2016年のアメリカでは銃乱射だけで1日1人以上が死亡している
・ianbremmer
米国史上最悪とされる死者 50名の銃撃事件がフロリダ州で発生しまして、これはテロ攻撃だったとのことですが、犯行をおこなった人は、おそらく「いとも大きなことを成し遂げた」と考えて自決したのかもしれないですが、冒頭のグラフが示します通り、数だけでいえば、テロとは関係のない銃乱射での死者数が今年前半だけで 200人を超えているというのがアメリカという国です。
この推移ですと、今年1年で、アメリカンでの銃乱射による死者は 500人を超えると思われます。
ちなみに、2013年の1年間のアメリカでの銃での死者数は 3万 3636人。交通事故( 3万 2719人)よりも銃で多くの人が亡くなっています。これは、アメリカでは、毎日、フロリダでの銃乱射の犠牲者数の倍ほどの人たちが銃によって亡くなっているということを示します。
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拡大し続ける「憎悪」とその連鎖
アメリカという国が、フロリダのテロのような突発的な暴力事件以前の問題として、テロよりも何よりも「日常そのもの」が異常なほど暴力に綾取られていることは、感覚的なものではなく、数字が比較的如実に示してくれます。
今回のようなテロ攻撃で最も懸念されるのが、人種と宗教が絡んだ「不毛な憎悪の連鎖」ですが、そのようなものを作り出さなくとも、アメリカでの憎悪は拡大する一方です。それは年を追うごとに銃での死者が増えていることにも現れています。
先ほど「 2013年のアメリカでの銃での死者数は 3万 3636人」と書きましたけれど、銃での死者のうちの約3分の2は「自死」ですので、銃での殺人事件は毎年1万件ほどですが、過去15年で 5000人くらい増えていることが、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)のグラフでわかります。
1999年から2013年までの米国の交通事故と銃での死者の推移
・CDC
そして、これら銃による死者数を見ていますと、「アメリカ国内でのテロによる脅威はないに等しかった」ことにも改めて気づきます。
アメリカでのテロでの犠牲者と一般の銃乱射の犠牲者数の比率は以下のようになっています。
2001年から2011年までの米国での銃犯罪による死者とテロによる死者
・BBC
2001年には同時多発テロ(真相がわからない面が多い出来事ですが)で多くの人が犠牲になりましたが、その後は、2010年までずっと、「テロによる死者は限りなくゼロに近い」状態でした。
アメリカを含めた西欧諸国は「テロとの戦い」というスローガンの下で、他のいくつかの国に混沌と荒廃を招いてしまいましたが、「テロとの戦い」の大義名分である「テロでの犠牲」の数の現実は、少なくとも、アメリカ国内においては、「国内の銃犯罪の足下にも及ばない」のです。
この、アメリカの日常的な暴力の蔓延については、今年1月に「アメリカのシカゴで、今年 2016年の最初の 10日間だけで 120人が銃で撃たれている」という報道を見聞して書きました、
・不安定な世界の気候が「暖」から「寒」に転換した頃、アメリカではテロの被害どころではない「日常的な暴力死」が蔓延し
2016/01/14
という記事でもふれていますが、主要国の中では突出したアメリカでの銃での死者の多さは、何だかすでに理由を見出すのも難しいほど飛び抜けています。
主要国と米国の銃での殺人件数の比較
このグラフを見ても、アメリカの突出ぶりは際立っています。
日本は銃が手に入りづらいという事情があるにしても、比較になるようなものではないです。
悪魔の時代が始まっている21世紀に
アメリカの銃犯罪の増加のグラフを見ていると、過去記事「自然災害は予想以上の驚異的な勢いで地球の文明を崩壊させ続けている…」などで取り上げました「世界の自然災害の被害の推移」のグラフを何となく思い出します。
1900年から 2015年までの自然災害での経済的損失の推移
こういうことは一見全然関係ないことのように見えますけれど、最近の私は、関係あると思っています。
まあ、これは「感覚的な部分」と「神秘主義的な部分」が混じったもので、いわゆる現代の科学とリンクするものではないですけれど。
何年か前ですが、どこかの待合室で雑誌を読んでいた時、2014年に亡くなった赤瀬川源平さんのコラムがありまして、そこに以下のように書いてありました(その場でメモして、とってあります)。
赤瀬川源平 / コラム健康半分より
自分が病気になって思うことは、人体の病気と地球の天気とどことなく似かよっていることである。自分の体が晴れたり曇ったり、だいたいの理由はわかるのだけど、それが高じて嵐になったり、雹(ひょう)が降ったりして驚く。
あるいは、シュタイナーは『いかにして高次の世界を認識するか』の中で、以下のように書いています。太字は私によるものです。
人間の知覚において、感覚器官のなかでさまざまな事実が生じるときには、体が体の外で起こる出来事に関与するだけではなく、同時に、体の外の出来事が体のなかに入り込んできます。また意志をとおして人間のなかで生じることは、同時に世界の出来事のひとつなのです。
まあしかし、そういうややこしい概念は別にしても、今のアメリカの、あまりにも簡単に銃で人の命を奪うという事象の蔓延は微笑ましいこととはいえないでしょう。
唐突かもしれないですが、私自身は、人類の進化というのはどのようなものかということについて、二十代の時に、作家コリン・ウィルソンの 1963年の著作『殺人百科』の前書きに書かれている文章の一節を読みまして、
「へえ、そういえばそうなのかもしれないなあ」
と思い、それ以来、その概念を大事にしようとは思っていますが、完全にそのような位置にたどり着くことは大変ではあります。
その一節は以下のものでした。
コリン・ウィルソン『殺人百科』より
もし人間の進化が何らかの意味を持つとすれば、それは、生命を、すべての生命を、より強く愛することである。
同じようなことは、1903年にノーベル化学賞を受賞した物理化学の始祖であるアレニウスも『宇宙の始まり―史的に見たる科学的宇宙観の変遷』の結びに以下のように記しています。
自然が我々に提供する進化の無限の可能性を曇らぬ目で認め得るほどの人はおそらく、自分のため、またその近親、同志、あるいは自国人のみの利害のために、 詭計(欺くこと)または暴力によって四海同胞たる人類を犠牲にするようなことをしようとはしないであろう。
多くの賢人たちが、「未来の人類がとるべき道」をたくさん説いてきたわけですけれど、その方向に進んでいるというより、ほとんどの部分において、むしろ「退行」している感も否めません。
そして、先ほどの自然災害のグラフが 21世紀に入って急激な上昇を示しているのと同様に、アメリカだけではなく、この「憎悪の拡大」も、そう簡単には収まらないと思われます。「暴力の拡大」というより、「憎悪の拡大」です。これは、「慈悲が減退した世界」とも言えます。
もっとも、このことは合理的な理由でそう書いているのではなく、過去記事、
・M6以上の地震が毎日起きている世界を迎えた中、シュタイナー学派の「21世紀前半から悪魔的存在が活動を開始した」とする見解を思い出してみる
2016/04/17
に書きました、シュタイナーの記録の翻訳家でいらっしゃる西川隆範さんが、『天地の未来 : 地震・火山・戦争』に記している、
1998年(666×3)に悪魔的存在が地上に誕生し、21世紀前半中にも活動を開始する、とシュタイナー学派は見ている。
という言葉が、21世紀に入ってから実際に起きてきた数々の出来事と照らし合わせて、あまりにもそう思えるのです。
その 21世紀が始まったのは、同時多発テロがあった 2001年です。
21世紀は、歴史的なテロ事件と共に始まり進行している中にあるのです。
憎悪の連鎖を止めるためには、実は「起きた犯罪をなるべく憎まない」(憎悪に対して憎悪で返さない)ことしかないのですが、今の世の中は、日本も含めて、慈悲の少ない「過剰憎悪社会」といえる異常性にあふれた状態になっているので、なかなかそれは難しいものなのかもしれません。
それでも、憎悪の連鎖を少なくとも自分1人だけでも止めようという意志が少しでもこの世に存在しないと、本当にすさまじい「憎悪の地球」というようなことになってしまうのかもしれません。
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