大脱走から始まった2026年
2026年は、わりと新年早々入院というような 20年ぶりの経験をしてしまいましたが、現実としては、なかば「逃走」して、また普通の生活を送っております。
まあ、別にお医者様に文句はないとはいえ、最近の報道で、「43%の医師が退院可能な患者を入院させたままにしたことがある」なんてのもありましたし、いずれにしても、私自身はわりと穏やかな人間ですが、医療者たちに感謝はしつつも、「ややバトルに近い」状態で大脱走をしたりしていました。
私自身は、人間の寿命というのは、65歳あたりが最適なのかなと今でも思っていまして、ずいぶん以前の記事にも書きましたけれど、ルドルフ・シュタイナーが 64歳くらいで亡くなっていて、ノグッチこと日本最初の整体師である野口晴哉さんは享年 65歳でした。好きな俳優である加東大介さんなんかも 64歳でしたね。
ちょうど、今年の元旦には、原作が加東大介さんである映画の『南の島に雪が降る』 (1961年)の DVD を手にしたこともあり、それを観ていました。
いい映画でした。実際に太平洋戦争末期にニューギニアで軍曹だった加東大介さんが命令を受けて演芸分隊を立ち上げた自身の戦争経験を描いたもので、東北出身の部隊の兵士たちなどが、舞台に雪が降る光景を見て、誰もが田舎を思い涙を流しているシーンが印象的でした。娯楽というのは、正しい方向であれば、多くの人たちの心に本当に響くものだと思います。
1950年代から 1970年まで森繁久彌さんの『社長シリーズ』(全33作)には、加東大介さんが主要役としてほぼ全作出ていましたけれど、私は全作見ています(今はアマゾンプライムでも大体無料で観られます)。
えーと…もう何の話だかわからなくなってきていますが、私も今年はムーミンの年ということでもあり、いろいろと思う次第ではあります。
そんなこんなで、2026年最初の記事は、いろいろと考えた上で、ボー・イン・ラーの著作『自由の亡霊』 の「パート3」をご紹介させていただきたいと思います。
自分たちが望むことは何でも許可されるべきだというのは自由なのか
こういう連載ものは、一度始めると、意味があまりわからないセクションがあったとしても、途中でやめられないですね。
これまでの記事は以下にあります。
・ドイツの精神的指導者ボー・イン・ラーの著作『自由の亡霊』 で語られる自由の真実(パート1)
In Deep 2025年12月29日
・ドイツの精神的指導者ボー・イン・ラーの著作『自由の亡霊』 で語られる自由の真実(パート2)
In Deep 2025年12月30日
なお、この著作を連載しているリチャード・C・クック氏という方は、今回のパート3の序文に以下のように書いています。
リチャード・C・クック氏の序文
ボー・イン・ラーに関する資料の発表に関わった人々は、「自由の亡霊」について次のように定義している。
1. 自分たちが望むことは何でも「許可」されるべきだという愚かな考えがある。
2. 地上のさまざまな制約から自由になれば夢をかなえられると考えて、私たちは魅力的な考えを思いつくが、結局は、霊的な法則と霊的な遺産を考慮に入れなかったために失望することになる。
3. ポーランド語で「自由の亡霊」は「Upior Wolnosci」となり、これは「ネガティブでいつまでも残る幽霊のような存在」を意味するが、素晴らしい翻訳といえる。
4. 思考、発言、行動を完全に制御できていない人にとって、「自由」とは一体何を意味するのだろうか。
それでは、ここから本文です。
ボー・イン・ラー『自由の亡霊』 -- 全12部構成の第3部
Bô Yin Râ: "The Specter of Freedom"--Part 3 of 12: "Communality"
Richard C. Cook
コンテンツ:
1. 蜃気楼
2. 必然性
3. 共同体性
4. 権限
5. 仲間意識
6. 失敗した経済
7. 競争
8. うたい文句への熱狂
9. 自己実現
10. 宗教
11. 科学
12. 現実の意識
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パート3 :共同体性(Communality)
人間はこの地球上で共同体を必要とするが、それは霊においても同様であり、共同体の中でのみ自分自身を経験できる。
外部生活における共同性とは、次のことを意味する。 – 自分の「意見」を他人の「意見」と統合し、全員の意見から共同体としての財産が生まれるようにすることだ。
個人はそれぞれ異なる「意見」を持っており、それを通じて自分自身の思考の多くの落とし穴を自分自身で理解できるようになる。
しかし、各個人の「意見」は他の誰かの意見と統合することができ、こうして共同体が生まれる。
すると、誰もが他人の「意見」を共有し、全員の意見が形になり、共同体的なものになる。
しかし、拘束力のある「意見」が存在しない場合でも、必要に迫られて人々は共同体を求める。特に、誰にとっても「意見」として耐え難い苦しみを回避することに関してはそうである。
そして今日では、最も包括的な共同体は、一般的な不満を通じて存在している。
この点では除外されるのはほんのわずかだ。
不満は主に、人間の共同生活が自らの安全のために作り出した形態に当てはまるが、その安全は時には個人にとって破滅を意味する。
ここでは不満が正当化されることが多い。
全体の構成要素であり、コミュニティが自分の維持に役立ってこそ、コミュニティに喜んで貢献できる個人の幸福を考慮せずに、コミュニティ生活を確立するのは愚かなことだ。
しかしながら、個人が自分自身を誤って判断し、自分の特別な立場のため、あるいは生活の窮乏に直面しているために、単に自分の存在を理由に、自分のためにコミュニティのサービスを要求する権利があると信じるのも同様に愚かなことだ。
私が「コミュニティ」と「共同体性」について話すとき、同じことを意味しているわけではない。
共同体に属するものは私(個人)のものではないが、私が他者と共有しているものは私のものだ。
私(個人)にとって「コミュニティ」とは、何よりもまず、外的な集合体であり、「共同体性」は魂に関わるものだ。
そして個人は、単に自分の存在のためだけに、コミュニティに属する富を他の人と共有するようにコミュニティに要求することはできないのだ。
人は自分の貢献を通じて共同財産の「共同所有者」にならなければならない。共同体がその人の貢献に割り当てる価値によって、その人の「権利」が決まる。
この点に関して異なる価値基準を要求するのはナンセンスだ。
コミュニティは、拒否された場合に失うことになるものを常に高く評価する。
豊富に存在する才能を、必要とする独自の貢献と同じくらい高く評価するとどうして期待できるだろうか?
どのような形態のコミュニティであってもそれは変わらない。
したがって、個人がコミュニティに対して不満を感じるのは当然かもしれないが、コミュニティにも同様に権利がある。
あなたがコミュニティに欠けている特定のものに貢献しようとする場合、コミュニティはあなたの貢献によるコミュニティの豊かさに応じて、その所有物の「共同所有権」を保証する。
あなたの貢献が評価される要素によって報酬が決まるのだ。
しかし、コミュニティが必要としているものに貢献できないと言うなら、あなたは自分の無能さを認めていることになる。そして、あなたが価値あるものを伝えたり貢献したりしていない部分が提供されなかったとしても、文句を言うことはできない。
コミュニティには、あなた自身の基準に従ってあなたの貢献を評価するのに十分な「ビジョン」がないと文句を言うのはあまり意味がない。
共同性は別の形で現れる。
ここでは、あなたが貢献するものは、たとえそれが欠かさず行われても、あなたの能力の証として高く評価される。同時に、他の人の貢献も、それが達成する力に見合っている限り、尊重することが求められる。
あなたにはできる限りの援助が提供されるが、あなたが援助できるところであればどこでも、その援助を基にさらに援助が進められる。
まず第一に、あなたは誰なのかという質問がされる
コミュニティはあなたの貢献についてのみ尋ねるが、共同体性は人全体について尋ねる。
共同体がその形式に満足せず、魂の共同体性へと高められたときにのみ、あらゆる不満は消えるだろう。しかし、不平等は必然性と精神によって条件付けられるため、存在し続けなければならないのだ。
私たちの社会生活は、維持のために血液を運ぶ動脈が硬化することで病んでしまう。
徐々に真の共同体へと変化していけば、初めて癒される。
今でも人々は、自分たちが「共同で」多くのものを担っている、あるいは持っていると考えている。しかし、「共同」という言葉は単なる象徴であり、それが本当に意味するものが欠落していることがあまりにも多い。
それでも人々は他人の「意見」を尊重するどころではない。なぜならそれは「自分たちの」ものを表しているからだ。つまり、それは自分たちの財産を表わしているからだ。
それでも、人々の貢献は、その物質的かつ瞬間的な価値を付加する能力によって、どこでも評価される。人の貢献は、必要とされ、コミュニティがその貢献に対して報酬を与えるまで、評価されないままだ。
コミュニティから共同体が生まれるには、まだ多くのものが欠けているのだ。
共同体内の個人は自分自身の価値を十分に認識しており、この自己認識から他者に与える敬意をすべて得ている。
他人が自己成長を達成できるように支援しようと努めるほど、自分自身の成長にも近づくことができるということを人は知っている。
「共同体性」は必然性の構造の中で真の自由を要求するが、一方で「コミュニティ」は自由の亡霊の餌食になることを決して防ぐことはできない。
共同体性はすべての対立を均衡させる。なぜなら、共同体は、大衆の上にそびえ立つものと同じくらい些細なことが必要性に根ざしていることを知っているからだ。
魂の共同性は、家族の中で初めてその影響範囲を見つける
それを活用する方法を知っている家族のメンバーは幸せだ。
この影響範囲は、その後、自治区、国、そして国家を超えて広がる。
それはすべての人間の生命に空間と成長を提供する。
それは、必然性の構造の中で、すべての人に真の自由を保証することができるのだ。
もし自由がすべての人に共有されるなら、誰も他人から自由を奪おうとすることはなくなるだろう。
それは、すべての個人の脅かされることのない「所有物」として保証されている。
それは所有物となり、もはや憧れの夢ではなくなる。
したがって、もはや誰も自由の亡霊を追いかけて迷うことはできず、遭遇した場合には、気楽にそれに背を向けるだろう。
そうすれば、必要に迫られて、多くの人々の意志を共同体が結集する意志に、自分自身も他の多くの人々も従うようになれば、誰も自分の自由が損なわれたとは思わなくなるだろう。
多様性の起源は統一性であるが、統一性は多様性の最高の瞬間でもある。
統一のもとでのみ、多様性の中の真の自由は維持されるのだ。
しかし、統一は、それと結びついた多様性を超越しない限り、硬直的で不毛なままだ。
多様性から統一性が生まれ、それによって多様性が統合されるのだ。
こうして共同体は完成する。
こうして共同体はピラミッド状に形成され、その最高の統一性において頂点を極める。
しかしながら、選択と恣意性は、ここで真の自由だけが確立できるものを決定することはできないかもしれない。
そして、全体に従属し、統合されて初めて、個人は、それ自体の中で完成された共同体が自ら生み出す統一性の担い手となることができるのだ。
12部構成のパート3はここまでです。
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パート3に対するリチャード・C・クック氏のコメント
このセクションで、ボー・イン・ラーは、人類が地球上で孤立してではなく、人類全体の一部として共に生きることの絶対的かつ根本的な必要性を確証している。
ジョン・ダン (1572年-1631年の詩人)はかつて「人は誰も孤島ではない」と書いた。しかし、ボー・イン・ラーは二つの明確なレベルを区別している。
第一のレベルは「共同体」と呼ばれ、厳格な相互関係の原則に基づいて機能し、個人はそれぞれの貢献に応じて評価される。しかし、「共同体」は「自由の亡霊」の侵入によって容易に悪用される。
今日、私たちは至る所で、利己主義と暴力によって真の共同体を破壊しようとする勢力の中に、この悪用を見ることができる。しかし、ボー・イン・ラーが「共同体性」と呼ぶ、より高いレベルがあり、それは人間の魂を通して機能し、そこではすべての個人が生来の存在の資質によって評価される。
真の共同体のモデルは、完全に機能する人類家族だ。このレベルにおいて、人類は部族主義や「万人に対する個人の戦争」から脱却し、人間関係と活動において統一へと向かうことができる。
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