地球の最期のときに

物質不滅の法則から「神の起源」を考えていくと、もしかすると非常に危うい存在感に辿り着くのかもしれない



投稿日:2025年8月7日 更新日:




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物質不滅の法則と死と宇宙

先月、以下のような記事を書かせていただきました。

イエス・キリストの幻影と人間の視覚の本態。そして「偶像崇拝の禁止」の本当の意味
In Deep 2025年7月19日

 

この記事では、ラストに以下のように書いていました。

> 言い方は神でも何でもいいですが、そこには姿も形もなく、場合によっては実体もないかもしれないですが、それが本当のところなのかなとも思います。

 

さて、最近、旧 In Deep から、こちらのサーバに記事を少しずつ移動しているのですが、基本的には、どの記事も、ある程度読み直して(誤字などを)編集してから再アップという作業をしています。

その中で、ある記事を読んでいましたら、

「ああ、ここにそのことが書いてあるなあ」

と思い出したものがありました。

13年ほど前の以下の記事です。

大出血のような太陽フレアと真っ赤な富士山上空を眺めながら「物質は永遠」という法則を子ども科学本で知った日
In Deep 2012年9月3日

 

 

この記事は、主題としては、子ども(当時まだ小学生でした)と一緒に地元の図書館に行ったときに、子ども用の科学本を立ち読みしていて、初めて、

「物質不滅の法則」

というものを知ったことを書いています。

本当はこんな物理の原則は、中学か高校で習うものなんでしょうが、若い時には勉強することを一切拒否していたために、結局知るのが人生後半になってからということになってしまいましたが、とにかく、このときに初めて知ったのでした。

物質不滅の法則は、今は「質量保存の法則」とか、あるいはエネルギー保存則等と呼ばれますが、意味はすべて同じで、

「どのような化学反応においても、反応前の物質の全質量と、反応後に生成した物質の全質量とは等しい」

というものです。物理上の大原則です。

簡単に書きますと、「何もないところ(完全な無)からモノは生まれないし、モノは消滅しても無くなるわけではない」というような感じでしょうかね。

たとえば、人間の場合ですと、

「死」

という大きな問題がありますが、現在の人間社会では、「死は終局」であるという認識がわりと強いかと思います。

たとえば、人が亡くなり、その後、日本だと火葬などで肉体が消えた時点で、「その人の存在は消える」というような認識ですね。ここでは、霊とか魂とか定数化できない概念を除いていますが、肉体的な意味では「人間は死で終わる」と。

しかし、どこかに、その物質不滅の法則の概念がつきまとっていて、

「亡くなって、完全に無になるというのはおかしいやないの」

という曖昧な感覚は持っていました。

死と共に、その肉体が完全に消えたとしても「生きているときと同等のエネルギーが死後も存在しないと理屈としておかしい」のです。

生きているときの肉体や精神と同等のエネルギーが死後に残っていなければ、科学的な原則に逆らってしまうことになります。

これは Grok に聞いたこともありまして、質問の全文と回答はこちらにありますが、

> 「死」があまりにも終局とだけとらえられているのは、たとえば、物質不滅の法則あたりからも、何か違うのかなあとか思います。

という言葉を含む質問をした際、長い回答でしたが、その中で Grok は以下のように述べていました。

「あなたが指摘するように、物質不滅の法則(エネルギー保存則)では、物質やエネルギーは形を変えるだけで消滅しない。意識が量子情報として存続するなら、死が「終局」とは限らない可能性がある。」

死後に残るとすれば、唯一考えられるのは、

「意識」

なのですけれど、それが生前と同等のエネルギーでなければいけない (意識も定数化はできないですけどね)。

これについては、昨年、ユホン・ドン博士の寄稿文をご紹介した以下の記事など、何度か取り上げています。

脳がなくても意識は存在できる。あるいは、意識は物質と同様に不滅の法則に則っていると考える
In Deep 2024年10月27日

 

 

この記事では、イギリスの物理学者でありノーベル賞受賞者のロジャー・ペンローズ氏の主張などが書かれていて、難解ではありますが、簡単にいえば、

「人が亡くなると、その意識は量子情報として宇宙に放出される」

というような理屈です。

これは量子論であり純粋な科学なのですが、今の世では、量子論はどこか突飛に聞こえる主張が多く(人間が認識するまでこの世は存在しない、など)、まるでオカルトのような扱いを受けることもあります。

なぜ、量子論がそのような扱いを受けやすいのかというと、Grok は以下のように解説しています

・オカルトとの混同: 量子論がスピリチュアルな文脈で誤用される(例:量子ヒーリング)ため、ペンローズのような真剣な仮説も「怪しい」と見なされがち。

・唯物論の枠組み: 現代科学は、意識を脳の物質的プロセスに還元する傾向が強く、量子論的意識や死後の存続は「非科学的」と排除される。

 

まあ…そりゃそうだろうなあとも思います。

「人間が亡くなると、意識だけが宇宙に放出され、それはまた(生きている)人間の細胞の微小管という器官を通して意識の中に還元される」

みたいな理屈は、ほとんど、

「人が死ぬと幽霊になり、それはまた人に憑依する」

みたいな一種のオカルト話と変わらなく聞こえてしまうのかもしれません。

しかし、人間も物質的肉体を持って、この地球に生まれてきたのですから、絶対にこの宇宙の物理的な原則に従った存在であるはずです。

何だか話がこんがらがってきてしまいましたが、先ほどリンクしました 2012年の記事「大出血のような太陽フレアと真っ赤な富士山上空を眺めながら…」の後半に興味深い記述を見つけたのです (興味深い、って自分で書いているんですが、忘れてました)。

宇宙と神の話です。




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神は「存在」という意味での「存在」ではないかもしれない

私は、以前から「宇宙にも物質不滅の法則は適用される」と考えています。

物質不滅の法則(質量保存の法則)では、「この宇宙全体の質量とエネルギーの総和はゼロである」という鉄則がありまして、ということは、

「宇宙は何もないところから生まれてもいないし消えもしない」

ということになり、そして、

「宇宙はいまだかつて一度も誕生したことがない」

とも言えます。単に「同じ質量を守って在り続けている」というだけなのだと。

先ほどの 2012年の記事の後半は、そこから、「神」というものに関して話が進んでいます。

その部分を抜粋します。


 

2012年9月3日のブログ In Deep より

旧約聖書 出エジプト記 3章14節を思い出してみる

今年のはじめころ、旧約聖書の「出エジプト記」というものを知りました。

そこに「有って在るもの」という表現が出てきます。

これはモーセという人が「神」というような感じの存在から語られるシーンです。

ここは日本聖書協会の口語訳では以下のようになっています。

出エジプト記 / 3章 14節

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

これはですね、はっきり言って「日本語として崩壊している」のですが、しかし、この「出エジプト記 / 3章 14節」というのは、日本語だけではなく、あらゆる言語で訳すのが難しい章だということを今回、調べ直して知りました。

「牧師の書斎」というサイトの出エジプト記3章14節についてというページを見ると、原語であるヘブル語(ヘブライ語)の時点で奇妙なのだそうです。

とヘブル語で書くこの部分はこの牧師の方によると「この出エジプト3:14はまことに不思議なことばです。その一つに発音表記のことがあります」とあり、私にはよくわからないですが、不思議な文字か表現をしているようです。

そして、この部分は「旧約聖書中最も多く論じられてきた箇所のひとつです」ということだそうで、サイトによると、日本語と英語だけでも訳が出版元によって次のように違うようです。

この上から 7番目にある、フランシスコ会訳の

> わたしはある(エーイェ)ものである

あたりは、焼き鳥屋で泥酔して絶叫しているオヤジたちのようで、ヤバゲですが、これはどうしてこんなことになっちゃったのかと考えますと、最初に旧訳聖書を書いた人が意地悪だったというわけではなく、「もともと存在する存在である存在」という概念をうまく表現できなかったのではないですかね

要するに上に書いた「永遠不滅のこの世」のことです。

「はじまりも終わりもないし、存在でもないもの」からの言葉を神の言葉として書きたかったのだけれど、どうしてもうまく表現できなくて、何だかわからない表現になってしまった・・・けど、「もういいや」と旧約聖書の作者たちが表現を放棄した姿のようにも見えます。

また、イスラム教のコーランにもマッカ啓示 4節 第112章「純正章」に、

言え、「かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存され、御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」

とあり、かれ(アッラー)は、「御産みなさらないし、御産れになられたのではない」と、生まれてもいないし、生みもしないことが明記されています。

そして、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭のセクションのフレーズには、

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

とあり、どうやら、神は誰も見たことも(今後見えることも)なさそうで、しかも「父のふところにいる独り子である神」が「神を示された」という非常に難解な表現となっていて、どうやら存在自体が危ういことにも気づきます。

話がどんどん逸れてきましたが、過去記事などで書いたことと、昨日、図書館の子どもコーナーで見つけた「物質不滅の法則」には、明らかに相関した関係があると感じます。


 

ここまでです。

この後、記事では物質不滅の法則の話が続いていくのですが、ヨハネによる福音書の「神を見た者はいない」からは、

「どうやら、神は誰も見たこともないし、今後見えることもなさそう」

ということで、「存在そのものが危うい」ことになっており、そして、イスラム教のコーランでは、

「神(アッラー)は生まれていない」

とあり、どちらの神も生まれていないのならば、物質不滅の法則には従っているわけですが、同時に、

「生まれていないのなら存在しない可能性がある」

ということにもなります。

これは、いわゆる「非神論」的な観点から述べているのではなく、単に物理的な原則から述べているだけです。

ですので、神というのは、人間の意識の中に根源的にある「何か」であって、我々が支配されているのではなく、むしろ、我々が支配している立場なのかもしれません。だから、人間は勝手に「神の偶像」なんかを作ったり、頭の中で神の姿をイメージしたりする。しかし、「生まれていない」のでしたら、姿のイメージも存在しないことになります。

 

リグ・ヴェーダの賛美歌

1903年にノーベル化学賞を受賞したスヴァンテ・アレニウスという科学者がいましたが、1912年に『宇宙開闢論史』という本を書いています。

これは今は『宇宙の始まり』というタイトルで、Amazon にもありますが、その第一章に、古代インドの聖典であるリグ・ヴェーダから抜粋されている部分があります。

それを載せたいと思ったのですが、何しろこの本を購入したのが、それこそ、先ほどの物質不滅の法則を知った十数年前のことで、「どこに置いてあるかなあ」とわからなくて困っていましたら、なんと、インターネット上に「全文」が掲載されていました。すごい努力! 以下にあります。

宇宙の始まり – スヴァンテ・アレニウス (寺田寅彦訳)

この中にあるリグ・ヴェーダの賛美歌 29番の冒頭は以下のようなものでした。「世界の始まり」を描いたものです。

リグ・ヴェーダ 賛美歌29番

一つの「有」もなく一つの「非有」もなかった、
空気で満たされた空間も、それを覆う天もなかった。
何物が動いていたか、そして何処に。動いていたのは誰であったか。

死もなく、また永遠の生というものもなかった。
昼と夜との分ちも未だなかった。
ある一つの名のない「物」が深い溜息をしていた、
その外にはこの宇宙の渾沌の中に何物もなかった。

そこには暗闇があった、そして暗闇に包まれて、
形なき水が、広い世界があった、
真空の中に介在する虚無の世界があった。

それでもその中の奥底には生命の微光の耀かがよいはあった。
動いていた最初のものは欲求であった、
それが生命の霊の最初の象徴であった、
霊魂の奥底を探り求めた賢人等、
彼らは「非有」と「有」との相関していることを知った。

この後も続くのですが、これは世界の始まりを描いた古代の賛美歌ではあるとはいえ、結局、物質不滅の法則から言えば、

「今もこの世はこのときと同じ状態」

なのだと理解できます。

この中に「動いていた最初のものは欲求であった」とありますが、これを「意識」と同等と考えると、量子論的な意味での「意識」がずっと昔から今にいたるまで続いているだけなのじゃないのかと

そして、その人間の意識の中には「神の創造」というものも含まれているのではないかとか思ったり。

人間のほうから「神を求める」気質の構造がもともと(遺伝子かなんか)に存在している、とか。

最晩年のフレッド・ホイル卿の著作『生命(DNA)は宇宙を流れる』の締めには以下のような文言があります。

科学的思考だけを求め続けていたホイル卿の言葉とは思えない部分もあります。この部分を取り上げて締めさせていただきたいと思います。

今回書いた話に関しては、結局は、やはりよくわからないとしか言えないのですが、神も宇宙も含めた存在というのは、かなり精緻でありながら曖昧なもののような可能性を感じます。

フレッド・ホイル『生命(DNA)は宇宙を流れる』より

宗教の起源は、人間の歴史と同じくらい古いものだ。考古学的記録から、人類はごく初期から洞窟に壁画を描き、狩りに使う道具に精緻な模様を刻んでいたことが分かっている。これらを見れば、人類がかなり初期からある種の宗教的本能を持っていることが分かる。

人類は空を見上げて創造主を探した。人類を他の動物と区別する最も大きな特徴は、自らの起源と究極的な運命を知りたいという切実な願いを持っていることだとも言える。

現在までに現れたあらゆる宗教は、われわれがそのために生き、そして死ぬための究極の目標を探そうとする努力、あるいはすべての生き物を作った創造主を知ろうとする努力と見ることができるだろう。

(略)

生物にこんな意識を持たせるのは、遺伝子の働きである。ひょっとすると、その「存在」がわれわれの部品を創造するにあたって、自らの起源についての真実を本能的に悟るように、遺伝子に細工しておいたのかもしれない。

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