確実性をすべて破壊する。なぜなら、形が経験される場合にのみ認識が可能になるからだ。
古代の賢明な人々が「無知」を「罪」のように語ったのも、何の根拠もないわけではない。私はこの言葉に注意を払う必要があることを、私の著作の他の部分でも教えてきた。
罪悪感は、与えられた力が、誤用によって、あるいはその真の用途を怠ることによって、その持ち主または仲間の生き物に害を及ぼすときに生じる。
彼らが虜になっている幻影を追い求め続ける人々は、私の言葉によってそれが彼らを馬鹿にする単なる「幽霊」であることを自ら発見するよう促されたにもかかわらず、自らの罪悪感から逃れることは難しいだろう。
あらゆる罪悪感は常にその結果を要求し、確実に強制するものなので、自らが生み出した結果によって罪悪感がつきまとうとしても驚いてはならない。
何かを掴んだと信じたまさにその瞬間に罪悪感にとらわれるかもしれないが、それは結局、薄い空気に映った荒涼とした思考の霞、つまり空想で作り上げた思索的なイメージ、「蜃気楼」である。
12部構成のパート1はここまでです。
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