「見るといい。何もかも逆さまだ。医師は健康を破壊し、弁護士は正義を破壊し、大学は知識を破壊し、政府は自由を破壊し、主要メディアは情報を破壊し、宗教は精神性を破壊しているばかりだ」 - マイケル・エルナー(米国のエッセイスト)
2017年3月17日のロシア「プラウダ」より
今日は、この「サイコパスたちがこの世界を動かしている」というタイトルのロシア・プラウダの記事を翻訳してご紹介したいと思います。
この記事は大変に長いものなのですが、私が漠然と思っていたことが具体的に書かれてあったものでした。
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サイコパス的精神が「この世の総員」を支配するようになった理由
今回ご紹介するプラウダに載っていた記事の内容は、要するに、
「アメリカから始まり西洋(および多くの西洋の影響を受けている国)全体に広がっている現在の社会は、全体が《サイコパス的》価値観に支配されている」
というようなニュアンスのものです。
プラウダをはじめとしたロシアのメディアでは、わりと頻繁に「アメリカ式価値観への批判」が出てくることがあり、そういうようなものかなと思っていたのですが、このブラウダの記事のクレジットを見ますと、これは転載して翻訳されたもので、オリジナルはイタリアのメディアの記事でした。
つまり、「ヨーロッパ発の記事」ということになります。
ちなみに、「サイコパス」という言葉は、辞書的には、下のようになります。
精神病質 - Wikipedia
精神病質とは、反社会的人格の一種を意味する心理学用語であり、主に異常心理学や生物学的精神医学などの分野で使われている。
その精神病質者をサイコパスと呼ぶ。
この「定義」は、現在は下のようにされるのが一般的です。
犯罪心理学者のロバート・D・ヘアによるサイコパスの定義
・良心が異常に欠如している
・他者に冷淡で共感しない
・慢性的に平然と嘘をつく
・行動に対する責任が全く取れない
・罪悪感が皆無
・自尊心が過大で自己中心的
・口が達者で表面は魅力的
さらには、今回の記事にありますが、「権力や地位への渇望が異常に強い」などがあり、そのあたりを総合して、ひとことで言えば、サイコパスというのは、
「自分のナルシズムを満足させるためには他人をどれだけ傷つけても構わないし、無慈悲で冷酷で共感の気持ちもない。しかし、人をコントロールする魅力と能力を兼ね備えている人物」
というような感じでしょうか。
こういうものは昔は「不思議で特殊だった品性」ですが、今の社会では不思議でも何でもなく、むしろ「憧れの対象」になったりしています。
普通は周囲から見て困るこのような品性が「企業理念から見れば最適」だと考えられる場合が今は多いようです。
また、これらの品性は「とても悪魔的」だということも言えるわけで、21世紀に入ってからさらにその感覚が世界中に増加していることを思います。
今回ご紹介するプラウダの記事は大変に長いものですので、まずは記事をご紹介したいと思います。
The disturbed psychopaths running this world
Pravda 2017/03/17
わずらわしいサイコパスたちがこの世界を動かしている
「悪意の社会」を形作る役割を担っているサイコパスたち
アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズ氏は、成功者の偶像であり、若手起業家の理想的なモデルとして挙げられることが多いが、彼と共に働いた従業員の多くは、彼の抑止できない怒り、人への侮辱、人のやる気をくじくことなどについて、「彼と働くことは地獄だった」と認めている。
ある人物は、ジョブズ氏の事務所に呼び出された時に「ギロチン台に登るかのようだった」と飛べる。ジョブズ氏を知る人々は、彼を「嫌な男」、「失礼な人間」、「耐えられない人間」と話す。
ジョブズ氏の最高の友人の1人であるジョナサン・アイブ氏(アップルの最高デザイン責任者)は、ビジネス・インサイダー誌に次のように語っている。
「彼が不満を感じた時に、彼がそこから解放されるカタルシスを得る方法は誰かを傷つけることだった。あたかも社会的規範というものが彼には当てはまらないかのようだった」
これから述べようとしていることは、サイコパス、つまり「反社会的人格障害」または「自己愛的人格障害」を持つ人間のことだ。
平気で人を傷つけ、他者に冷淡で、良心が欠如し、そして、自己中心的で、他人を侮蔑することなどがこのタイプの主な特徴の一部だ。共感と思いやりが完全に欠如しており、他人に害を与える行動をまったく反省することもない人たちのことだ。
精神病院または刑務所で
最も深刻で明白なケースでは、これらのタイプの人々は、精神病院または刑務所で生涯を終えることもある。
企業心理学の専門家であるサム・ヴァクニン(Sam Vaknin)博士は「病理学的なサイコパスのナルシシズムと犯罪者との間には自然な親和性がある」と述べる。
そこに共通するのは、他人との共感の欠如、あるいは思いやりの欠如、不十分な社会的スキル、また、道徳的概念や、法的な規範を軽視する態度などだ。
しかし、それらの負の面が弱く出ている場合、特定のサイコパスたちは、そのサイコパス本人から影響を受ける人々を高度に「機能的」にし、そして、逆説的に、彼本人を多国籍企業や国家、あるいは教会のトップとしての成功に導く。
犯罪心理学の研究者ロバート・ヘア(Robert Hare)氏は、囚人などのサイコパスと、企業トップや政治家などとの関連についての数少ない研究を指導した一人だ。
それによれば、大企業や金融企業のトップにいる人たちの中のサイコパスの割合は 20人に 1人、あるいは全体の 4%だった。少ないように見えるかもしれないが、これは、一般の社会のサイコパスの割合の4倍高いのだ。
ヘア氏によると、「ウォールストリートでは、その割合は 10人に 1人」だという。
共感心と罪悪感の欠如
ヘア氏が、サイコパスへのアイデンティティをどのように見ているというと、次のうようになる。
「表面的にはとても魅力的で、無限ともいえる自己中心性があり、病的な嘘をつき、冷淡で、目的を達成するために計算し尽くす。衝動的で、自分の行動に責任を持たず、共感の心を持つことがなく、罪悪感がない、また、後悔もない。彼らの危険性は、犯罪的の行為の多様性や、強く他人を操作する能力などにより、他の人物によって強調されることだ。他人の意志を覆し、欺き、他人をコントロールする」
これらは、たとえば成功したギャングスターのアル・カポネなどにも当てはまる。彼は刑務所で一生を終えた。
「組織や大企業の中で、サイコパスは、権力と影響力を持ち、そして絶対的な権力を上位に昇格させる機能を作動させることができる」
ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)のジョエル・バカン教授(Professor Joel Bakan)は、「世界を動かしているのはサイコパスなのか?」と題する研究に貢献している。
大部分の企業のトップは道徳的な人だが、そのトップの人たちにしても、まずするべきことは、自身が管理している会社の利益に奉仕する必要があることだ。
トップたちが管理しているお金は自分のものではない。無意味に慈善事業のためにそのお金を使うわけにはいかないのだ。「ではどうすれば?」 ビジネスの世界では、「良い人たち」もまた、あえて不作法に振る舞うことが求められるのだ。
結局のところ、企業というものは、サイコパスの人格と類似しているかのように、利益目的のために他人を悪用して使うようにプログラムされている。これは大企業ではなくとも、現在のごく普通の一般の会社にも当てはまる。
アメリカのシンクタンク「ブルッキングス研究所」のダレル・ウェスト(Darrell West)氏は、たとえば、企業の法および経営管理に原因があると強調する。
ウォールストリートの投機筋と上場多国籍企業の CEO たちは、権力を持つサイコパスを作り出す(または誘致する)ために一線を引いている。
完全自由主義のエコノミストで、彼の教え子たちの考えを釘付けにしたミルトン・フリードマン(Milton Friedman)氏は 1970年に以下のように記している。
「株主価値の最大化こそが企業の唯一の責務であり、つまり、企業の唯一の社会的責任は、利益を最大化することなのだ」
これは複合化されており、また、最も権威のある学校だけが、ビジネス管理のための経済学と貿易の最高の権威を与えられる独自のコースを持っているという事実により認識される。
それらの学校は「社会におけるビジネスの課題に関する一般的な概念を提供する」技術を教える学校で、そして、それらの学校では道徳を教えることには無関心だ。
ここに熟考する事実がある。何世紀にもわたり、最近まで、英国でさえ、権力の位置をとる支配階級を作る学校は古典的な学校だった。イートン大学やオックスフォード大学などの...。そこでは、ラテン語やギリシャ語が教えられ、ギリシャとローマの歴史が教えられた。そして哲学の歴史が教えられていた。つまり、それらの学校で学生たちが学ぶことは「経営管理の技術」ではなかったのだ。
かつて、経営管理の技術は、学生たちがビジネスの世界に入った後に、そのキャリアの中で学んでいったのだ。
しかし今日、フリードマンのイデオロギーは、多国籍企業の役員やオピニオンリーダーを形成し、他者に対しての協調と責任の欠如の勧め、つまり、経営技術と会社の利益のことだけを考えさせるということを教育している。
サイコパスたちは「他人を操作するツールとしてそれを使うために、道徳的な行為をしているふりをする」が、同様に、ビジネスで成功する「連中(bastard)」は、利益を上げるためなら何でも行い、そして、それは彼らの文化と環境が利益を供給しなければならないという「道徳的な正当性」によって動機づけられている。
彼らは、彼らのサイコパスとして定義される行動や言動が(企業利益の増加に伴い)現実として評価されるので、社会で「成功」していく。
サイコパスたちによって賞賛される「連中」を区別することは困難だ。どちらも環境から引き出される道徳的な正当性によって動機づけられているからだ。
ヘア氏たちのチームの研究では、このサイコパス的な精神性がビジネス・キャリアとしての頂点に位置しているという不吉な証拠を挙げている。
彼ら(サイコパス的な精神性を持つ人たち)は、チームをまとめる協調の精神性を持たず、従業員たちからの評価も悪いという、客観的には実力のない管理者であるにも関わらず、彼らは、「創造的かつ革新的で、素晴らしい戦略的思考を持つ者」と上司によって評価されることが多い。
研究家たちは、「一部の企業では、業績不振と従業員たちへの悪影響が広がっているにも関わらず、サイコパスの管理者たちにはリーダーシップのスキルがあると見られることがあるのです」と述べる。
この種のサイコパスには、意思決定者(上司など)の心理を操作するための大きな力があることが精神科医たちに長い間知られている。
「サイコパスたちは、最高の権威との関係を追求して優先順位付けし、権威たちに影響を与える際に驚異的な能力を示す」(デニス・ドレン Dennis Doren 著『サイコパスの理解と治療』 1987年)
さらに、ソーシャルメディアの世界においてさえ、自己愛的性格テストで高い評価を得たサイコパス的な人たちは「フェイスブックで、より多くの友人がいる」ことは当然のことになっている。
D.ピアーズ氏の著書『 Facebook のダークサイド』には、彼らサイコパスは、自分自身の写真をより多く載せ、自分のプロフィールを頻繁に更新する傾向がある。この研究では、社会の中での積極的なナルシシズムとサイコパスの関係を見出した。
歴史を見てみると、有名な石油界の大物ジョン・D・ロックフェラーは、競争相手を躊躇なく台無しにするような、「私のお金は神によって与えられた」というようなことを宣言したことが思い出される。ロックフェラーはサイコパスの気質を持っていた。ロスチャイルドや J.P.モルガンなど有名な投資銀行家は、ロックフェラーの財務状況を賞賛した。しかし、その財務は、破壊と苦しみを周囲にばらまいたものでもある。
これらの精神性は、アメリカ合衆国の環境に見出される。すなわち、その「自由」と「個人主義」においてだ。
経済的に繁栄する理想的な場所であるアメリカは、同時にこの(利益第一主義の)考え方を形作った。
つまり、自由の国アメリカの理念は、「貧しい人たちは彼らの過ちにより貧しいのだ」ということであり、そんな人たちを支援する価値はないという理念だ。
今日のアメリカでは、イデオロギーはイデオロギーとして認識されず、より良いものがなければ、それはすべて「邪悪」と呼ばれる。
リビアのカダフィ大佐の殺害の際に「来た、見た、死んだ」と笑いながらテレビで語ったヒラリー・クリントン。彼女は、時のヌーランド国務省報道官に「ジュリアン・アサンジを殺すための無人機はあるのか」と尋ねた。また、そのヌーランド国務省報道官も「ファック・ヨーロッパ」と発言している。
マケイン上院議員は、シリアで最も血の多いテロリストとなることを目指し、また、ロシアとの戦争を絶えず探している。
オバマ元大統領は、世界であまりにも数多くの人たちを殺してきたが、その行為は、彼に提出されたリストから無人機による超法規的な殺害を選ぶだけだった。
滅びゆく人を見て心から楽しむ
ウォールストリートとビジネス界では、この「滅ぶ人たち」に対しての感情は楽しさで育まれている。
下の言葉は、社会的に成功したアメリカ人女性の告白本にある下りだ。
「他人の人生を台無しにするという考えは実に愉快だ。それは人ではなく食べ物のようだ。権力こそが、私の人生の中で本当に興味のあることだ。破壊的な力と知識と眼に見えない影響力」
彼女は、『社会的な告白。コントロールする心への旅』という本を 2013年にイタリアでトーマスという偽名で出版した。
しかし、このアメリカの「邪悪な主義(evilism)」は、大西洋を越えてヨーロッパに渡っている。
現在のヨーロッパは、少数による支配のイデオロギーとなっており、それは、イタリアの経済学者マリオ・モンティ(Mario Monti)の「私たちは国内需要を事実上破壊しており、決して危機をうまく消費していない」の声明で十分にわかる。
イタリアの銀行家トマッソ・パドア=シオッパ(Tommaso Padoa-Schioppa)による「改革」の真の意味に関する言葉は以下のようなものだ。
「ヨーロッパ大陸においては、構造改革の包括的なプログラム、年金、健康、労働市場、教育は、単一の原則によって導かれる必要がある。20世紀の中で、それらは単一ではなく仕切られたが、それにより、人々は直接苛酷さと接触することがなくなった。それにより、挫折や制裁をなくしてしまい、彼ら自身の品性の欠陥を賞賛することがなくなってしまった」
つまりは今、西洋「文明」全体が、米国のエッセイストであるマイケル・エナーによって記述された点に達しているのだと思わざるを得ない。それは以下の記述だ。
「見るといい。何もかも逆さまだ。医師は健康を破壊し、弁護士は正義を破壊し、大学は知識を破壊し、政府は自由を破壊し、主要メディアは情報を破壊し、宗教は精神性を破壊しているばかりだ」
現在のこの世には「社会に隠された全身全霊の悪意」が存在する。
その悪意は、力の頂点であるサイコパスを選択しているということだろうか。
そして、「サイコパスがシステムの不可欠な部分として機能する」今の社会では、サイコパスたちが、その業績により、大衆から崇拝され、彼らの生き方が模倣されているということになるのだろうか。
ここまでです。
今の世の中では、たとえば日本でも、私たちは、
「企業の利益を上げることが何よりも優先され、個人の苦痛や悲哀などはそれに比べると(あるいは人の死なども)どうでもいい」
という社会に生きていて、「企業はそれが当たり前」だと思うようになっています。
「人の死など、どうでもいい」という言い方は極端に聞こえるかもしれないですが、それに関しては、企業も個人も「道徳的な言葉でオブラート」をして言っているということになり、実際には、そのような理念を持っている大企業は多いと思います。
要するに、過去数十年(特に戦後あたりから)の間に、仕事が原因で自殺したり、病死をしたり、社会からドロップアウトした人たちがどのくらいいるかというと、もう途方もない数だと思います。けれども、人がひとり死んだところで、企業は、収益を増大させる前進を当然やめません。
人の苦しみも哀しみも死も「どうでもいい」と書いたのはこういう意味です。
そもそも、会社が、誰か亡くなるたびに、「人が亡くなりましたので、もう収益増大計画はやめます」といったら働いている人が困ります。「知りもしない他人が死んだくらいで自分の給料が下がっては困る」というのが、一般的な見識だと思います。今の社会では極めて当たり前の通年です。
そういう意味で、別に非難しているわけではないです。
そうしないと、企業も個人も生き残れないですので。
もう日本もずっとそういう時代の中にいます。
生き残るために、企業の人たちも、そこにいる個人も、企業価値(収益のことです)を上げる以外のことを考えることはなくなるというのも仕方ありません。
最近はブラック企業とか、そういう言葉もありますが、厳密にいえば、
「全部がブラック企業であるべきなのが現在の資本主義の理想的な姿」
だと思われます。
人間は使い捨てにして、その使い捨てによる小さな企業収益を上積みさせて株主利益に還元する。それ「だけ」が「企業の正義」ということになります。ただ、そういうことは公にいうと問題になるので、「表では理念の逆のことを言えばいいだけ」という学習も欠かさずに企業は邁進していくというのが、知る限りの現在の企業の「正しい」姿です。
プラウダの記事にも出てきますが、「株主価値の最大化こそが企業の唯一の責務であり、企業の唯一の社会的責任は、利益を最大化すること」だという意識が、とても広く行き渡っているのです。
これも、別に非難しているわけではないです。
しかし・・・誰がこんな世の中にした?
という話はあります。
他の国はともかく、「どうして日本までこんな国になっちゃったんだろう」と、やはり思いはそこに行き着きます。
この数年で、私に「こんな社会なら存続するより滅びたほうがいい」と強く思わせるようになってしまった社会にどうしてなったのかと。
100年前といわずとも、戦前は違ったはずです。
このプラウダの記事では「サイコパス」という人間像を中心に据えて、いろいろなことが語られますが、私自身は、サイコパスの個人のことについて責めるというような感じはないです。なぜなら、昔なら、そういう個人は、誰にも相手にされずに終わっていっただけだったからです。
まして、「尊敬」とか「憧れの対象」になったわけがなかった。
しかし、今は違います。「他人の気持ちをふみにじり、徹底的に冷徹な経営理念を貫く」というのは「美徳」にさえなっています。
結果として、今の世の中は「全体として冷たい世界」となってしまいました。
生きていてつまらないと思う若い人たちがたくさんいるのも無理はない気がします。
私のような五十代は少しだけ違う世界の中で若い時代を生きていました。これは「その時に冷徹な社会ではなかった」ということではないです。近代の人間社会には、常に薄情と冷徹と合理主義は存在します。
ここでいう「少し前は違った」というのは、そういう意味ではなく、「日本全体を支配しているものが違った」という話です。
このあたりは書き進めても「キリのない永遠の輪廻的な小言」ということになりそうですが、それでも自分が生きている世の中ということで、機会があれば、具体的に書かせていただくこともあるかもしれません。