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4月19日にメルマガ私たち現生人類は「鉄の種族」であることから思う生き方を発行させていただきました。

2020年からの世界 ディストピアへようこそ 人類の未来 人類の覚醒と真実

暗黒の時代と戦うツールは怒りでも憎悪でもない。「笑顔が消えた時代」に、悪の支配に対抗し、人類の霊性を高めるために必要なものは何かを考えましょう

投稿日:2020年8月18日 更新日:

修行するスーフィーと呼ばれるイスラム教神秘主義者

・古代スーフィーたちには月に1度「一日中冗談を言い続ける」という修行が課された。 jamesburgess.com




 

新たな修行の時代に

私が、人生でとても感謝している人たちはたくさんいますが、そこにはもちろん、このブログでたまにご紹介させていただく科学者や医学者、自然療法家の方などたくさんいます。

しかし、時代を 30年以上遡って、十代二十代となると、またそれらのような偉人や賢人とは違った系統の人たちに私は「救われて」いました。

十代ならさまざまな音楽家だったと思いますが、二十代に私が最も精神的に救われたのは「笑い」でした。

子どもの頃からほとんどテレビを見ない人でしたので、日本のお笑いのほうは今に至るまでよくわからないのですが(漫才ブームとかも知らなかったのです)、二十代の前半、レンタルビデオ屋でふと気づいた「モンティ・パイソン・フライングサーカス」という一連のビデオを見て、

「ああ、この世はまだ捨てたものではないし、この世は美しい」

と思うようになりました。

モンティ・パイソンは英国のコメディ集団で、このフライングサーカスは、英国 BBC で 1969年から放送が始まったものだそうです。私が初めて見たのはすでに 1980年代の中盤くらいですから、放映からずいぶんと時間が経っていました。

当時見ていて気づいたのは、

「お笑いの体裁をとっているけれど、この人たちは社会の価値観と戦争をしている」

ということでした。

モンティ・パイソンは 6人組でしたが、その中で最も過激で攻撃的なコントを提供し続けたひとりが、ジョン・クリーズという人でした。

彼は、笑いの中に意図的に、階級や差別や中傷を盛り込み、彼のコントには、フリーメーソンから英国女王、ヒトラーからスターリン、トロツキーとあらゆる実在の人が笑いのネタに使われ続けていました。

そのジョン・クリーズは、現在、80歳ですが、ここ最近よくメディア記事で取りあげられることを見かけるようになりました。

彼は今の社会の状況から「笑いが剥奪されている」ことを懸念しており、そして

「今の世界が異常な性質のものに支配されている」

と訴え続けているのです。

以下は、7月22日の米ゼロヘッジが取り上げた記事です。

7月22日のゼロヘッジより

zerohedge.com

ここで紹介されている動画の中で、ジョン・クリーズは、

「私たちは、今、機能不全の世界に住んでいる」

として、

「この状態は、完全に絶望的だ...」

と語っています。

そして、さらにジョン・クリーズはこの動画で、「今のこの状態は、自然となっているのではなく、そうされている」として、以下のように語っています。

「私はこれらの人々(権力志向者たち)に問題があると確信している。彼らはパワフルになりたいがために、民衆が感情的にコントロールできない状況に陥らせ、そして、その状態の中で人々をコントロールしたいのだ」

「権力志向者たちが恐れている唯一のことは、自分たちのコントロールの力を失うことだ。そのため、彼らはその力の統制を維持するためにはほとんど何でもする」

さらに、8月5日に報道された他の報道媒体の記事では、ジョン・クリーズは、

「今のわれわれは『1984』の世界に生きている」

とまで言っていました。

『1984』とは、イギリスの作家ジョージ・オーウェルが 1949年に発表した小説で、いわゆる「デストピア」ものです。世界が「完全な管理・監視社会」となったことを描いたもので、1984年からやや遅れた 2020年に、この小説の内容が現実として始まっているとジョン・クリーズは述べているのでした。

このジョン・クリーズという人は、世界屈指の名門、英ケンブリッジ大学で法学を学んだ後に弁護士になっているのですけれど、すぐに弁護士をやめて、お笑いの世界に入ります。

モンティ・パイソンは、他のメンバーもケンブリッジ大学かオックスフォード大学の超インテリたちで、「お笑いがやりたい」というよりも、「価値観の戦争(そして既存の価値観の破壊)に挑んだエリート集団」だと考えています。

そして、1960年代から 1970年代のモンティ・パイソンのコントを見ていると、「この世の支配勢力の存在」を彼らは知っていたと見られ、その存在を揶揄して馬鹿呼ばわりするようなコントがものすごくたくさんありました。

実は、私は最近、モンティパイソンの昔のビデオをよく見ます。

おそらく、過去を懐かしんでいると共に、すでにこの世の終わりを実感しているのだと思いますけれど、しかし、ジョン・クリーズは、簡単にいえば、

「笑いのない世界は死んだ世界だ」

というような意味のことを述べているわけで、そして、これについては、私も同じなのです。逆にいえば、笑いが復活すれば、悪魔は去るはずです。まだ、私もこの世の終わりを悲しんでいる場合ではないのだとも思います。

 

そういえば、かつて、ジョン・レノンも

「この社会は、狂った目的を実現するために、狂った人間たちによって動かされている」

と BBC テレビのインタビューで語ったことを以下の記事で取りあげたことがあります。ジョン・レノンがこれを述べたのが 1968年のことで、モンティパイソンの BBC での放送はその翌年に始まります。

ソルフェジオ周波数 528Hz に石灰化した松果体を正常に戻す可能性がある? あるいはそこから導かれる「隠されたマルコによる福音書」の記述にも励まされ
In Deep 2015年02月07日

この 5年以上前の In Deep の記事を久しぶりに読んでいましたら、締めで私は以下のように書いていました。

私たち人間には自主的に考えることができる脳があります。しかし、仮に、脳が退化し続けたとした場合……いくら立派な計算ができたとしても、感情や想像力や創造力のない脳を持つものは人間ではなく、それはロボットのようなものです。

この社会がそんな「ロボット人間」ばかりになったとすれば、それは狂った社会ではあります。すでに、ややそんな感じがして仕方ないのですけれど。

 

それでですね。

 

最近、メルマガのほうで「号外」を連続で出したのです。

その内容は・・・まあ、ブログのほうも下らない記述が多いですけれど、メルマガのほうはそのあたりが野放図な部分がありまして、そして、「特にこの1、2ヶ月、そのアバンギャルド性がムチャクチャになっていた」感じなのです。

大体、冒頭の自己紹介から、

「こんにちは、ワクチンことワクワクチンチン君です」

とか言っている始末ですので、もう手に負えない。

そういう中で、複数のお叱り……ということではないですけれど、「ふざけすぎているのではないか」というようなことを言っていただくこともありまして、そういう方々は、助言として言ってくださっているので、本当にありがたいことなのですけれど、

「意図」

を、やはりご説明したほうがいいのかなと思ってのメルマガの号外でした。

号外は2号連続となりました。

 

そして、その後、ある読者様の方から、

「この内容はメルマガの人だけではなく、伝えたほうがいいのでは?」

ということを言って下さった方がいらっしゃったのですね。

それでまあ、先ほどのジョン・クリーズさんの記事なども思い出しまして、「笑いの意味」というものについて書いたその号外の一部をご紹介しようと思います。

私の書き方が良くないために、決してわかりいい内容ではないのですが、古代から人々は、

悪と戦うため

そして、

自分の霊性を鍛えるため

に笑いを用いてきた歴史のようなものを書いています。

なお、今回の記事の冒頭には、スーフィーと呼ばれるイスラム神秘主義者の修行の写真を載せていますが、学説の中には、古代のスーフィーたちが「月に1度、一日中ウソと冗談を言い続けなければならない」という日があり、それがエイプリルフールの起源となったという説があります。

これは、1980年代の自販機本 Jam について書きましたブログの以下の記事で少し取り上げています。

創造神Jamに16歳で救われた私が40年後に気づいたこと
In Deep 2019年11月23日

雑誌 Jam の編集者だった美沢真之助さんが、エイプリルフールの風習の起源について、イタリアの農耕と律法の神であるサトゥルヌスの祭と、イスラム神秘主義であるスーフィーについて雑誌に書いていたのです。

しかし、大事なことは、この説が正しいとか間違っているということではないことに今となって気づきます。

つまり、たとえば、「エイプリルフール - Wikipedia 」には、エイプリルフールの起源について以下のようにあります。

エイプリルフールの起源は全く不明である。すなわち、いつ、どこでエイプリルフールの習慣が始まったかはわかっていない。

有力とされる起源説を以下に挙げるが、いずれも確証がないことから、仮説の域を出ていない。以下に挙げるのは、その例である。

「有力とされる起源説を以下に挙げるが」については、取り上げませんが、これが意味することがおわかりでしょうか。

つまりは、おそらく「古代の世界のいたるところで同じような《ウソと冗談の日》が設けられていた」という可能性があるのです。

 

その「笑いの存在が消える」と、中世のヨーロッパのような暗黒時代が訪れる。

 

モンティ・パイソンのジョン・クリーズはそれを懸念している。

 

では、ここからメルマガの号外から抜粋します。

号外そのものは、かなり長いですので編集しています。

また「ワクワクチンチン君」などの不要な単語は割愛しています。さらに「ま、このぉ」など田中角栄さんの物真似なども割愛させていただきます(早く進めよ)。

形式はメルマガで配信しているものと同じ体裁とさせていただきますので、少し読みにくい部分もあるかと思いますが、ご容赦下さい。

ここからです。

[In Deep メルマガ 号外 08/16] 暗黒の時代と笑いの封殺の歴史

みなさま、こんにちは、岡です。

何かの情報があっての号外ではないのですが、
ここ数回ほどのメルマガについて、「ギャグやダジャレが多すぎる」
というようなお叱りをいただくことがありまして、
それについて書いておきたいと思うことがありました。

現実として、特にこの数回分くらいのメルマガで、
下らない部分を増やしていたのは、

「意図的」

です。

それはなぜか?

みなさんに楽しんでいただきたいからでしょうか?
もちろんそれもあります。

しかし、「オールマスクの社会」から始まり、
意味のない自粛や人との接触を否定する方法を見ているうちに、
この世の勢力(それが何の勢力かはわからないです)が、

「世界から笑いを消そうとしている」

ことに気づきました。

これは、海外では、いわゆる「暗黒時代」というものに突入する際に
キリスト教(というよりその教会システム)が使った方法でもあります。

これについては、1980年にイタリアで発表され、
世界で5000万部以上売れたという『薔薇の名前』という小説があります。

これはその後、映画化され、私は映画の方だけを見ていますが、
ストーリーは、14世紀の北イタリアの修道院の中で次々と起きた殺人事件を、
他の修道院から来た老修道士(ショーン・コネリーさんが演じます)
が解き明かすというものですが、
死亡する修道院たちに共通するのは、

「全員、図書室に行った後に死亡している」

という点が共通していました。

結局、殺人者は、その修道院の最も年老いた盲目の老修道士のひとりで、
その方法は、

「ある本」

のページに毒を塗っておいて、

「その本を読むと、本に塗られた毒で死ぬ」

というものでした。

その「本」とは、紀元前の哲学者であるアリストテレスが書いた

『詩学』

の中の、

「第5章 - 喜劇について」

でした。

図書室を管理していたその老修道士は、
このアリストテレスの「喜劇論」は決して誰も読んではいけないとして、
それを読んだ者たちが死ぬように行動していたのです。

最終的に、捜査に来た修道士は、そのことに気づき、
そして、図書室を管理していたその老修道士を追求します。

以下はその時の台詞です。

 

(映画『薔薇の名前』より)
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「なぜそれほど笑いを警戒する?」

「笑いが恐れを殺せば、もはや信仰は成立しなくなる。
民衆が悪魔を恐れなければ、神は必要ない」

「だが本(詩学)を隠しても笑いはなくならない」

「その通りだ。笑いは民衆の中に生き続ける。
だが、この本の存在が世間に知れたら、
何でも笑い飛ばしていいと公式に認めることになってしまう。
神を笑うことが許されれば、世界はカオスになってしまう。
だから、私が封印する。この内容が民衆に知られてはならぬ」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

 

この中の老修道士が言っている以下の部分。

「笑いが恐れを殺せば」

という部分が意味していめることは、「恐怖」を殺すことができるのは「笑いだけ」だと、
この老修道士も、そして、おそらくはアリストテレスも、
そう思っていたのです。

そして、中世の暗黒時代には、

「これと同じ思想の行動がキリスト教会によって行われた」

と私は確信しています。

なぜかというと、このアリストテレスの詩学の中で、

「喜劇」について書かれている部分だけ、「消えてしまっていて、現在まで、見つかっていない」

のです。

Wikipedia には、これについて以下のように書かれています。

 

(詩学 - Wikipedia より)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

『詩学』は本来は2巻構成だが、「喜劇」について論じられていたと推測される
第2巻が今日まで伝わらず散逸してしまっているため、
アリストテレスの「喜劇」に対する評価や、
「悲劇」と「喜劇」に対する評価の差は、正確には分からない。

そこでウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のように、
「アリストテレスはひょっとしたら、「悲劇」よりも「喜劇」をより高く評価していたのかもしれない」
という仮説に基づく文学作品も存在している。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

 

アリストテレスの「悲劇について」は残されていても、
「喜劇について」は消失しているのです。

先ほどの老修道士は以下のように言っていました。

「神を笑うことが許されれば、世界はカオスになってしまう」

この「神」をあらゆる言葉に置き換えてみれば、
つまり、

「〇〇を笑うことが許されれば、世界はカオスになってしまう」

という状態を常に権威者たちは恐れている。

そして、今、私は、

「世界は二度目の暗黒時代に入ろうとしている」

と考えています。

「入ろうとしている」というか、何らかの存在が、そうしようとしている。

その場合、最も邪魔なものが、
先ほどの老修道士の言っていたことと同じなのです。

「民衆が悪魔を恐れなければ、神は必要ない」

人々が神を笑い、
悪魔を笑い、
そして、恐怖を笑う。

そのことを最も避けたいと思っている。

今現在の生活を見ていて、それをお感じにならないですか?

たった半年くらいのあいだに、
日本を含めて、世界全体で「笑いの絶対量」がものすごく減ったはずです。

昨年、以下の記事でも、
古代秘教では「笑いを重視していた」ことにふれました。

創造神Jamに16歳で救われた私が40年後に気づいたこと

そこに、雑誌 Jam のブレーンだった編集者の美沢真之助さんという方が、
雑誌に寄稿していた、

『古代ローマの農神祭「サトゥルナリア」に関しての「嘘の持つ役割と可能性」』

という文章から抜粋しました。

これは、「エイプリルフールの始まり」についてですが、
そこでは書かなかったこととして、非常に重要なこととして、
もともと、

「エイプリルフールとはしたい人だけがウソをついて笑う日ではない」

ということです。

「全員が笑いに参加しなければならない義務の日」

として設定されていたのです。

その部分を抜粋します。
カッコ内は私による注釈です。

 

(1982年のエッセイより)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

サトゥルナリア(古代イタリアの農耕と律法の神への祭)の儀礼は、
イスラムのスーフィー(イスラム神秘主義者)たちに、発達的に継承された。

霊性の発達に関する共同体の重要性を認識していたスーフィーたちは、
月に一度、「嘘つきの日」を設けたのである。

この日には、嘘をつくことが許されているのではなく、
修業として、一日中嘘をつくことが強制された。

「正直であれ」という倫理的な名分は、
何が正直であるのかに関する個的な妄想によってすぐさま歪められてしまい、
人々はこの個的な妄想のパターンについては無自覚である。

だから、よき意図を持っても、肉体が意識が変化しないかぎり、
その意図は実現されない。

ところが、意識的に嘘をつくことによって、無意識に語っていた嘘が露呈して、
自己の隠された心理的なパターンを自覚することができるのである。

スーフィーの「嘘つきの日」にこめられた秘教的な行為を、
日常的な生活の中で体験したいのなら、「冗談」を観察するのがいちばんいい方法である。
冗談の大半は内的な感情の表現である。人々は、冗談で本当のことを喋っている。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

 

ここに、

> 修業として、一日中嘘をつくことが強制された。

とあるように、霊性の発達のために、
そして、人々が「自分の中の真実」を見つめることができるように、
あるいは、

「悪魔を恐れないために」

笑いは義務化されていたのです。

もちろん、この場合はそのエイプリルフールの日だけの話ですが、
暗黒時代に入ろうとしている今、この、

「強制的な義務」

は、もっと日常的になるべきだと私は思っています。

本来、悪魔的な存在は「笑いを理解できない」ということがあります。

あるいは、エドワード・スノーデンさんとか、
元世界銀行の上級職員のカレン・ヒューズさんなんかは、

「地球の地下に人類ではないヒト科の存在がいる」

ことについて述べていますが、
彼ら地底人にも、

「笑いや悲しみといったような感情はない」

ようなんですね。

彼らは「理論だけで動く」存在です。

エドワード・スノーデンさんは、インタビューで以下のように述べています。

 

(エドワード・スノーデンさんの証言)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「彼らの視点から私たち(人間)への見方として、
一般的な感情は蟻(アリ)に対してのもののような感じですので、
彼らが私たち人間に共感したり、
あるいは、
私たち人間とコミュニケーションをしようとする可能性はありません」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

元世界銀行のカレン・ヒューズさんは以下のように述べています。

(カレン・ヒューズさんの証言)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「私たちの地球の国家は一枚岩ではありません。
この世界をコントロールしているネットワークの背後にある
グルーブのうちのひとつはイエズス会であり、
その背後にいくつかのグループがあります」

「そして、それらの中のひとつのグループは、
ヒト科ではあるが、人類ではない者たちによるグループです。
彼らは非常に頭が良いですが、創造的ではなく、
数学的な思考をします」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

 

こういう地下にいるヒト科の存在は、とても頭がいいのですが、

「人間のような感情はない」

ようなんです。

なので、笑いとか悲しみとか、
そういうことはよくわからない。

仮に、彼らが人類を支配・統制したいのなら、

「できるだけそういう感情を人類から剥奪したい」

と考えているはずです。

悪魔的存在も地底人も人類の「感情の摩耗」を希望しているはずです。

なお、上のことを書いた記事は、7年前とか古い記事ですが、
以下にあります。

エドワード・スノーデン氏かく語りき:「地球の地下マントルには現生人類よりさらに知的な生命が存在している」
2013年07月10日

この世界の正体:世界銀行元上級職員カレン・ヒューズさんが語る「地球のお金と宗教をコントロールする"人類ではない種族"」
2014年04月03日

そんなような感じで、中世のヨーロッパにおいて、

「悪魔的存在が達成した暗黒時代」

を、今度は、

「全世界レベルで達成したい」

というような気持ちはあるようには思います。

そんなわけで、現在、悪魔的存在が行いたいと思っていることは、

・人口削減(少ないほうが統制しやすい)

・笑いの抹殺(恐れ続けている人のほうが統制しやすい)

のふたつで、
これが現在の彼らの大仕事だと思っています。

それだけからこそ、
ある程度、私たちはそこに、古代イスラム神秘主義者たちと同じように、
立ち向かわなければならないのかもしれないとも思います。

そのために重要なことは、笑いはともかくとしても、

「人間としての感情を摩耗させないこと」

です。

そんなわけでして、多少、お叱りなどを受けたこともあり、
今の時代に何が重要かということについて、
あくまで私見ですが、述べさせていただきました。

 

最初の号外はここまでです。

かつて、私の子ども時代の女の子たちは、

「郷ひろみと西城秀樹どっちがいい?」

などと言っていまして、郷ひろみさんのほうがやや人気があったのか、

「郷がいい」

ということで「号外」という言葉が生まれたという説が…(いいから早く2号目に進め)。

ここから2号目の号外です。

 

[In Deep メルマガ 号外 08/17] 無意識の真実を導き出す秘教の意志に学ぶ

 

前回の号外で、「笑い」というものについて少し書かせていただいたのですけれど、
今日、昼間、散歩していて、ふと、

「大事なことを書き忘れていた」

ことに気づきました。

あの号外メールは、

「社会と笑い」

というようなことについて主に書いていたのですけれど、
そういう側面とは別に、たとえば、今はこんな時代になっていますけれど、
時代がどういうものであろうと、

「なぜ、ウソや笑いは自分の霊性に対して必要なのか」

ということについて書いていませんでした。

というのも、「笑い」というものが、社会や宗教による人類の統制だとか、
そういうものに対して有効だから大事だというのなら、

「良い時代には笑いは必要なくなる」

ということになります。

それは精神科学的にも宗教的な意味でもそうではないわけで、
時代の状態に関係なく、「それは重要だ」
ということを、簡単に書かせていただこうと思います。

前回の号外では、1980年代の自販機本 Jam の編集者が書かれた

『古代ローマの農神祭「サトゥルナリア」に関しての「嘘の持つ役割と可能性」』

から抜粋して書かせていただきましたが、
重要なのは、以下の部分です。

スーフィーとは古代のイスラム神秘主義者たちのことです。

 

(1982年のエッセイより)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

霊性の発達に関する共同体の重要性を認識していたスーフィーたちは、
月に一度、「嘘つきの日」を設けたのである。

この日には、嘘をつくことが許されているのではなく、
修業として、一日中嘘をつくことが強制された。

「正直であれ」という倫理的な名分は、
何が正直であるのかに関する個的な妄想によってすぐさま歪められてしまい、
人々はこの個的な妄想のパターンについては無自覚である。

だから、よき意図を持っても、肉体が意識が変化しないかぎり、
その意図は実現されない。

ところが、意識的に嘘をつくことによって、無意識に語っていた嘘が露呈して、
自己の隠された心理的なパターンを自覚することができるのである。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(ここまで)

 

当時の自販機本の編集者たちの書く文章は、難解なものが多く、
上の部分を「解読」してみますね。

まず、

> この日には、嘘をつくことが許されているのではなく、
> 修業として、一日中嘘をつくことが強制された。

の部分は、まあ、このままなんですが、つまり、
イスラムの秘教の修行をしているスーフィーたちにとって、

「月に1度、1日中ウソをつくことは義務であり強制だった」

ということです。

宗教でいう「強制」というのは、つまり修行の一貫であることを意味します。

なぜか。

ウソをつき続けたり、人を笑わせ続けることに何の意味があるのか。

そして、編集者の以下の文章に続きます。

> 「正直であれ」という倫理的な名分は、
> 何が正直であるのかに関する個的な妄想によってすぐさま歪められてしまい

これも、まったく難しい表現ですが、解読しますと、

「自分が正しいと思っていること、つまり正直という観念は、《自分の中で勝手にそれが正しいと思い込んでいる価値観でしかない》ので、思い込んでいる価値観によって他の価値観すべてがねじ曲げられてしまう」

ことになってしまう。

つまり、

「本当は自分にとっては間違った観念だと思っているほうが真実であったとしても、自分にとって間違っていると思うことを正しいと考える機会がない」

わけです。

もしかすると、自分が正しいと考えていることは、

「単なる妄想かもしれない」

のですが、そう思う「機会」がない。

続いて、文章では以下のように示されています。

> 人々はこの個的な妄想のパターンについては無自覚である。

この部分は、

「いつまで経っても《自分で勝手に正しいと思い込んでいる価値観》以外の価値観に気づかない」

ということだと思います。

文章は以下のように続きます。

> ところが、意識的に嘘をつくことによって、無意識に語っていた嘘が露呈して、
> 自己の隠された心理的なパターンを自覚することができるのである。

というのは、

「ウソや冗談を言う中で、《自分で勝手に正しいと思い込んでいる価値観》が、そうではないことに意識的に気づく可能性がある」

ということだと思われます。

つまり、ウソや笑いは、
必ずしも真実に近づく方法ではなくとも、

「ときに、ウソや笑いが《自分の妄想に気づかせてくれることがある》」

というようなことです。

たとえば、

「ウソ」

というのは、一般的に、「真実の反対」を言うわけです。

浮気を実際にした男性が恋人から、

「あなた、浮気した?」

といわれた場合、
ウソを言うのなら、

「いや、していない」

という以外の言葉はないわけです。

ウソあるいは冗談というのは正反対のことを言うことです。

あるいは、「正反対」ではなくとも、

「それに対しての一般的な概念から非常に離れたこと」

を言う必要があります。

ふだんは考えもしない「自分が正しいと思っていることの正反対の概念」を言う。

例えとしてはもうなんでもいいのですが、
大勢の人々のいる中を歩いている。

誰がどう見ても、人で混雑した道を多くの人々が歩いているだけの光景です。

しかし、今日は「ウソつきの日」なので、
修行中のスーフィーは、一緒にいる相手にウソを言って、
笑わせなければならない。

「どうして、ここには人がひとりもいないのだろう」

ただ正反対のこととして、そう言う。

しかし、やはり、

「ふと」

「本当にこの人たちはここにいるのだろうか」

ということを考えるきっかけになる「かも」しれない。

「存在しているという意味は何なのだろう」とか。

もちろん、そうならないことのほうが多いでしょうけれど、
生きてきて、疑問にも思っていなかった「普通の多くのこと」が、

「それは違うという言い方もあるのだな」

ということに、ウソをつく中で、気づく場合もあるかもしれない。

そして、それは

「自分の中の価値観や精神性あるいは霊性に及ぶ」

こともあるかもしれない。

そういうことに至ることはほとんどないにしても、
一日中、数多くのウソを言って人を笑わせている中で、つまり、

「ずーっと自分の考えと反対のことを言い続けている中で」

何かに気づくことがあるかもしれない。

秘教の修行に役立つ部分があるかもしれない。

あの Jam の編集者の方の書かれていた文章の内容は、
そういうようことだと思われます。

「とんでもないことを言ったり考えたりすることの中に」

「そこから真実に到達する道筋の一端を掴む人が出るかもしれない」

スーフィーたちの「笑いの修行」の目的はそれだったのだと思います。

前回の号外では、
ルドルフ・シュタイナーの『いかにして高次の世界を認識するか』
について少しふれた部分がありますが、この中には、

「神秘学の学徒になるための七つの条件」

「霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性」

「十二弁の蓮華の育成のための六つの条件」

というものが語られています。

この中の「十二弁の蓮華」というのは、私には今でもよくわからないのですが、
いずれにしても、それぞれが

「普通の観念で生活していると気づきにくい」

ものです。

シュタイナーも言っていましたけれど、
こういう特性を獲得する「方法」は、人種によって異なり、
白人種、インド人、東アジア人などで修行の方法論は違うと言ってましたけれど、
日本人の場合は、

「ウソと笑いから気づく部分があってもいい」

と私は思っています。

参考までに、その

「神秘学の学徒になるための七つの条件」
「霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性
「十二弁の蓮華の育成のための六つの条件」

の項目だけをご紹介しておきます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━

《神秘学の学徒になるための七つの条件》

・第一の条件 「あなたの体と霊の健康を促進するように注意を払いなさい」

・第二の条件 「自分自身を生命全体の一部分と感じること」

・第三の条件 「私の行動だけではなく、私の思考と感情も、同様に世界に対して重要な意味をもっている」
と考えることができる境地にまで上昇しなくてはならない。

・第四の条件 「人間の真の本質は外見にではなく、内面にある」

・第五の条件 「一度自分で決めたことは、確固とした態度で守り通す」

・第六の条件 「自分に与えられるすべてのものに対する感謝の感情を育てる」

・第七の条件 「つねにこれらの条件が求められるとおりに、人生を理解する」

《霊学において高次の認識に上昇するために身につけなければならない四つの特性》

・第一の特性 「思考において真実と仮象のものを、真理と単なる意見を区別すること」

・第二の特性 「仮象のものと向き合ったときに、真に実在するものを正しく評価すること」

・第三の能力 「思考の制御、行動の制御、ねばり強さ、寛大さ、信じること、冷静さを実践すること」

・第四の特性 「内面的な自由に対する愛」

《十二弁の蓮華の育成のための六つの条件》

・第一の条件 「自分自身の思考の流れを支配すること」

・第二の条件 「思考の場合とまったく同じような首尾一貫性を、行為においても保持すること」

・第三の条件 「粘り強さの育成」

・第四の条件 「人間や、ほかの存在や、さまざまな事実に対する寛大な態度」

・第五の条件 「人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度」

・第六の条件 「ある種の人生の均衡状態(平静さ)を捕獲すること」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここまでです。

この中の、

「人生のさまざまな現象に対するとらわれない態度」

「思考において真実と仮象のものを、真理と単なる意見を区別すること」

「自分自身の思考の流れを支配すること」

などを含めて、
古代スーフィーたちの「ウソを使った秘教の修行の意味」
というものと関係している部分もあるとは思えないでしょうか。

シュタイナーが言うからということではなく、
上のさまざまな「条件」と、現在の地球を「支配」している思考の概念を比較しますと、
現在の社会での観念は、

「ほとんどにおいて真実と正反対」

であることに気づきます。

つまり、現状に生きている私たちには、

「ウソが持つ反対の概念の発生」

という作用は、比較的大事なのではないかとも思うのです。

いずれにしましても、
自分が「絶対に正しい」と思い込んでいる観念がひっくり返るということは、
とても難しいことで、
仮に、自分が正しいと思い込んでいるのと「反対」に真理がある場合、
ただボーッとしていただけではいつまでも価値観の変転はないのだと思います。

もちろん、価値観が変転することが良いというわけではないですが、
今の世の中を見ていますと、たとえ全体の一部の人たちだけであっても、
価値観の変転は必要なのではないかなと思うことがあります。

それで、今回の補足を書かせていただきました。

 

ここまでです。

長々とメルマガを転載させていただきましたけれど、結局、最近の世の中を見て思うのは、最初の号外にありました以下の部分なんです。

 

> 今現在の生活を見ていて、それをお感じにならないですか?
> たった半年くらいのあいだに、
> 日本を含めて、世界全体で「笑いの絶対量」がものすごく減ったはずです。

 

マスクをしていて笑顔が見えないことも含めて、「世界から笑いが消えようとしている」のは確かなのです。

テレビのお笑い芸人たちのような些末なお笑いはほとんど救いにはなりません。

モンティ・パイソンの人々のように「お笑いは価値観への戦争だ」という観念を持ち、そして、古代のスーフィーたちのように、

「笑いを作り出すことは霊性においての修行だ」

ということを認識して生きていかれる方が増えればいいなと思います。

そして、願わくば、人類の感情と感性がこれ以上は摩耗しないことを祈ります。

人類を支配したい存在は、人類がロボットのようになることを望んでいます。

 

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