音や物質の認識から見える「この世は存在しない」こと
ボー・イン・ラー氏の著作『自由の亡霊』を連載していますが、何だかダラダラと長引いてきてしまっていますので、少し一気に進めます。全12部で、今回は 11部ということで、あと 2セクションです。
今回は「科学」というタイトルになっていますが、前半はそれなりにわかりやすい感じもしないでもないのですけれど、やはり後半が理解しづらいネチネチ氏特有の表現となっています。
ただ、興味深かったのは、
「現実の物質や音や光などを人間が解釈することについての理屈」
でした。
たとえば、以下のような下りがあります。わかりにくい表現ですが。
> たとえ私たちが物自体を扱っていると思っても、観察対象として利用できるのは、変換された光エネルギーから再現された内部イメージだけであり、言語では音としてそれらの正確な表現を持っているだけだ。
これはですね。おそらくですが、
「私たち人間は現実の物質をなぜ認識できているのか」
という概念を述べているのだと思われます。
たとえば、2015年の In Deep の記事に「植物が「緑色」であり続ける理由がわかった!」というものがあります。
かなり長い記事なんですが、その途中で「見る、とはどういうことか」についてふれています。抜粋します。
2015年7月6日の In Deep より
太陽光がその物質に当たったときに、光は、
・反射する光
・吸収された光とにわかれます。
上の図にありますように、「目で見える色は、反射した太陽光」ということで、実は、私たちは物質の色を見ているのではなく、
「反射した光が目に入ったものを脳で感じているだけ」
ということになります。
たとえば、植物なら、その葉が緑色に見えるということは、植物が緑の光を「吸収しないで反射している」から緑に見えていることになるという理解でいいのではないかと思われます。
ところで、「見る」ことに関して、さらに言いますと、反射した光は意識しなくともこちらに向かってくるのですから、実は、
「物体を見ているというより、反射した光(電磁波)を脳が感じているだけ」
とも言えます。
これが「見る」という行為の実相で、さらに言いますと、これはちょっと別の話になってしまいますが、赤とか緑とか白とか様々な「色は存在する」と私たちは何となく思っていますが、実は、色はこの世には存在しません。
「どうしてその色をその色だと人間は感じるのかは、これもまた永遠の謎」
なのです。
下の図は色の分布で、図の下に「電波」とか「マイクロ波」とかが書かれてありますが、つまり、私たちは電波とかマイクロ波とかいう「波長に色を感じている」わけです。波長に色などはついているわけもないのに、私たちはそれを「色」と認識します。
電波にもマイクロ波にも赤外線にも紫外線にもX線にも当然、色はついていません。しかし、それらの波長を私たちは「色」と感じている。
色に関しては、上記のように、曖昧なことではなく、「本当に存在しない」のです。単なる波長をなぜ人間が「色」として感じるのかは、永遠の謎とされています。
しかし実際には、色だけではなく、「この世は、色も形も含めて何もかも存在しない」ということもあるのですが、それについて関係ない話ですので、置いておきます。
あるいは、量子力学的な観点からは、「人間が観測するまではこの世には何も存在しない」という実験で証明された現実があります。以下の記事などにあります。
・「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
In Deep 2015年6月6日
実験を主導したオーストラリア国立大学の准教授は、以下のように述べています。
「この実験は観測がすべてであることを証明しました。量子レベルでは、あなたがそれを見ていないのなら、それは存在しない、ということになります」
これは先ほどの「なぜ色を色として感じるか?」とは異なる話ですけれど、とにかく、いろいろな意味で、「現実は存在していない」というより、
「現実の音や光や物質が存在しているという理屈はない」
のです。
それは私たちの耳や鼻や目などの感覚器官(あるいは脳)の中だけで認識されているもので、「この世には、私たちの目に見えているような現実的な物質はまったく何にもない」ということに関しては、今はかなり現実味を帯びています。もちろん、それが理解されるようになったのも「科学」のお陰です。
量子力学では「宇宙という存在は、私たちの知覚に過ぎない」という考え方も広く認められています。こちらの 2020年の記事で、ドイツのマックス・プランク研究所の人々や、物理学者であるロジャー・ペンローズ氏の主張をご紹介しています。(なお、記事はパンデミックが始まったばかりの 2020年3月のもので、前半はその関係の記事となっていて、本題は後半からです)
そして、おそらく「死後の世界」は、それらとは(ほんの少し)異なる認識のメカニズムの世界となると考えられるわけで、なので、私たち生きている人間は、亡くなった人間たちの世界を(基本的には)見ることも聞くこともふれることもできないのだとは思います。
ボー・イン・ラー氏の『あの世についての書』(パート7)には、以下のように書かれていました。
「あの世」を理解する方法を学ぶには、宇宙の 3つの領域を区別する必要がある。
第一に、物理的・感覚的な知覚方法の領域、つまり物理的な世界だ。
第二に、霊的・感覚的知覚の領域、つまり精神の世界だ。
しかし、第三に、本来の存在の隠された原因創造力の領域がある。これは、宇宙の精神的次元と物理的次元の両方におけるすべての知覚形式とその現象世界の影響力の唯一の現実だ。
わかりにくい言い方ですが、「生きている人間の世界と死後の世界では、共通する領域がある一方で、通常は共通していない領域がある」ということなんでしょうかね。
あと、今回ご紹介するボー・イン・ラー氏の文章では、「言語」の重要性とその意味についても書かれています。
そろそろ始めます。過去分は以下にあります。
・『自由の亡霊』(パート1 / 蜃気楼)
In Deep 2025年12月29日
・『自由の亡霊』 (パート2 / 必然性)
In Deep 2025年12月30日
・『自由の亡霊』(パート3 / 共同体性)
In Deep 2026年1月6日
・『自由の亡霊』(パート4 / 権威)
In Deep 2026年1月11日
・『自由の亡霊』(パート5 / 仲間との結びつきへの衝動)
In Deep 2026年1月18日
・『自由の亡霊』(パート6 / 失敗した経済)
In Deep 2026年1月25日
・『自由の亡霊』(パート7 / 競争)
In Deep 2026年2月1日
・『自由の亡霊』(パート8 / スローガンへの熱狂)
In Deep 2026年2月15日
・『自由の亡霊』(パート9 / 自己実現)
In Deep 2026年2月17日
・『自由の亡霊』(パート10 / 宗教)
In Deep 2026年2月21日
ここからパート11です。
ボー・イン・ラー『自由の亡霊』 -- 全12部構成の第11部
Bô Yin Râ: "The Specter of Freedom"--Part 11 of 12: "Science"
Richard C. Cook
コンテンツ:
1. 蜃気楼
2. 必然性
3. 共同体性
4. 権威
5. 仲間との結びつきへの衝動
6. 失敗した経済
7. 競争
8. スローガン(謳い文句)への熱狂
9. 自己実現
10. 宗教
11. 科学
12. 現実の意識
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パート11 :科学(Science)
世俗的な知恵を持つすべての知識の母は言語だ。
しかし、かつて私たちの動物の祖先がその乏しい知性でコミュニケーションをとっていた喃語(※ 乳児の言葉)や吠え声から、聖霊によって生み出された最初の言葉に至るまでの道のりは長い。
原始的な動物である人間の脳が、あらゆるところから降り注ぐ物理的な光のきらめきを、無形のものも包含できる理解力に変換できるほど感受性が強くなるまでは、人間の声によって発せられる単なる音は「言語」にはなり得なかった。
私たちが理性、合理性、思考の「光」、そして聖霊の「光」について話すとき、それは単なる言語上の類推ではない。
太陽や星の物理的な光として肉眼で知覚できるもの、つまり月が太陽光線の弱められたものとして反射するものは、同時に精神的な実体でもある。それは他の動物の未発達な脳には知覚できないが、地上の動物である人間の長く敏感な脳に吸収され、魂が内なる理解の領域を創造する力に変換される。
もし魂が純粋で変換された光エネルギーからすべての外的事物の想像できるイメージを創造することができなかったら、私たちは外的生活において、この地球上の単なる動物の中で最も発達した動物たちよりもずっと多くのことを理解することはほとんどできなかっただろう。
こうした外形の「イメージ」の助けによってのみ、私たちは、感覚的に知ることができないつながりのために、動物の仲間である動物たちでさえも決して理解できないことを、自分たちにとって「理解可能」なものにすることができるのだ。
しかし、その対象がもはや外部の形の反映ではなく、私たち自身の内なる創造物である「思考」は、私たちの脳内に物理的な光という変換された物質が豊富になければ(人間が思考することは)不可能であろう。
地球上の人間の内面で形成されるあらゆる「概念」、つまり人間が理解できるあらゆる思考は、単に変形された物理的な光物質で作られたイメージであり、このように生成された「沈殿物」の中でのみ、魂の現実と実質的な精神的現実が地球上の私たちにとって具体的なものになる。
これらの内的イメージを音を通して伝えるのが言語であり、その特徴は各個人に刻み込まれた生活のリズムによって決まる。
脳内で変換されたこの光の物質は、理解できないほど小さな物理的な光エネルギーの波として地球上のすべての物質に絶えず浸透し、今では最も多様な構造を形成できる。
これは、一般的な用法で定義される外界の単なる「現実のもの」であれ、魂の形や実質的な精神的形で広大な存在にある絶対的な現実であれ、「現実のもの」にまったく対応する必要がない。
古代からすでに地球上の思慮深い人々は、真に現実のものを理解の範囲内に収めるためには、イメージを創造する内なる力を厳密に制御する必要があることを経験を通じて認識していた。
誤った結論や誤った判断は常に不注意な内面の形成の結果だ。
しかし、思考と推論の結果が現実を証明する領域での出来事についての確実な知識につながるためには、形態を創造する内的方法がどれであるかを最終的に確実に理解するために、非常に多くの世代を通じて無数の人々が自制心を保つ必要があった。
こうして、「知識」の芸術、つまり「科学」として正しく説明されるものが生まれた。
しかし、この厳格な自己規律は、必要性に根ざしていることが判明し、多くの好まれた幻想を破壊したので、抑制されないイメージの創造方法を放棄するつもりのない自己欺瞞者がいつも数多くいる。そのため、私たちは、あらゆる厳密に定義された科学的基準よりも優れていると信じる空虚な妄想にどこでも遭遇する可能性がある。
彼らは、自分たちの思考の「自由」が科学によって脅かされていると感じており、現実の姿を作り出すためには、あらゆる内面的な形の創造をも命令しなければならない必然性から逃れようとして、自由の亡霊を追っていることに気づいていない。
確かに、「正確な」科学に携わる多くの人々は、自分たちの小さな荷車の荷物の先を見ることのできない、ただの貧しい「荷車運び人」に過ぎないのだ。
表向きの「科学」も傲慢さを隠さなければならないだろう。
ツールが不適切に使用されたとしても、それが本来の目的の作業に役立たないことを証明するものではない。
真の宗教的感情が科学的思考の規則によって脅かされると信じるのは単なる愚かさであり、経験を通じて開かれた後にのみ「科学的に」突き進むことができる領域に、今日の科学的思考者が単に慎重さによって踏み込むことを妨げているというだけの理由で、真の科学が最高の精神的知識への道を阻んでいると想像するのも愚かさに他ならない。
今日、ほとんどの人が、思考によって発見できず、代わりに経験されることを望むものはすべて難解な迷信の匂いがすると考えているというだけの理由で、科学分野で働く人々が自分自身の中でスピリチュアルな経験を求める決心をすることは決してできないと結論付けるが、それは非科学的だろう。
思考のみに奉仕する形で科学を実施し、それによって目覚めた生活から疎外する人々は、混乱した妄想の空想に取り憑かれている人々と同じくらい、自分の夢に囚われた愚か者だ。
あらゆる人間の努力は、生命に奉仕し、地上の存在を豊かにすることを求めなければならない。そうしないと、人間自身が支配権を確立しようとするところで奴隷となってしまう。
すべての科学は言語によって育まれるが、言語は物理的な光エネルギーの変換された内部構造を音で表現したものに過ぎないため、科学の発展は言語の適切な問いかけに大きく依存している。
この「質問」は、新しい直感を得るための最も信頼できる手段としてずっと以前から認識されているはずの場所で、あまりにも稀にしか行われていない。
すべての知識が試験管や瓶の中で調査されている物質の挙動によって明らかになるわけではない。また、継続的な観察によってのみ明らかになるわけでもない。
重要なことが発見されるのは、ある言葉が思考を呼び覚まし、多くの人が探し求めていた知識がどこに隠れているのかを知ったからだ。
このように、正しい方法で「質問」できる人々に言語が道を示してくれるものが、さらにたくさん見つかるだろう。
地球上のこの人生では、事実上、言語を通じて適切にアクセスして経験することができないような知識は存在しない。
たとえ私たちが物自体を扱っていると思っても、観察対象として利用できるのは、変換された光エネルギーから再現された内部イメージだけであり、言語では音としてそれらの正確な表現を持っているだけだ。
あなたは、自分の外側の目が物を見て、その表面の最も微細な粒子に気づいていると思うだろうか?
あなたが「見る」ということは、光のエネルギーのきらめきを、あなたの「内なる世界」全体を構成する物質へと集中的に変換しているに過ぎない。たとえあなたが外の世界だけで生きていると思っていても、実際にはその中でのみ生きているのだ。
あなたの目の「レンズ」は、あなたを取り囲む大量の放射状の閃光から、数え切れないほどの光を絶えず集めている。
その量は、レンズがなくても脳の受容膜に届く量だ。しかし、レンズは集めたものを即座に集中させた形で「網膜」と呼ばれる「グリッド」のシステムに送信し、それらの物理的な閃光を、瞬時に形を創造する物質へと変換して、いわば自動的に、外形の内なるイメージがそれを必要とする場所へと転送する。
そして、あなたは計り知れないほど豊かで変化する内なる「イメージ」の世界に生きており、この絶えず活性化する内なる世界の結果としてのみ、あなたはすべての感情、思考、感覚を受け取るのだ。
したがって、「科学」とは、必然性によって決定された内部的に作り出されたイメージの構造を受け入れると同時に、恣意的に作り出されたイメージの受容を拒否することにほかならない。
外部のつながりを認識することに関して厳密な科学的思考から目を背けることは、故意に自分自身を欺き、知りたいという自分の意志を自ら裏切ることを意味する。
しかし、経験を通じてのみ得られる知識の結果について話しているのであれば、地上を超えた経験をした人々が習得する方法を知っている合理的調査の厳密な科学的プロセスは、自分自身の経験の確実性に対する歓迎すべきチェックを提供するだけになる。
科学がその従者に要求する厳密な思考の試練に最終的に耐えられないものは、確かに経験に根ざしたものではない。真の知識の幻影として、それは、地上の人類による知識の探求において、科学が持つ高い地位を、彼らが不快に感じる「科学」に認めるよりも、欺かれることを好む人々を一時的に欺くことしかできないだろう。人類は、ここで苦労して獲得した思考の訓練を受けるに値するに違いない。
この自明の理を厳粛に証言するのは楽しい仕事ではないが、自己欺瞞を許さない合理的な前提に基づくすべての「学問的知恵」が非常に疑わしいとみなす狂信者に陽気に踊らされている多くの人々のために、それは強く要求される。
確かに、科学にはいつも間違いがないとは言えないが、科学者が達したあらゆる誤った結論は、遅かれ早かれ、まさにその科学によって容認できないものであることが示されてきた。
地上のあらゆる人間の知識と同様に、科学も誤りの可能性を孕んでいる。
しかし、真に純粋な科学が実践されているところでは、そしてその科学に仕える者達のための偶像崇拝だけではなく、無批判な特異性が自由の亡霊によってあまりにも簡単に誘惑される荒涼とした砂漠では決して得られない確かな知識を得るためのはるかに多くの保証が与えられる。
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