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3月15日にメルマガニネベの年に起きること。そしてガンと寄生虫の関係を発行させていただきました。

人類の未来 人類の覚醒と真実 悪魔の輪郭

地球の異なるすべての民族が「良心に基づく同じ道徳的規範を共有している」ことが史上最大規模の研究により判明。その本来の人間の「善性」はなぜ損なわれ続けてきたのか

投稿日:2019年2月14日 更新日:

英オックスフォード大学の研究に関する科学メディアの記事より

sciencealert.com



 

1924年のルドルフ・シュタイナーの講演より

(※ 「悟性」とは、論理的な思考力のこと)

最初、人間は悟性なしに、精神とともにありました。ついで、精神がしだいに衰え、悟性が発展しました。

いま人間は、悟性から再び精神にいたらねばなりません。文化はそのように歩まねばなりません。

文化がそのように歩もうとしないと、どうなるでしょう。

人々は、「世界戦争のようなものは、かつてなかった」と言います。人間がこのように切り裂かれたことは、今までありませんでした。

しかし、悟性が再び精神を得る方向に進まないと、もっと大きな戦争が勃発するでしょう。ますます野蛮な戦争が勃発するでしょう。

そして、人間は根絶やしにされるでしょう。ねずみ小屋にとじこめられた二匹のねずみが互いに食い合って、最後には二本の尾しか残らなかったというのと同じ事態となるでしょう。

これはオーバーな言い方ですが、人類はもはや人間がいなくなる方向に向かっています。人類の本来の歩みを知ることは非常に重要なのです。

(『シュタイナー地球年代記』に収録)

 

英オックスフォード大学の人類学者たちによる研究で、「地球上の異なるあらゆる民族の社会が、共通の道徳の規範を共有していた」ということが、この種としては、史上最大の規模でおこなわれた調査によって判明しました。

まず、そのことを取りあげたアメリカの科学報道をご紹介させていただこうと思いますが、結局、どんな民族でも、どんな人種でも、どんな社会形態でも、

「人類は、本来、《善》を基準とする生物である」

ということが、明らかとなったといってもいいのだと思われます。

そのような人類が、どうして、冒頭に挙げたシュタイナーの言葉の中にあるような「人間がこのように切り裂かれたことは、今までありませんでした」というようなことになって今に至っているのか……と思った次第です。

ここから記事です。


These 7 Rules Could Be The Universal Moral Code Shared by Every Culture, Study Finds
sciencealert.com 2019/02/12

これらの7つの規範は、あらゆる文化の中で共有される普遍的な道徳的規範であり得る

地球の文明は長い間、戦争や紛争などに悩まされ続けてきた。このような絶え間ない衝突が何世紀にもわたって起き続けるのは、人間社会の文明間での共有しようのない文化的な矛盾が原因だと定義付けられることもある。

そうだとすれば、そのような衝突は、永遠に地球で続いていくことになってしまうというような悲劇的な考えになってしまうかもしれない。

しかし、英オックスフォード大学の最近の研究によれば、実際には、人類には驚くべき肯定的な規範があるという証拠が発見された。

その研究は、この地球上のすべての文化は 7つの異なる「共通の道徳的な規範」によって成り立っていることを見出したのだ。

世界中の 60の地域にある社会から 600以上の文化的記録が集められ、これらのデータの深い分析に基づき、社会に共通の道徳的価値観は、人々を分断させるよりも団結させるケースの方がはるかに多いことが明らかになった。今回のこの研究で調べられた文化的な記録のサンプル数は、この分野の研究では史上最大となる。

オックスフォード大学の人類学者、オリバー・スコット・カリー(Oliver Scott Curry)氏は、次のように述べる。

「すべての人が他人と協力することとに賛同し、公共の利益を推進することは正しいことだと認識しているのです」

カリー氏は、世界中の様々な民族の社会や文化について書かれた文献を専門家が独自の分類方法を使って分析したファイル資料である「ヒューマン・リレーション・エリア・ファイル (Human Relations Area Files / HRAF)」のデータベースを調べて、人々は、「協力を促進するために、文化の中での道徳的規範を進化させてきた」という理論を探求しようとした。

そうするために、データベースに収められている 60万語以上の民族誌的記述にまたがる 7つの別々の道徳的行動の証拠を調べた。

その調査の中で、以下の 7つの道徳的規範が、あらゆる民族の社会文化の中に普遍的なものとして存在することが判明した。

・家族を助ける

・自身の所属するグループを助ける

・互いに報いる

・勇敢である

・自分以外を尊敬する

・公平である

・資源の公平な分配(財産権)

これらの 7つの規範が、すべての異なる民族の社会に共通していた上、カリー氏たちの分析では、これら 7つの道徳的規範に対して、一様に「これらのことは肯定的で道徳的に素晴らしいもの」と考えられている。

これらの行動の多くは、大部分の文化で見られ、世界のさまざまな地域で同じ頻度で見られた。

論文には以下のように書かれている。

 

「私たちは、これらの 7つの協調的行動が、人間社会の普遍的な道徳的規範として最も妥当だという結論を下した。これまで、人類学的には、あらゆる文明に共通した道徳的規範は存在しないとされていたが、今回の研究は『人類の共通した道徳的規範』を提供できるものだ」

 

また、社会において、協同行動に反対する行動は、道徳的に悪いと見なされることも多くの共同体で共通だった。

たとえば、以下のようなことは、道徳的に良くないとされる。

・親族を無視する

・所属するグループを裏切る

・相手に報いない

・臆病である

・他人への敬意を欠く

・不公平であること

・盗む

地球上のすべての文化や社会で、これらの道徳的な規範が同じようにランク付けされているわけでけはないが、道徳的に良いとされる規範のすべてが、肯定的に見なされることが、非常に多くの異なる社会で観察されるという事実は、倫理面において道徳的普遍主義(あらゆる事例に適用できる普遍的な道徳原理があると考える)と呼ばれるものに結びつく。

カリー氏は以下のように述べる。

「道徳的普遍主義者と道徳的相対主義者の間の議論は何世紀にもわたって繰り返されてきました。しかし、今、私たちはそれに対しての答えを持つに至りました。世界中の人々が同様の社会問題に直面した時に、それらを解決するために、同様の一連の道徳的規範を用いているということなのです」

今の世の中は、ときに恐ろしく、あるいは人々の分断が続いている。そういう時だからこそ、この「私たち人類は共通した良い道徳的規範を持っている」ということを心に留めておくことは、決して悪いことではないだろう。


 

ここまでです。

要するに、地球の人間というものは、本来は、誰から強要されることもなく、以下のような特性を持った社会を「築くはず」なのです。

・家族を助ける
・自身の所属するグループを助ける
・互いに報いる
・勇敢である
・自分以外を尊敬する
・公平である
・資源の公平な分配

それが今の世界はまあ、どうでしょうか。まさに、これらの反対を具現しているかのような社会が広がっています。

どうして、人間の社会が「本来の在り方から外れて」今のようなことになったのかというのは、私の独善的な意見を書いても仕方ないでしょうが、最も基本的なところは、

「人間が人間を尊敬しなくなった」

というところにあるような気がしています。

長い年月の中で、私たちは「自分以外を尊敬する」ということから離れてしまったことがあり、それが今の社会のように思うのです。

たとえば、最近は特にテレビを見ないのですが、その理由は、今のメディアにあるものは、この世の人間などを、

「悪」

「善」

というふたつに完全に振り分けて、「悪」に振り分けられたものには、一切の尊敬も憐憫も与えなくてよく、徹底的に責めて潰して、存在を殺してしまえ、という風潮がものすごく強く、それが見ていて痛々しく(責めているほうの姿も)、テレビをまったく見なくなりました。

あまりにもその様相がひどくなっていて「何かに扇動されているのかなあ」ということさえ思います。

以前……日付けを見ますと、すでに 7年前の記事ですが、

殺され続ける詩人シナ
In Deep 2012年09月12日

というものの中で、「人が扇動される仕組み」について、作家の山本七平さんの著作『ある異常体験者の偏見』(1973年)から抜粋させていただいたことがあります。

下のようなものでした。

ちょっと長いかもしれないですが、削除できる部分が見当たりませんので、当時の記事に抜粋した部分をそのまま載せさせていただきます。

山本七平『ある異常体験者の偏見』より

原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーが、ある対象に向かうように誘導するのである。

これがいわば基本的な原則である。ということは、まず集団ヒステリーを起こす必要があるわけで、従ってこのヒステリーを自由自在に起こさせる方法が、その方法論である。

この方法論はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』に実に明確に示されているので、私が説明するよりもそれを読んでいただいた方が的確なわけだが、……実は、私は戦争中でなく、戦後にフィリピンの「戦犯容疑者収容所」で、『シーザー』の筋書き通りのことが起きるのを見、つくづく天才とは偉大なもので、短い台詞によくもこれだけのことを書きえたものだと感嘆し、ここではじめて扇動なるものの実体を見、それを逆に軍隊経験にあてはめて、「あれも本質的には扇動だったのだな」と感じたのがこれを知る機縁となったわけだから、まずそのときのことを記して、命令同様の効果のもつ扇動=軍人的断言法の話法に進みたい。

まず何よりも私を驚かしたのは『シーザー』に出てくる、扇動された者の次の言葉である。

市民の一人 名前は? 正直に言え!
シナ    シナだ。本名だ。
市民の一人 ブチ殺せ、八つ裂きにしろ、こいつはあの一味、徒党の一人だぞ。
シナ    私は詩人のシナだ、別人だ。
市民の一人 ヘボ詩人か、やっちまえ、ヘボ詩人を八つ裂きにしろ。
シナ    ちがう。私はあの徒党のシナじゃない。
市民の一人 どうだっていい、名前がシナだ・・・やっちまえ、やっちまえ・・・

こんなことは芝居の世界でしか起こらないと人は思うかも知れない。……しかし、「お前は日本の軍人だな、ヤマモト! ケンペイのヤマモトだな、やっちまえ、ぶら下げろ!」、「ちがいます、私は砲兵のヤマモトです! 憲兵ではありません」、「憲兵も砲兵もあるもんか、お前はあのヤマモトだ、やっちまえ、絞首台にぶら下げろ」といったようなことが、現実に私の目の前で起こったのである。

これについては後で後述するが、これがあまりに『シーザー』のこの描写に似ているので私は『シーザー』を思い出したわけである。

新聞を見ると、形は変わっても、今でも全く同じ型のことが行われているように私は思う。

一体、どうやるとこういう現象が起こせるのか。扇動というと人は「ヤッチマエー」、「ヤッツケロー」、「タタキノメセー」という言葉、すなわち今の台詞のような言葉をすぐ連想し、それが扇動であるかのような錯覚を抱くが、実はこれは、「扇動された者の叫び」であって、「扇動する側の理論」ではない。

すなわち、結果であって原因ではないのである。ここまでくれば、もう先導者の任務は終わったわけで、そこでアントニーのように「……動き出したな、……あとはお前の気まかせだ」といって姿をかくす。というのは、扇動された者はあくまでも自分の意志で動いているつもりだから、「扇動されたな」という危惧を群衆が少しでも抱けば、その熱気が一気にさめてしまうので、扇動者は姿を見せていてはならないからである。(中略)

従って、扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし、「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。

扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。

ここまでです。

最後のほうの下りである、

> 扇動された者はあくまでも自分の意志で動いているつもり

> 扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからない

> 扇動の実体は、実に静なる理論なのである。

こういうことが……これは、あくまで私個人の考えですが……こういうことが、今の世界で大規模に起きているのだと思われます。

しかも、もうずーっと。

私は以前、以下の記事で、ホラー小説『エクソシスト』に出てくる悪魔と、コロンブスを比較した文章を書きました。

悪魔の最終勝利を阻止する存在は… : 満身創痍でボロボロなれど、数百年間の「ヨーロッパ・ハザード」から生き残った日本、そして他のほんの数カ国は何のために地球に存在し続けるのか

コロンブスたちが先住民族に行った行為は、控え目に表現しても鬼畜的で悪魔的であり、人間性の心の欠片もない「残酷な機械が行うことみたいなもの」でした。

上の記事で私は以下のように書きました。

2017年5月19日のIn Deep記事より抜粋

『エクソシスト』という小説があります。これは大ヒットした映画エクソシストの原作ですが、その中に、少女リーガンに対しての悪魔払いをおこなうことになったカラス神父という若い神父が、悪魔払い師のメリン神父に、

「悪霊が人間にとり憑く目的はどこにあるのでしょうか」

と尋ねるシーンがあります。

その答えとして、メリン神父は以下のように小説の中で答えています。

小説『エクソシスト』(1977年)より

それは誰にも判らないことだ。……しかし、私はこうみている。つまり、悪霊の目的は、とり憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ……われわれ観察者が狙いなんだと。

そしてまた、こうも考えられる。やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。やつはわれわれをして、われわれ自身が究極的には堕落した者、下劣で獣的で、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると自覚させようとしている。

メリン神父は、悪霊(悪魔)が人間にとり憑く理由を、

「私たち人間に、人間と人間社会に対して絶望させるように仕向けることにある」

あるいは、

「人間という存在が、下劣で獣的で、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在であると、人々に自覚させようとしている」

ためだと考えているということになるのだと思います。

コロンブスのおこなった行為は、まさに、この「人間という存在が醜悪で野蛮で無価値なものと人間に思わさせるため」には十分であり、そういう意味では、ヨーロッパ人の植民地時代というものは、

「悪魔が世界に羽ばたいたとき」

だったと言えそうです。

おそらく、それ以外のなにものでもなかったでしょう。

悪魔が地球を征服するために、悪魔の支配下にある人間(本人がそう気づいていなくても、彼らは期待通りの行動をします)が全世界に広がり、「地球を悪魔の星にする」。

それが目的だったような気さえします。

ここまでです。

そして、今の世界では、多くの「人間」が「人間に失望」しています。

悪魔の取り組みの成功例と言えるのでしょうね。

 

現代においては、山本七平さんが述べているように、「扇動者は見えない」ですが、人間は日々、何らかの方法で扇動されている。

その中で、人間はどんどん他者に対して残酷な存在となり、今の社会はそのような上に成立している。

それが急速に良くなるというような方向もあまり見えないです。

しかしまあ、そんなことを否定的に考えるより、オックスフォード大学の研究が示したように、

「本来は人間は《善》に寄り添った社会を作る」

ものだということを、人類が滅びていこうとしている今、私たちは知っておくべきなのだと思います。

今の文明が滅亡した後、いつかまた人類の文明がこの地球に芽生えた時には、今度は普通に……つまり、本来の人間は、放っておけば「良い文明を築く」存在なのですから、そういう方向に行くといいですね。
 

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