今日(7月15日)、フランスのニースで、おそらく攻撃者と思われる人物がトラックで人々に突っ込み 80名以上の方が亡くなるという一人の人間のテロとしては非常な大惨事となった出来事(報道)がありました。
この事件の詳細はともかく、IS などの過激派の人々の攻撃のイメージといいますと、「興奮しながら神の名を叫んで銃を乱射」とか「何事かを叫びながら突進して自爆」とか、そのようなものがありますけれど、あれらにはどうも「ポーズ」的なものを感じていました。
しかし、ポーズではなく、「冷静に」考える人たちが出てくると厄介だなとは誰しも思っていたところではないでしょうか。
何を「冷静に」かというと、彼らの目的は「相手の命の剥奪」にあるわけですから、調達が難しくい上に警察に目をつけられやすい武器(銃とか爆薬とか)などで目立つよりも、どこででも手に入り目立たないものを用いて、「冷静に目的に専念」した場合、銃よりも爆薬よりも「ひとりで簡単にできること」があることに気づいてしまう人々がきっと出てくると誰も口にはしませんでしたが、そう思っていたような気がします。
今回のトラックの行為の死亡者数の悲惨さを考えると、攻撃を考えている他の人たちに「攻撃とは何か」ということを気づかせてしまった感じもあり、次第に厄介さも増しているような気もします。
元アメリカ軍人で、VIP 等の身辺警護のコンサルタントをしていたジョン・ミネリーという人は、『ザ・殺人術』という本の中で、「身近にあるものを何でも武器にするのがプロ」と記していましたが、車はそれこそどこにでもある上に、誰でも調達できるものです。
そんなありふれたものの結果が、ニースでたった2分間程度のあいだに、どれほどの惨状を作りだしてしまったか。
攻撃者たちが「街の中にあるものは何でも使える」と悟った時、街の風景はそれまでのものとは変わったものになるかもしれません。
そして、世界の現実を見回してみても、毎日の世界で、最も人間を死にいたらしめている「物体」は何かというと、ダントツで車でもあります。
下は WHO の発表による「世界の死因の上位 10 」を日本語としたものですが、ほとんどすべて病気である中に、9位に「交通事故」とあり、この死者数が 2012年は 130万人だったことがわかります。
・WHO
具体的に交通事故の死者数の多い国となりますと、下のようになります。
1位 中国 27万 5,983人
2位 インド 23万 1,027人
3位 ナイジェリア 5万 3,339人
4位 ブラジル 4万 3869人
5位 インドネシア 4万 2434人
ちなみに、次がアメリカで、3万 5,490人で6位。2013年の日本の交通事故での死亡者数は 6,625人でした。
中国やインドの「年間、二十万人以上が交通事故で命を亡くしている」という事実は、これらの国の人口が多いということを別にしても、すごいことだと思います。
たとえば、変な比較ですが、アイスランドの人口は 33万人、南太平洋のバヌアツの人口は 27万人。
こういう数の単位の人たちの命が「毎年消えている」ということになります。
交通事故は必要悪とされることが多く、確かに現代生活には、輸送などの面で必要な部分が多いことは確かですが、日本が「誰でもかれでも車を持っている」というような国になったのは、ほんのこの数十年でのことですよ。
とはいっても、今回はそのことを書きたいわけではないです。
この「車」というキーワードにふれまして、何年も前から書きたかったことがあるのですが、書いたところでどうにもならないことでもあるので、書いたことがありませんでした。
しかし、何だか今日は書きたい気分でして、書いてみようかと思います。
「日本という国家文明がいかに車社会化の中で滅ぼされてきたか」ということです。
戦後の日本が選択した道と、現在の日本の光景
私は子どもの頃、体がとても弱かったのですが(メインは小児ぜんそくで、その他にオプションでいろいろな病気がもれなく)、当時のお医者さんは、深夜でも診察をしてくれたものですが、うちの父親は、私の調子が悪くなるたびに抱き抱えて病院まで走っていたそうで、冬に雪がひどい時には、リヤカーみたいなのに乗せて、病院に走ったそうです。
これは美談として書いているのではなく、「こういうようなことでも、昔は生活できた」ということを書きたいわけで、田舎でも、よほど特殊な場所でもない限り、徒歩圏内に生活の必要なものは何でもあったのです、生活用品や食糧を買うことができる商店があり、床屋も病院も銭湯も歩いて行ける場所にすべてあったのです。
徒歩で日常生活が済ませられたのが日本と日本人の生活でした。
それが、たとえば、今は地方はどこでもそうですが、
「車での生活に合うような街のスタイル」
にしてしまったため、車がなければ、実質的に生活できない場所だらけになってしまっています。
たとえば、私の田舎のある北海道の場合でしたら、まずスーパーが郊外の大型店になっていき、週に1、2度、車で大量にものを買うというスタイルが広がり、それと共に、今度は「徒歩で行ける商店街に誰も行かなくなる」ということになります。
いわゆる、地元がシャッター街化していくということですが、今、地方の多くの場所は、この「郊外大型店舗 → 地元のシャッター化」を経た後に、廃墟じみた街の光景が広がりはじめる場所が多いと思われます。
私が北海道から東京に出た後、若い頃はほとんど帰省しなかったのですが、十数年後に帰省した時に、あまりの変貌ぶりに驚いた記憶があります。
三十数年前は、私の生まれた岩見沢という当時で人口7万人くらいの街は、学校がたくさんありました。おびただしい数の小中高があり、大学もありました。
そのような街ですから、街はいつでも若者だらけで、土日はもちろん、平日でも、夕方以降は、インテリ系の学生も、ちょいワル学生たちも入り交じって、石を投げれば若者に当たるはずの石が、後ろの老婆に当たるというような無法ぶりを見せていた街でした(説明になってないじゃん)。
今から十数年前でしたか、帰省した際に、土曜あたりに「今日は一日、街を歩き回ってみようかな」と歩いたのですが、若者がまったくいない。
昔は、住宅街あたりでは、小学生たちがワーワー言って猫をいじめていて、中学生や高校生たちは、亡霊のようにうつろな目をして街をさまよい歩き、闇へと消えていく・・・(どんな街だよ)。いやまあ、とにかく街は若い人だらけだったのに、それが本当にいないのです。
というか、
「人の姿そのものが街にない」
のです。
ひとつの理由は、先ほども書きましたが、「移動が車オンリーになっているので、徒歩で移動する人がいなくなった」ことはあります。
しかし、中学生や高校生が車を運転して移動するほどアウトローな街でもなく、「若者たちはどこにいるんだ?」とは思いますが、とにかく、いないものはいないわけで、人間の姿といえば、たまに、実在か非実在かわからないような、少し透き通ったカゲロウのような老婆が、足を動かさずにスーッと移動していく姿が見られる程度で、「実在の人間がいない」と呟くしかないのでした。
そして、街中を歩くと、見事にシャッター街が広がり、そして、高校の頃、よく行っていたような場所はほぼすべてなくなっていたのでした。
「あの喫茶店は・・・ああない。あそこの映画館だったところは・・・パチンコ屋。・・・あの立ち食いそばは・・・駐車場。あのジーンズショップは・・・ないね。あの書店は・・・ここも駐車場ね。こっちのジャズ喫茶は・・・あるわけないよな。あのロック喫茶は・・・更地かよ。おー、よく歩いたこの通りは十件以上続くようなシャッター街になってる。帰りに一杯飲んでたあの居酒屋は・・・わー、何かわかんないけど崩壊したビルになってる。この街に初めてできたケンタッキーフライドチキンの店も・・・パチンコ屋ですね」
というように、「思い出はほぼ消えていた」のでありました。
北海道岩見沢市の完全にシャッター通りと化した駅前通り
・Pupupukaya World
上の写真はブログからお借りしたものですが、ここは何と駅前通りで、私が高校生の頃までは、ロック喫茶や楽器屋さんからゲームセンターまで立ち並ぶ通りで、いつどんな時でも若者たちが歩き回っていた通りでした。
それが、このように無人化して廃墟化するのにたった十数年ですよ。
さて、あくまで私の田舎を例として話を進めますが(そうではない場所もあると思いますので)、このようになった理由、すなわち地方のシャッター化が進行した理由は、少なくとも私の田舎の状況を見た限りでいえば、「地方の車社会化」です。
それが今回のテーマなんです。
点と点の間に広がる廃墟的存在
多くの人たちは、
「車があるから便利なところへ行けるし、楽しい遊び場所にも行ける」
と思われているかもしれないですが、それは「そう思わされている」のだと私は思っています。
昔は徒歩で十分に生活できて楽しめていた日本社会は、戦後、「車での文明を発展させる方向でのインフラ整備や、車社会のための街作りを続けてきた」のですが、そこには経済の発展など、いろいろな理由はあるでしょうけれど、理由はともかく、「日本は車社会化へと突き進んで」きました。
車社会化は、同時に「徒歩圏文明の消滅」に結びついていきます。
後述しますが、この2つは共存できません。
まあ、私自身は、日本の車社会化は「日本文明の退化」だと思っています。これは要するに、私は江戸時代などの町民文化が好きで、「日本人は徒歩圏での文化の共有の中でこそ豊かな感性を保つことができる」と考えているためです。もちろん、そうではない考えがあっても当然だと思いますし、日本人以外のことはわかりません。
徒歩の文化の最も大きな特徴には、移動スピードが遅いことと、基本的には自分で歩いていることにより、「目的地も含めて、その途中の光景を認識しながら進むことができる」という点があります。
しかし、車の文明は、
「点と点(目的地まで一直線で、途中の存在は必要ない)」
ということになり、その途中に何があり、どんなことがあるかは基本的には認識しないで風景は流れます。
なので、いくつもある風景の中でも「点(目的地)」に選ばれなかった場所は、廃れるだけ廃れていきます。
上の写真の栗沢町という場所は、かつて私の父親の実家があった場所で、私が中学生くらいの頃までは、夏になると、それは壮大な祭りや盆踊り大会がおこなわれていた、小さいけれど活気のある場所でした。今はあちこちに廃墟というか、「認識されていない自然」が広がります。
そうなり始めた時期としては、たとえば、私の父親が初めて車を購入したのは、私が小学生の高学年くらいになった頃でしたので、今から 40年くらい前だと思います。
おそらくは、その頃から「アメリカ型の車社会」が日本に適用され始めたと考えると、たった 40年なんですが、そんな短い年月で、北海道は「随所に廃れた場所だらけ」の場所となってしまいました。
点(目的地)として、メディア等で報じられる北海道の遊戯施設や観光リゾート、ショッピングモールは、それはそれは雄大で素晴らしいものですが、その「点」と「点」に間にある「注目されない場所」は、まったく見向きもされない「存在しない場所」となっているようなところがたくさんあります。
そして、この超高齢化の日本の中で、そのように廃れた場所が「復活する」可能性は限りなくゼロに近いと思います。
すなわち、「そのままその場所は滅びていく」ということです。
これは北海道だけではなく、地方は多くの場所が同じような運命の下にあるのではないでしょうか。
どの地方でもいいですが、有名な観光施設やリゾートは、どこも大変に素晴らしいのでしょうけれど、かつてはその周囲にもあった「町」や「自然」は、車の移動の社会ではまったく顧みられなくなりました。
町がシャッター通り化していく一方で、自然はあるけれど、そこは人間と共存されていない単なる殺伐とした緑の風景でしかなくなっています。植物と人間は共存して初めて共に存在するというようなことを、過去記事「植物が緑色であり続ける理由がわかった…」に書いたことがありますが、その原則が存在しなくなっている場所がたくさんあります。
しかも、それらの場所は人里離れた場所ではなく、すぐ横の道路をたくさんの車が通っている場所なのです。
たくさんの人が「車で通り過ぎていくけど」「(目的地ではないので)認識はしてくれない場所」。そのような「存在しないような場所」です。
私が高校生くらいまでは、その岩見沢市内にあるわりと大きな公園には、いつもたくさんの若者や親子連れが集まっていました。きれいな公園ではなかったですが、文字通り、憩いの場所でした。
今はその公園はとてもきれいに整備されていますが、帰省の時に何度か行きますと、「いつ行っても無人」なのです。いつも下のように誰もいません。
これはなぜかというと、ウソのように聞こえるかもしれないですが、
「今の北海道では、車で行くところ以外はレジャーの場所ではない」という認識が一般になっているので、徒歩で行ける場所は、行くべき場所ではない。
という認識があるのです。
これは冗談ではなく、本当です。
もちろん全員がこのように考えているわけではないでしょうが、かなり多くの人たちがこの考えだと思います。つまり、徒歩で行けるようなところへ遊びに行くのは「おかしいし恥ずかしい」という認識があるのです。
こういうようなことにより、徒歩圏の文明は、少なくとも私の田舎では崩壊しました。
それと共に「精神的な共同体のようなもの」も崩壊したと私は見ています。
それはほんの 20〜30年の中で起きたことです。
古来から日本にあった、小さな範囲での共同体は、車社会の登場で崩壊し、その崩壊のスピードはたった数十年だったということになります。
昔と同じような若い人が多い社会でしたら、それでも何とかなっていった部分もあったのかもしれないですが、もはや、そのような若い人がたくさんいるような社会に戻る可能性は限りなくゼロに近いです。
人口減27万人 最大更新 7年連続減 1億2600万人割る
佐賀新聞 2016/07/14
総務省が13日発表した今年1月1日時点の住民基本台帳に基づく人口動態調査で、国内の日本人の人口は1億2589万1742人となった。
減少は7年連続で、前年からの減少幅は27万1834人と1968年の調査開始から最大。国内の人口は2000年以降、1億2600万人を上回って推移してきたが、17年ぶりに割り込んだ。人口減少幅は前年も27万1058人で過去最大だったが、それを更新した。
このように、人口減少にいよいよ拍車がかかっていますが、実は、日本で最も人口が減少しているのが北海道です。
人口動態調査 道内、減少数が都道府県で最多 外国人は大幅増
日本経済新聞 2016/07/14
総務省が13日発表した住民基本台帳に基づく今年1月1日時点の人口動態調査によると、北海道の人口(日本人)は537万6211人と前年比3万2545人減少した。
減少数は都道府県で最も多く、少子高齢化による自然減のほか、道外への流出に伴う社会減もトップだった。一方、ニセコ地区などスキーリゾートの国際的な知名度向上に伴い、外国人住民が急増する自治体も目立った。
道内人口の減少率は0.60%。全都道府県では減少率が大きい方から21番目と中程度の減り方だが、全国平均(0.21%減)を大幅に上回った。道内の5年前(2011年)の人口との比較では2.23%減少した。
「将来はこれで便利になるだろう」と、日本で最も急速に車社会を発展させた一種の「実験場」だった北海道の現状はこのようなことになっています。
理想的な地域社会を作ることには「失敗した」と言わざるを得ません。
私は、自分の住んでいる場所を人々がきちんと見ないような場所は必ず滅んでいくと思っています。
量子力学の理論のひとつ「認識しないものは存在しない」(参考記事)というような概念さえ思い出しますが、そんな難しい話ではなくとも、見られない対象は、それが生き物でも植物でも場所でも、必ず廃れます。
植物を育てている方や、どんな生き物でもいいですが、生き物を育てている方なら、「注目してあげること」、「相手になってあげること」がどれだけ生育に重要かご存じだと思います。放っておかれて、無視されて健全に成長するものはあまりありません。
植物の場合は、見るだけではなく「さわる」という行為が必要ですが(参考記事「驚異の植物の防衛力アップ法が米国の生物学者の研究により判明:その方法は「さわること」」)、とにかく、注目してあげること、相手にしてあげることは、どんな対象にも重要だと思うのです。
今のスピード社会や車社会は、「風景に対して」それをできない社会にしてしまいました。
復活は現世ではおそらく不可能
結局、物理的な意味では、私たちは常に、自分たちを取り巻いている世界に対して、「見たり聞いたりさわったりして注目し続けなければならない」という宿命を持っているのだと思います。その社会を実現するには、「徒歩圏の文明を大事にすること」だったのだと思います。
しかし、今の日本のシャッター通りや荒れた緑の地の現実を見ますと、「点と点」の移動の途中にあるものがすべて無視されてきたわけで、その結果が、今の日本の地方の姿だと思います。
しかし、同時に、多くの地方は、すでに「車がなければ生活できない構造になってしまっている」ために、この状態から抜け出すことはできません。
たとえば、北海道を例にとれば、どれだけトシをとっても、買い物をしたり、あるいは病院に行くにも、車がなければ何もできないため、どれだけ高齢になっても、運転し続けなければならない。
もはや「車を運転している」のではなく、それが唯一の命綱となっているという意味では、「車に運転させられている人生を歩んでいる」という状態・・・というのは言い過ぎかもしれないですが、地方の生活では車から逃れることはできないのは事実です。
それがなければ生きていけない文明なのです。
東京などを含めて、首都圏が比較的廃れないのは、人が多いということもあるでしょうけれど、少なくとも東京都内は、「徒歩と電車」文明が主流で、自然の少ない都市部になればなるほど「生活圏を見る」生活になっているからではないか、という皮肉な推測はあります。
戦後、海外、特にアメリカからもたらされた多くの文化、政治、経済、などのうちのいくつか(本当は全部と書きたいですが、それは極端ですので)は、結果として日本を滅ぼしていると思っています。
アメリカ発のいろいろに蹂躙された後、今は韓国産アプリの LINE に数千万人の日本人が時間とメンタルを奪われているということになっていて、まあ、現代の侵略というのは、すさまじいものだと認識している次第です。ひとつの国を滅ぼすのに戦争なんてする必要はまったくないですからね。
もちろん、これはアメリカが悪いとか、韓国が悪いとか、そういうわけではないです。もちろん、誰が悪いというようなことでもないです。
何しろ、私も含めて、多くの日本人がこの過剰消費の世界を謳歌して楽しんできたのですから。
だから、車社会にしても、LINE にしても悪い部分があるということを言いたいのではありません。
これらはまったく悪くはないけれど、結果として日本は滅んだと。
滅びる、のではなく、滅んだと。
少なくとも現世では誰にも立て直しはできません。
無数の小さな共同体の集まりだった美しい日本の文明の構造は死にました。
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