・THP
今日はね(やっぱり暗い話なのかよ)、いやいや、暗いかどうかはわからないのですけれど、これは、
・アメリカの行方不明者たちのいくつかで共通している「異常に不可解」な事実から推測できる「全世界に広がる失踪システム」。目的や方法は不明
2016/06/23
でご紹介した、アメリカの行方不明者の一部に存在している「不可解な共通点」の具体例といっていいかもしれません。
それは、アメリカのボストンに住んでいると思われる人物の記事で、書いている人は、「ボストンに住む友人が行方不明になり、その後、水の中で遺体として発見された」経験を持つ方でも、その友人の件が契機となり、その人物は、
「ボストンの何件かの行方不明事件を独自で調べ始めた」
ということのようなのです。
そして、これは具体性に溢れたものすごい記事だと思いまして、ご紹介させていただこうと思いました。
かなり長い記事ですが、それを翻訳したものをご紹介したいと思います・・・が・・・ただ、どうして、このサイトを見つけたのかわからないという不思議な部分はあって、検索して見つけたのではないですし、ふと見ると、目に前にこのサイトが開いていたみたいな。
まあ、私もボケにボケてきていますので、何かで検索したかクリックしたことを忘れているのでしょうけれど。
Sponsored Link
想像以上の「奇妙」は私たちに何を想起させるのか
ちなみに、先ほどもリンクしましたアメリカの行方不明者たちのいくつかで…では、アメリカの行方不明者の一部に共通する奇妙なことについて、いくつかの点をピックアップしていますが、今回ご紹介するボストンの 2003年から 2016年までの行方不明事件では、そのうちの以下の点で比較的共通しています。
「水のあるところで遺体が見つかる」は 100%当てはまります。
・行方不明者が遺体で見つかる場合、水のある場所で見つかる
・十分に捜索された場所で後で見つかることが多い
・複数のうちひとりが行方不明になった場合、なぜ離ればなれになったのかがよくわからない
・瞬間的に失踪する
・死因が特定できない
・死亡時刻と遺体が水に入っていた時間が合わない(しばらく経ってから、おそらく死後、水に入れられている)
そして、ボストンの場合で最も重要なことは、
「全員が男性である」
ということです。
一般的に、行方不明になる人たちのイメージとしては、「誘拐」などという言葉と相まって、子どもや、あるいは女性といったものがあるかもしれないですが、今回ご紹介するボストンで共通した不可解性を持つ出来事の当事者たちは、一名だけ 40代の方がいますが、
「ほぼ全員が十代から二十代の大人の男性」
なのです。
さらに、今回のボストンの例では、すべてにではないですが、下に挙げることが共通しています。
・殺人ではない可能性が高い
・パーティなどの席で突然いなくなる
・その場から自主的にいなくなる。しかしその理由がわからない
・「自分の意志」で水のあるほうへと向かっている
・しかし自殺ではない
・最後に「誰か」と携帯で話しているフシがある
また、あくまでボストンの例ですが、行方不明になる人物像としては、
・優秀な大学の学生か、卒業生
・あるいは海軍兵士
・音楽の才能に秀でている
などです。
今回は、ご紹介する記事そのものがかなり長いですので、個人的な見解を書いている部分はないと思われ、そろそろ本題に入らせていただきます。
ただ・・・。
今回のボストンの行方不明の事例を見ていて、先日まで、アメリカの行方不明事象に対して「今日はね」と言わないと不安な気分になっていたのですけれど、
「何か違うのかもしれない」
という思いが生まれてきているのは確かです。
なぜなら、行方不明の後に遺体となって発見されるのですから、親族や恋人にとっては悪夢でしかないことであることは確かですが、どの事例も「本人が苦しんだ形跡がない」のです。
というか、ほぼすべての事例で死因は不明で、検死しても死因さえもわからない。
暴走を承知でいえば、ここには「異次元」、「周波数」、「悪魔、あるいは天使」といった、あらゆるオカルトの要素や概念が介入し得ます。
「人が地上から消えていく」という概念と共に、今回ご紹介することが過去のことではなく、「 2016年の現在も続いて起きている」ということにも留意していただたいと思います。
これらの事案から、何か想像力で、これらに関係する真実をご想起されていただければ幸いです。
では、ここからです。
本記事のほうには、行方不明になった方々の全員の顔写真が掲載されていますが、全員が亡くなられている方ということもあり、それはあえて載せないでおきました。
Boston’s Mysterious Vanishing Men
ボストンでの不可解な男性たちの消滅
夜のパーティの後に姿が消え、その後、死亡して川で発見される若い男性たちの話というと、多くの方は、酔って川に落ちた悲劇の事故としてお考えになるのではないだろうか。
そのような事故は、確かに何となく一般的なことに思える。
しかし、まるでシナリオがあるかのように同じシチュエーションでの「事故」の膨大な類似例があることをご存じだろうか。
そして、これらのケースが、単なる事故ではなく、それよりも何か、はるかに不吉なものだとすれば?
もちろん、このようなことの真実を推測することは不可能だが、しかし、それらの事例の中に、偶然を超えているようにしか見えない類似した部分があるのも事実なのだ。
私のこの、行方不明者たちに関しての強迫観念にも似た思いは、デビッド・ポーリデス氏の研究によるところが大きい。もちろん、私に行方不明になった人々を助けることなどはできないが、注意をもって見続けることはできる。
そして、友人のデニス・ニョローグ(Dennis Njoroge)が行方不明になった件も関係する。私は毎日、ボストンの町中に掲示されている行方不明者たちのポスターを見続けた。
デニスは、行方不明になった1ヶ月後に、チャールズ川の水の中で遺体となって発見された。
警察は殺人ではないとしたが、デニスに関しての情報はほんのわずかしか公開されなかったこともあり、寒い 12月の夜にデニスに何が起きたのか、私にはまったくわからなかった。
警察と家族以外には事実は知らされないのかもしれない。
しかし、デニスの一件は私に、事件の真実が出るのは難しいと思われる他の類似したケースを調べさせることを促したのだ。
私は自分自身で調査を開始することを決めた。
そして、私は私のこのサイトに私の調査結果を載せ、他に興味を持っている方々に何らかのアイディアを提供することができればと考えている。
下は、私が調べたボストンの行方不明者の、名前、年齢、行方不明になった年月で、それぞれの詳細を記す。
ジョン・デヴァリオ(49歳)2003年3月
ダスティン・ウィリス(26歳)2007年3月
ウィリアム・ハーレー(24歳)2009年10月
ユジーン・ロジク(26歳)2010年2月
デビッド・マーク(24歳)2011年2月
フランコ・ガルシア(21歳)2012年2月
ジョナサン・デイリー(23歳)2012年10月
エリック・マンセル(24歳)2014年2月
ジョスエ・キスペ・アルメンドロ(18歳)2015年10月
デニス・ニョローグ(21歳)2015年11月
ザカリー・マー(22歳)2016年2月
それぞれの例を詳しく見ていきたいと思う。
ジョン・デヴァリオ / John Daverio 49歳
ジョン・デヴァリオ氏は、ボストン大学で教鞭をとる 49歳の教授で、誰からも愛される人物だった。彼はフィラデルフィアで生まれ、ボストン大学で博士号を取得するためにボストンに移住した。
彼は 1987年に音楽理論協会の会長となり、彼が亡くなるまでその地位を努めた。また、デヴァリオ氏は、ドイツのロマン主義と、19世紀の音楽家ロベルト・シューマンに関しての世界有数の研究者の1人として知られていた。
デヴァリオ氏は、彼を知るすべての人にとって明るく楽しい人物であり、彼が自殺したとは考えづらい。
デヴァリオ氏は、2003年3月16日の午後8時30分に、赤いジャケットを着て、ボストン大学のキャンパスを歩いていたところを目撃されている。
それが、彼が目撃された最後となった。
彼は、教室に財布とブリーフケースを残していたが、持っていた白い袋は見つかっていない。
そのほぼ1カ月後の 2003年4月14日、デヴァリオ氏は、チャールズ川のケンブリッジボートハウスの近くで遺体となって発見された。
警察は殺人ではないとしたが、死因については説明されていない。彼に近い人たちは、自殺はあり得ないと述べている。
ダスティン・ウィリス / Dustin Willis 26歳
ダスティンは、ノースカロライナ州ハッテラスから来た若者で、アメリカ海軍の下士官、そしてエンジニアとして、駆逐艦ドナルド・クック号の乗組員としてバージニア州ノーフォークに駐留していた。
彼は音楽家でもあった。
結婚はしていたが、妻とは別居していた。
彼は5歳の息子と同居していた。
ダスティンが 26歳の時、駆逐艦ドナルド・クック号は、聖パトリックの日の祝いのために、ボストンに寄港した。
それは 2007年3月16日で、その日のボストンは、夜に吹雪となる予想がされていた。
ダスティンは、クインシー・マーケット近くにあるパブ「ブラックローズ」で、船員仲間と飲んでいた。
午後 11時過ぎ、仲間同士での帰途で、悪天候の中、友人たちはダスティンの姿を見失ってしまう。
友人たちの証言によれば、ダスティンは酔っていなかったという。
その夜、ダスティンは、ガールフレンドと携帯電話で数回話している。これは、ガールフレンドからも確認がとれている。
ガールフレンドがその日、最後にダスティンに電話をした時、携帯電話から帰ってきた声は、ダスティン本人ではない声だった。その男性は、この携帯を拾ったと彼女に言った。
そのダスティンの携帯電話は、ロングワーフ波止場近くの地面で、午前 1時頃に見つかったが、ダスティンの姿はなかった。
行方不明になってから5日後の 3月21日、ダスティンは、ロングワーフ波止場の川岸から7メートルほどの水の中で遺体となって発見された。これは彼の携帯電話が発見された場所から数歩の場所だ。
警察は、ダスティンは吹雪によって方向がわからなくなり、港から転落したという事故として、この事象に対応した。
ウィリアム・ハーレー / William Hurley 24歳
ウィリアム・ハーレーは、ノースカロライナ州の海軍兵士だった。彼はフロリダ州に駐留していた。
2007年、彼は、ボストンで、彼のガールフレンドとなる女性と出会い、この頃から2人はデートを始めた。(皮肉なことに、この日は、ボストンでダスティン・ウィリスが行方不明になった日と同じ夜だった)
2007年12月、ウィリアムは彼女と一緒に暮らすために、フロリダからクインシーに移住した。
2009年10月8日、ウィリアムは、友人のブレンダン・ベンティから、TDガーデンでおこなわれるブルーインズ・ゲーム(アイスホッケーの試合)に招待された。
しかし、試合の途中で、ウィリアムは仕事で疲れているので、彼女に車で向かえに来てもらうといい、そして、ガールフレンドが彼を迎えにやってきた。
彼女は道がわからなかったので、ウィリアムが通行人に聞いたところ、そこは「 99ナシュア・ストリート」だと教えられた。
ガールフレンドは、ウィリアムの携帯がないことを指摘し、取りに戻るよう促した。
彼女は通りの向こうにいるからと彼に告げ、そして、車を一周させて、その場所に行くと、そこにウィリアムはいなかった。
ガールフレンドは、ウィリアムを探し、そこにいた人たちに、彼を見なかったかと尋ね回ったが、彼はまるで空気のように消えてしまったかのようにいなくなった。
ウィリアム・ハーレーの捜索が始まったが、情報はほとんどなかった。彼の携帯が見つかったが、警察は、情報をほとんど公開しなかった。
行方不明になってから 6日後の 2007年10月14日午前2時30分、ウィリアムは 200ナシュアストリート近くのチャールズ・リバーの川岸から 7.6メートルの水の中で見つかった。
ウィリアムには怪我はなく、鍵や財布もそのままだったために、警察は強盗による犯行を否定した。
サフォーク地方検事のスポークスマンは、ウィリアムの遺体は水の中に「2日間」あったと考えられると述べた。
これは単純なミスなのかもしれないが、ウィリアムが行方不明になったのは6日前であり、2日前ではない。
ユジーン・ロジク / Eugene Losik 26歳
ユジーン・ロジクは、ベラルーシで生まれて、7歳の時にアメリカにやって来た。
彼はマサチューセッツ大学アマースト校を優秀な成績で卒業し、また、空手の黒帯保持者だった。
彼が 25歳の時、ガールフレンドとローレンスに住み、レイセオンという会社で働いていた。
2010年2月20日、ユジーンは、友人の誕生日を祝うパーティに出席するために街に出ていた。彼と友人は、マリオット・ロングワーフ・ホテルに宿泊していた。
パーティーの後、ユジーンは、深夜 2時24分に、ジャケットを着ずにホテルの裏口を出る姿が、ホテルの監視カメラに収められていた。
友人たちは、彼は、クリストファー・コロンブス公園に向かっていたと述べる。おそらくは、タバコを吸うためだったのではないかと言う。
翌朝、ユジーンの姿はホテルになかった。
ユジーンの捜索が始まった。警察は、捜索犬で匂いを辿り、また、水中もダイバーによって探索されたが、ユジーンは見つからなかった。
それから、ほぼ9ヶ月後の 2010年11月8日、ユジーンは、ボストン港のロウスワーフ波止場近くで遺体となって発見された。
彼の死因はいまだに不明である上に、どうして、遺体が9ヶ月も見つからなかったのかも謎だった。
デビッド・マーク / David Mark 24歳
デビッド・マークは、ニューヨークで育ち、アルバニー大学で地理学の修士号を取得した。
デビッドは、1型糖尿病を持っており、インスリン注射が常に必要だった。また、彼はアスペルガー症候群でもあった。
行方不明になった時、彼は 24歳だった。
2011年3月2日、デビッドは、両親と住んでいたアルバニーの家を出て、チェスナットヒルエリアに住む彼の妹に会いに、車でボストンに向かった。
デビッドは、フェンウェイ付近のレストラン「ボストン・ビア・ワークス」で食事をした。従業員たちは、彼は上機嫌だったと述べている。
しかし、デビッドは妹の家に現れなかった。そして、アルバニーの自宅に帰ることもなかった。
両親は、デビッドがインスリンなしでは、ショック状態に陥る可能性があることを知っていたため、彼の捜索は速やかにおこなわれた。
数日後、彼の車が発見されたが、デビッドの姿はなかった。彼が最後に携帯で通話したのは、記録では、3月2日の午前6時40分頃だった。
行方不明になって6日後の 3月8日、デビッドは、ボストンの漁業会社の社員によって、チェルシー川で遺体となって発見された。
外傷はなかった。
警察は、死因を公表していないが、殺人の徴候はないと述べている。
フランコ・ガルシア / Franco Garcia 21歳
フランコ・ガルシアは、ペルー人の両親と西ニュートンで育った。彼はボストンカレッジの夜間学校に通い、最終的には医学校に行くことを望んでおり、化学を勉強していた。
フランコは、ウォルサムの薬局でフルタイムで働いていた。
そして、また彼には音楽的才能があった。
2012年2月21日、フランコはクリーブランド・サークルのバー「メリー・アン」で友達と一緒に飲んでいた。フランコは 21歳だった。
彼はその日、友人のキャサリン・コルセッテッリと夜を過ごそうと計画していた。
午後11時27分、フランコは、キャサリンに「僕がいない時に帰らないでね」と、メールをした。
深夜12時15分を過ぎた頃、フランコが、バーのどこにもいないことに友人たちが気づいた。彼の車のキーとジャケットはバーに置かれているままだった。
フランコの姿は、深夜12時18分に監視カメラがとらえていた。彼は、チェスナットヒル貯水池の、彼の車が駐車している場所に向かって歩いているようだった。
彼はお酒は飲んでいたが、泥酔してなかったと友人たちは述べている。
携帯の記録から、それから1時間後くらいに通話をしたことがわかっている。車は駐車された場所にそのままあった。
フランコはそのまま姿を消してしまった。
大規模な捜索が始まった。
特に、貯水地の中を集中的に捜索したが、大規模な捜索にも関わらず、何も発見されなかった。
それから約 50日後の 4月11日、フランコは、その貯水地の岸から5メートルほどの雑草のある場所で遺体で発見された。ここは、警察により徹底的な捜索がおこなわれて何も見つからなかった場所だ。
財布を含めて、所持品はすべてそのままだった。
警察は、「水の中に転落した不慮の事故」としたが、なぜ、あれだけの捜索の際に遺体が見つからなかったかなどについての不審な点にはふれていない。
ジョナサン・デイリー / Jonathan Dailey 23歳
ジョナサン・デイリーは、ノースカロライナ州シャーロットで育ち、バイオリンとピアノを演奏する青年だった。
彼は、アパラチア州立大学で建築技術を学び、後に、友人であり、ルームメイトであったマイルズ・スミスとマサチューセッツ州に移住した。
ジョナサンは 23歳の時に、ボストン建築大学の卒業生プログラムに参加したが、経済的な理由のために途中で大学を離れた。
2012年10月2日の夜、ジョナサンは、マイルズと共に部屋にいた。マイルズが午後9時にベッドに向かうまで、ピザを食べたりして過ごしていた。
翌朝、ジョナサンの姿は消えていた。
彼の身の回りのものはすべて残されていたが、ただ携帯電話だけが部屋からなくなっていた。
マイルズは、ジョナサンの携帯に電話をかけたが、誰もでなかった。そして、その後すぐにジョナサンの携帯電話は不通となった。
1週間後の 10月9日、ジョナサンのアパートから1.6キロほどにあるボストン大学近くのチャールズ川で、ボートのインストラクターが、驚くべきものを見つけた。
ジョナサンの遺体が川の底に沈んでいるのが発見されたのだが、それは木の燃えかすを体にくくりつけられ、チェーンで縛られた状態だった。
警察は、ジョナサンの死は自殺であることを示唆したが、彼には精神的な問題や精神的な病歴はなかった。
エリック・マンセル / Eric Munsell 24歳
エリック・マンセルは、ニュージャージー州ニューブランズウィックで生まれた。
彼は、ボストン大学で航空宇宙工学の学位を得た。
その後、ゼネラル・エレクトリック社で航空エンジニアとして働き、エジソン・エンジニアリング・プログラムを介して、機械工学の修士号を取ろうとしていた。
2014年2月8日、エリックはクラブ「マーケット・ラウンジ」で 24歳の誕生日を祝った。
彼は、トイレに行くときに騒いだということが理由で、店の警備員に店外に出されることになった。午後11時30分頃のことだった。彼は、ジャケットがないと主張していたと警備員は述べる。
それから 30分後、彼は、アパートのあるノースエンドではなく、港に向かって歩いていたことが、マリオットロングワーフ近くの監視カメラでとらえられている。
それから2カ月以上経った 4月23日、エリックは、ロングワーフの港の水中で遺体として発見された。
警察は、エリックの死に不審な点を見出すことができなかった。
なぜ、彼が港に向かって歩いていたのか、そして、なぜ水に落ちたのかは説明されることはなかった。
ジョスエ・キスペ・アルメンドロ / Josue Quispe-Almendro 18歳
ジョスエ・キスペ・アルメンドロは、ランナーであり、また、写真家でもある信心深い若者だった。彼は家族とモールデンに住んでいた。
行方不明になったとき、彼はまだ 18歳だった。
2015年10月17日、ジョスエは、用事を頼まれ、兄と一緒に出かけた。
午後4時30分頃、サマヴィルにあるベッド・バス・アンド・ビヨンド(小売りチェーン店)で兄弟を車から降ろした。
しかし、ジョスエは二度と家に戻ることはなかった。電話をかけても、誰も出なかった。
彼の車は翌日午後10時にクインシーで発見された。
約1カ月後の 11月12日、ジョスエの遺体が、プリマスのサキッシュ海岸に打ち上げられた。
死因について警察からの発表はなかったが、殺人の疑いはないと見られるとされた。
ジョスエが何のためにプリマスに向かったのかは不明だ。
デニス・ニョローグ / Dennis Njoroge 21歳
デニス・ニョローグはケニアで生まれ、彼の母親とアメリカに移住した。
彼は、ノースイースタン大学に通っており、映画監督のクエンティン・タランティーノとバスケットボールを愛す映画監督を目指している青年だった。
21歳だった。
2015年11月29日、デニスは、ノースイースタン大学のキャンパスにあるマリノセンターでバスケットボールをしているところを友人たちに見られている。
これは彼のキーカード・スワイプによって確認されている。
翌日、デニスは電話で母親と話をしたが、様子はふだんと変わらなかったという。
その後、デニスは大学のクラスに姿を見せなかった。
母親への連絡もなかった。
彼の携帯電話は、ケンブリッジのマサチューセッツ工科大学(MIT)キャンパスの周囲で、深夜 2時に最後の通話がなされていた。
それから約1カ月後となる 12月31日午前10時、デニスの遺体が、チャールズ川のボストン側で発見された。
外傷はなく、警察は「殺人事件ではない」と発表した。
ザカリー・マー / Zachary Marr 22歳
ザカリー・マーは、マサチューセッツ州ハーバードで育った。
2016年2月13日、彼は、飲食店「ベル・イン・ハンド・タバーン」で、22歳の誕生日を祝った。
深夜 1時30分頃、彼はコートを置いたまま、タバコを吸うために外へ出た。
深夜1時40分頃、彼はいとこのアマンダマーに「彼らは僕に店に戻ってほしくないと思っているはず。だから帰るね」とメッセージを送った。
友人たちが慌てて外に出てみると、ザカリーは消えていた。
店の監視カメラでは、ザカリーは店内には戻っていなかった。
また、他の監視カメラに、深夜 1時44分に、ボストン・パブリック・マーケットの横を通る姿が収められており、カメラによれば、彼はザキム橋に向かって歩いていた。
警察は、後に、ザカリーがこのザキム橋の下で「水に入る」光景が収められた監視カメラを見つけた(その映像は公開されていない)。
その行動が何を意味するのかは不明だが、警察は、すぐに近辺の水の中の捜索を始めた。
何も発見されなかった。
捜索領域を広げても、結果は同じだった。
彼が行方不明になってから約1カ月後の 2016年3月15日午後17時45分、ボストン科学博物館とレバレットサークル州警察署の宿舎のある川の水中で、遺体が発見された。
遺体はザカリーだった。
彼の遺体が発見されたのは、以前徹底した捜索がなされた場所だった。
ザカリーが、なぜ突然、飲食店から出たのか、そして、チャールズへ向かって、1.6キロの距離を歩いたのかは不明だ。