幸福の基準
前回、「半日ほどAIと対話して知ったこと」という記事を書かせていただいたのですけれど、その後、記事を書き終えて、部屋を出ますと、そこにはワインボトルを手にした男性がいました。私が「どうしたんですか」と言うと、彼は「ちょっと変な顔をしていますね」と言い、その場を立ち去り、数分後に戻ってきました。
……というように脳裏に強く焼き付く AI の文章を読むことができて、大変に有意義なひとときだったのですが、この記事の中で、イタリアのウェブサイトの記事にあった、ルドルフ・シュタイナーの「人類の内なる進化的衝動」という講演での言葉について書きました。
実は、このイタリアのサイトの記事の内容が…まあ、シュタイナー研究者たちにありがちな、大変に難解で長い記事なのですが、やや納得する部分がありまして、ご紹介させていただこうかなと思います。その記事は何を述べているかというと、
「人間が幸福の達成に夢中になってはいけない」
というものなんです。
さらには、幸福だけを目指す文化を持つ社会は、これはシュタイナーの表現ですが、「アトランティス時代のように滅びる」とまで言っています。
アトランティス時代が伝説か真実かはともかくとして、アトランティスは、「善を追求するのではなく、幸福の個人的で利己的な要素だけを求めた」という人々の社会だったようで、そして壊滅した。
その記事をご紹介させていただこうと思うのですが、私自身は、実は、
「生まれて一度も幸福というものを感じたことがない」
のです。
なぜかというと、理由は簡単で、
「幸福というものの概念や基準を知らない」
からです。
充実していると感じることはありますし、満足したりやり遂げたりといったことも人生ではありましたけれど、たとえば、暑いとか寒いとか、かゆいとか、そういうものの基準はわかることですが、「どういう状態を幸福というんだ?」ということが、幼児の時代からわからなく、そのまま今に至ります。つまり、意味がわからないから感じたことがないということになります。
場合によっては、私は「楽しい」とかを感じたこともないのかもしれません。「楽しい」というのも、やや曖昧な観念です。
昨日の AI 文章のように「おもしろいものに接して、おもしろく感じる」というのは、基準はともかく、それは愉快であるわけですから、愉快というものには私の基準や段階があります。
そして、なるべく愉快に生きたいとは思っています。
愉快だと笑います。場合によっては、腹を抱えて笑います。しかし、それが「楽しい」という感情だとも思いません。
まして、「幸福」などという言葉とは関係ないものです。
まあ、幼児の頃から私はひねていたということなのかもしれないですが、「これは絶対にやらない」と思うことは、やらない子どもでもありました。
たとえば、幼児の時代から今に至るまで「Vサイン」をというものを手で表現したことは一度もありません。写真を撮るときのピースで笑ったこともないです。
紀元前のギリシャの哲学者のゼノンという人は、
「人生の目的を持つことが徳というもので、幸福はその結果に過ぎない」
と述べていたとされていますが、そういうことなのかなとも思います。
この 2000年以上前の言葉を聞いて、ふと思い出すのは、以下の記事で書きました「ガンの自然退縮」のことです。
[記事] 全世界でとめどなく若年層のガンが増加しており、そして今後この増加はさらに拡大することが確定している中で「ガンの自然退縮」を改めて考える
In Deep 2023年6月6日
この中で、川竹文夫さんの『幸せはガンがくれた』という本を取り上げています。
この最終章の舞台は、自然療法の東城百合子さんの料理教室です。
その生徒さんのひとりで、旦那さんは工場を経営していたのですが、経営もままならず、夫婦関係はギスギスし、いつも家族がイライラして過ごす中で、ついに旦那さんはガンになってしまい、工場も手放すことになった夫婦が出てきます。
この本に出てくる人ですので、「ガンを自然退縮」させた方々なのですが、「旦那さんはガンになってしまい、工場も手放すことになった」という話は本来なら絶望的ですが、この料理教室で、他の生徒さんたちの前でこの奥さまが、体験を発表する場面が取材されています。取材時、ご夫妻共に五十代の方々です。
抜粋します。
『幸せはガンがくれた』第12章 ガンがくれた贈り物より
「今,主人も言いましたけれど、ガンになって、本当にその後の人生がバラ色なのですね。…本当に、こんなね、楽しい毎日が来るなんてね、本当にね、いつもどこに行くのも夫婦一緒」
「私、あの時、主人が病気して本当によかったと思いました。ああ、これで、生まれ変われるって。だから今はね、私、主人を子育てしている気持ちでいるんですよ。だから絶えずこう、スキンシップして。勤めに出る時もですね。私、毎日玄関に出ていって『肇さん、行ってらっしゃい』って、こうするんですよ、こう、ね」
安永さんは、恋人が、ひしと抱き合うように、和代さんは、毎朝の儀式を再現してみせる。
「『肇さん、行ってらっしゃい』と言うと、この人、『うん』としか言わない。『うん、じゃないでしょう』と私が言うと、『和代、ありがとう』って、そして出ていくんですよ。本当に幸せですよ。病気する前だったら、「うるさい」って叱られますよ」
「夜、帰ってくる時は、バス停で待ち合わせて、横浜からずっと歩いて帰るのです。手をつないで、夜空を見ながら。そうしますと、ご近所の人が、『あ、安永さん、本当に手つないで歩いてる』なんて」
「主人は『俺の人生、ずいぶんと変わった』って言うから、『よかったじゃないの、よかったよかった』って、ずっと手をつないでね」
…「本当に、娘が微笑ましく思うくらい、いつも一緒です。お風呂も一緒ですし」
「夜、寝る時にもね、お手てをつないで寝るのです」
これが、ゼノンという哲学者が述べていた「人生の目的を持つことが徳というもので、幸福はその結果に過ぎない」ということだと思います。
そして、この本に出てくるガンの自然退縮を果たした人たちに比較的共通の点があるとすれば、
「ガンになったおかげで覚醒した」
ということです。
これは難しい意味での覚醒ではなく、
「それまでの生き方は本来の自分の生き方ではないことに気づいた」
という意味です。
本来の自分になることができたから、このご夫妻のように完全なリラックス状態で生きることができるようになった。
ガンの自然退縮とは関係なく、これからの世の中に大切なことのようにも思います。
やはり東城百合子さんの教室の片山さんという女性も、小さな頃から優等生で、いつでも責任のある役割のトップを率先しておこなうタイプで、社会人になってもバリバリと営業成績を上げている中で、「ガン」になりました。
そして、東城百合子さんの教室に通う中で、ガンが自然退縮した片山さんの言葉を聞くと、「以前の彼女はまったく存在しない」のです。
『幸せはガンがくれた』 片山さんの話より
「今は、以前の自分とはまったく違う自分を生きているような気がします。本当に、以前の私は、病気をするまでの私は、すごく闘争的だったし、格好はよかったかもしれないけれど、ひどく背伸びして、いつもぜいぜいあえいでいて……」
「今の私は、ボケッとして、のんびりして、自分の一本一本の手足を、確実に自分のものにして…こうやって、なんにもしないで、ひととき、ひとときをじっくり楽しみながら…もう私はガンになったのだから、こうあるべきとか、こうしなければとか、もうそういう考え方しなくてもいいのよって」
「家族にも、父にも優しくなれて、今はなんか、やっぱりみんな幸せでいてもらいたいと、なんでもいいから幸せでいてもらいたいと、それはすごく思います」
これこそ「覚醒」だとしみじみ思います。自分の本来の魂を人生で獲得できたと。
羨ましいですが、私などは本来の自分の生き方が何なのかもまったく今でもわかりません。
ともかく、私のように「人生で一度も幸福を感じたことがない」というような異常人間はともかくとして、彼女たちのように、
「結果としての幸福」
というのが正しい気がします。
今の社会の「唯物論の中の幸福」は、本来の人間の幸福の概念とは異なる気がしてなりません。
イタリアの記事をご紹介します。
最初に書きましたけれど、難解で、しかも長いです。抜粋にしようと思ったのですが、割愛する部分がわからず、結局全文翻訳となりました。
なお、いろいろ人名がでてくるのですが、知らない人も多かったですので、Wikipedia 程度のものですが、人名にリンクをつけておきます。
幸福の技術テスト
Prove Tecniche di Felicità
Piero Cammerinesi 2023/06/10
幸福とは何だろう? それを正確に定義することができるだろうか?
辞書には、幸福の同義語として、喜び、静けさ、満足感、嬉しさ、喜び、歓喜、幸運、満足感、至福、成功、繁栄、幸運、満足、多幸感、など数多くある。
これらの表現に基づくと、私が主に魂の一時的な状態について話しているのではなく、特に慈悲深い外部条件から独立した永続的な経験について話しているのではないと考える人もいるだろう。
しかし、私たちはこれまでの人生で、魂の永続的な状態としての幸福を経験したことがあるだろうか?
だが、短い幸福の感覚であろうと、それは私たちの記憶に焼き付けられるものだ。そのときのことを覚えている場合、私たちは同じ感情を追体験するために、その状況を再現するよう促される。
そのような試みは、ほとんどの場合必ず悲惨な失敗に終わる。
結局のところ、ヘラクレイトス (紀元前500年頃のギリシャの哲学者)が言ったように、「同じ川で二度水浴びをする人はいない」。
もちろん、川の水は常に変化しており、私たちも、ほんの数秒前の状態ではない。
しかし、この幸福の追求は、今日に限らず、あらゆる人間の行動の原動力となっているようだ。
キリストの数世紀前に、このテーマの真の愛好家であるエピクロス (紀元前のギリシャの哲学者)は、「幸福についての書簡」の中で次のように書いた。
「幸福とは、自然が私たちの意図したとおりになることだ」
エピクロスとほぼ同時代の偉大なアリストテレス (紀元前のギリシャの哲学者)でさえ、人間の幸福の問題に専念した。
彼は、幸福は手段ではなく目的であるべきであり、他の目的ではなく幸福が本当に表すものを追求することが生きる理由であると主張した。このギリシャの偉大な哲学者にとって、幸福を達成するには、美徳の道を失わずに行動し、善を行わなければならないということだ。
実際、アリストテレスはニコマコス倫理学の中で次のように書いている。
「間違いなく完璧なのは、決して他人の手段としてではなく、常にそれ自体のために求められる目的だ。これは何よりも幸福であるように思える。実際、私たちは常にそれ自体を望んでおり、他のもののためには決して望んでいない」
したがって、「それ自体」を追求してみるのが正しいようだ。たとえ幸福という言葉が、満たされた欲求、健康、成功、お金、名声、権力、高揚など、他の何かを意味することが多いとしてもだ。
いずれにせよ、一見すると、幸福についてアメリカ憲法が述べていることに同意しないことは困難だ。
「すべての人間は平等に創造され、創造主から、生命、自由、幸福の追求など、譲ることのできない特定の権利を与えられている…」
これは、1776年7月4日のアメリカ独立宣言に含まれる言葉で、実際にはイタリア語に由来する。実際、すべての個人の幸福への権利は、ナポリの哲学者ガエターノ・フィランジェリの概念であり、彼はアメリカ合衆国建国の父であるベンジャミン・フランクリンとの手紙のやりとりの中でそれについて書き、その後、トーマス・ジェファーソンによって作成された決定的な文書に引き継がれた。
したがって、「幸福の追求」に対する権利は、アメリカ建国の父たちの考えでは、すべての国民の生命と自由など、国家によって保証されるべきものであった。
さて、私はこれらの原則がどのように広範に裏切られてきたか、そしてひとつの国だけでなく、決定的に世界中でどのように裏切られたかについての反省の流砂に入り込むつもりはない。
私はただ、私たちの生活と人類全体にとっての、人間における幸福の意味についての問題を深めたいと思っている。
私は特に私の関心に近いテーマ、つまり現代における悪の問題について調べていたところ、珍しい角度からこのテーマにアプローチしているルドルフ・シュタイナーの一節を見つけた。
以下は、「人類の内なる進化的衝動」と題された講義集から抜粋したテキスト「ゲーテと19世紀の危機」からだ。
「西洋では、感覚の生活に巻き込まれる危険があり、それによって感覚の生活にエゴがなくなります。実際、地球上で幸福だけが達成されるのであれば、エゴは決して地球上に住むことはできません。
もし善が地球上での幸福の広がりのみに基づいているとしたら、古代アトランティスの経験が示すように、同じようなことが起こるでしょう。すでにアトランティス文明の真っ只中に、次の時代に幸福をもたらすであろう大きな衝動が与えられていました。
人間は、以前は善の衝動として感じていたものを、その形や効果の中に、ある種の幸福として見ていたのです」
シュタイナーはこの言葉は何を意味するのだろうか?
それは簡単なことだ。もし人々が善を、完全に正当な結果として実現された善が自分たちに生み出す感情を幸福と誤解するなら、アトランティスの場合のように、それは破滅につながるだけだ。
善は道徳的要素であり、幸福は明らかに道徳的行為から内的に得られるものであり、個人の感情だ。
シュタイナーはこう主張している。
「地球上で幸福だけが望まれれば、エゴは決して地球上で生きられないでしょう」
つまり、人類のエゴは、このいわば、善と誤解された広範な幸福によって妨げられたため、もはや地球上に転生することができなくなったのだ。
しかしシュタイナーは次のように議論を続ける。
「(アトランティスの人々は)人間は幸福に身を委ね、人間は幸福に夢中になったということなのです。そして地球は、いわばアトランティス文化に関連して一掃されなければならなかった……なぜなら人類は善への衝動として幸福への渇望だけを保持していたからです」
したがって、アトランティス人は善を追求するのではなく、幸福の個人的で利己的な要素だけを求めた。 しかし、その時に起こったのは、将来現れるであろう特定の衝動の準備、前提にすぎなかった。
シュタイナーはこう続けている。
「アトランティス後の時代において、アーリマンは幸福の文化を直接確立したいと考えています。…幸福だけを目指す文化が成立したら、人間のエゴは生きられなくなる。幸福と善良、幸福と美徳は置き換えることができる言葉ではありません」
彼はここで私たちのアトランティス後の時代について話しており、「幸福の文化」は人間のエゴが地球に降りてくるのをますます困難にすることを目的としたアーリマン的な衝動であると主張している。
「ここで私たちは、生命の深遠な秘密を観察します。当然のことながらある程度の人類の幸福につながる文明の創設という正当化されていることが、幸福そのものが達成すべき目標として提示されるように歪められているのです。
そして、人間の魂を自然に導き、何よりも生における死と悪を認識させる文明は、非常に倒錯しており、最初から死と悪を生み出す可能性のあるものとの接触がいわば避けられ、その身体性自体が避けられている。そしてこのようにしてルシファーの意図が支持されるのです」
これらの言葉から、私たちは、私たちの時代の課題は「何よりも人生における死と悪を認識する」ことであるべきであることを学ぶが、原則として私たちは自分自身の個人的な充足のみを追求することで、これらの側面を慎重に避けようとし、それによって他の妨害者に迎合する。
ルシファーは私たちを物理的に敏感な要素から可能な限り切り離したいと考えている。
シュタイナーはこう述べている。
「ご存知のとおり、私たちは人間の存在において具体的な力がどのように働くのか、特に、アトランティス後の 5番目の時代において、魂の意識的な生活の下と上にあるものを理解しようと努めなければなりません。それにより、何が起こっているのか、ほとんどを理解する方法が見つかるでしょう」
さて、私たちの時代についての理解を求めることを意図したルドルフ・シュタイナーの示唆と衝動を受け入れるなら、上記の抜粋で説明されていることが何らかの形で私たちの歴史的時代、正確にはアトランティス後 5番目の時代 (※ 今の時代)に現れているかどうかを自問しなければならない。
確かに今日では、幸福の追求がすべての人間の自己満足の追求だけになり、多くの場合、他の人間の満足の追求とは明らかに対照的になっていることは明らかだ。
それだけではない。
私たちは、善行の結果としての幸福ではなく、達成すべき目標としての生化学的な幸福であるという理論化に直面している。
もし人間の思想の歴史の中で、一部の作家たちに悪魔のような衝動があったとしたら、シュタイナーはすでに狂気の暗闇の中にあったときに書かれたニーチェの作品『反キリスト』におけるアーリマンの現れについて語った。
今日、ある作家の言葉を読んでみてほしい。ユヴァル・ハラリ (イスラエルの歴史学者で世界経済フォーラムの人)のように、間違いなくその可能性を裏付けるもののように思える。
彼が『サピエンス全史』に書いている「動物から神へ」を読んでみよう。
「真の意味を持つ歴史的発展は一つだけだ。今日、私たちは幸福への鍵が私たちの生化学システムの手にあることをようやく理解したので、政治、社会改革、クーデター、さまざまなイデオロギーについて考える時間を無駄にするのをやめ、代わりに私たちを本当に幸福にできるただ一つのことに集中できるようになった。それは、生化学のコントロールだ」
したがって、幸福はもはや達成された善の内なる結果としてではなく、私たちの肉体の操作として扱われる。私たちの体への化学的介入による幸福だ。
私たちはシュタイナーの影に隠れた最悪のシナリオを実現したいという願望に直面していると思われないだろうか。
「幸福だけを目指す文化ができてしまったら、人間のエゴは生きられなくなる」
もはや地球上に転生することができなくなった「人間のエゴ」は、ますます多くの「エゴのない人間」のグループとしてその場を離れることになる。
もう一度ハラリの文章から。
「脳化学の理解とその治療法の開発に数十億ドルを投資すれば、革命を必要とせずに人々をこれまで以上に幸せにすることができる。たとえば、プロザックは体制を変えることはないが、セロトニンレベルを上げることによって人々をうつ病から救い出す」
(※) プロザックは最初に発売された SSRI 抗うつ剤。
したがって、私たちの見解によれば、社会正義、個人の自由、広範な幸福などは重要ではなく、重要なのは体内のセロトニンのレベルを上げることだ。
したがって、ハラリが望んでいるのは麻薬中毒者の世界であり、そこでは彼はもはや私たちを取り囲むものには何の興味も感じず、ただ彼が幸福と呼ぶ肉体的な健康状態にだけ興味を感じるようになる。
人間存在のこの逸脱を動機付けるために、彼はまた、「ニューエイジ」など、私たちの最近の過去からの思想の流れを不便にしている。
「『幸福は内側から始まる』という有名なニューエイジのスローガンほど、生物学的な問題をうまく捉えているものはない。お金、社会的地位、美容整形、立派な家、権力の地位、これらはどれもあなたに幸福をもたらすことはない。持続的な幸福はセロトニン、ドーパミン、オキシトシンからのみ得られる」
実際、幸福がセロトニンから来ようが、仮想世界の「拡張現実」から来ようが、それはどちらでもほとんど変わらない。
同様に、人間は自我の体験ができない幽霊に成り下がってしまい、文明の進化全体が危険にさらされることになる。
私たちはこのことを認識し、私たちの文化が直面している恐ろしいリスクに常に注意を払う必要があると思う。これは、ハラリ、カーツワイル、シュワブ、マレレット などの著者たちがベストセラー本で提示した逸脱についての世界的コンセンサスを過小評価しないことを意味する。
なぜなら、これらの逸脱は、よく知られたオヴァートンの窓理論によれば、次第にこれが人類のより大きな集団によって共有される考えになるからだ。
少数でも、正しい人々が現状を理解し、内外の行動の基準を正しく保つことができた場合にのみ、人類の戦争以上でもある上記の最悪のシナリオを回避することができるのかもしれない。
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