11月14日の米科学誌「サイエンティフィック・アメリカン」より
「時間」の真実
「時間は存在するか」ということは、物理学、あるいは哲学では大昔から大きなテーマだったようですけれど、私個人は、過去記事、
・《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認
In Deep 2015年06月06日
を書いた頃から、「時間もそうかなあ」と思っていました。
つまり、
「人間が認識するまで、時間は存在しない」
ということです。
私は科学者でも哲学者でもない、単なるさすらいの料理人ですので(新しい展開かよ)こういう適当なことも書けますが、専門家となると大変なことのようです。
先日、アメリカで最古の科学誌「サイエンティフィック・アメリカン」のウェブサイトに、冒頭のような「私たちは本当に時間の流れを経験しているのだろうか?」という記事、つまり、
「時間の流れというものは本当に存在しているのだろうか」
ということに関してのエッセイが掲載されておりまして、ここに出てくる比喩が、「なるほどなあ」という感じで、そして、ここに書かれてある内容は私に、「時間は人間が作っている」という確信をさらに持たせてくれたのでありました。
今回は、そのサイエンティフィック・アメリカンの記事をご紹介させていただこうと思います。
なお、記事の中にジュリアン・バーバー(Julian Barbour)博士という人の名前が出てきますが、以下のような方です。
著書であるThe End of Time にて、宇宙には時間は存在しておらず、時間とはあくまで人類の感覚としての幻想だと主張した。
私は「時間が幻想」だとは思っていませんが、量子力学的な意味で、人間が共通の認識の中で「時間を作り出している」というようには思っています。
古代ギリシャには「カイロス(物理的な定義がない時間)とクロノス(いわゆる現代の時間と同じ意味の時間)」というようなふたつの時間の観念があったとされていますけれど、
「クロノス(今と同じ意味の時間)のほうが幻想」
だとは思います。
つまり「時計が刻む時間のほうが幻想」だと私は思っていますけれど、しかし、それを証明する方法はあるのか? というあたりが、学問の世界での限界ということになっているようです。
では、サイエンティフィック・アメリカンの記事をご紹介しますが、その後、わりと以前のものですが、アメリカの未来予測プロジェクトであるウェブボットの記述をご紹介しておきたいと思います。
Do We Actually Experience the Flow of Time?
Scientific American 2018/11/14
私たちは本当に時間の流れの中にいるのだろうか?
時間は物理学において議論の余地のある話題だ。
ジュリアン・バーバー博士のように、物理学者たちの中には「時間は存在しない」と主張する人たちもいる。
他の研究者たちの中には、たとえば、カルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)博士のように、より深い量子プロセスの副次的効果として時間が生じると主張する場合も見られる。
しかし、 リース・モーリン博士のような多くの人たちは、時間は自然の唯一の基本的な次元であると考えている。そして物理学の法則は時間的に対称的であるため、多くの議論が、なぜ私たちが時間通りに戻ることができないように見えているのかを理解する(※ タイムトラベルのようなことができない理由を議論する)ということが主軸となりやすい。
これらのすべての理論は、時間の順方向の流れの私たちの主観的な経験に動機付けられている。
確かに、私たちが「時間の流れとして経験している」と思っているものへの依存は深く、哲学者たちの中には、時間は自明な公理だといる考えを持つ人たちも多い。
例えば、当誌サイエンティフィック・アメリカンの科学ライターであるスーザン・シュナイダー(Susan Schneider)は、時間の流れは経験に固有のものであると主張している。
彼女によれば、「時代を超越した経験というのは無謀」だ。
さて、私たちは実際に時間の流れを経験しているのだろうか?
私たちの日常では確かにそのように見える、あるいは感じるものを経験している。しかし、この経験を慎重に調べると、正確に「流れ」と記述できるものをそこに見出すことはできるだろうか?
「経験的な時間の流れ」というのは、過去、現在、未来に経験がある場合にのみ存在し得る。
しかし、過去というものはどこにあるのだろうか?
過去というものが、どこか他の場所に存在しているとでもいうのだろうか。
誰か、その「過去の場所」を指摘できる人はいるだろうか。
しかし、それは明らかにそうではない。「過去の場所」などはないわけで、過去という存在を思い起こすことは、あなたや私が記憶に持っているということに依存している。
そして、これらの記憶は、経験している限りにおいてのみ参照することができるものだ。あなたや私の人生全体の過去というのは過去に経験した「記憶」以外のものであることは決してない。
同じ概念は「未来」にも当てはまる。
未来はどこにあるのだろうか?
この世に、未来を指摘して、 「そこに未来がある」と述べることができる人がいるだろうか。
やはり、これもそうではない。未来に対しての私たちの「想像」は、期待や想像力としての今の経験や想像力から生まれたものだ。
(※ 訳者注 / ここでいう「未来」とは、ずっと先のことではなく、「これから私は買い種に行くだろう」というような日常の予測の中での未来のことだと思います)
あなたや私の人生の中で、未来が現在の経験や想像以上のものだったということはないのだ。
しかし、過去と未来が実際には過去と未来において経験していない場合、どのように、そこに経験的な時間の流れが生じるだろうか? どこからどこへと経験的な時間というものは流れているのだろうか?
ここで、「空間の場合」と比較してみよう。
あなたは、砂漠の中にある長くて真っすぐな道路の横に座っている。先を見ると、遠くに山が見える。後ろを見ると、谷が見える。
この山と谷は、あなたがこの空間の中で自分自身がどこにいるのかを認識することを可能にする参照を提供しする。
しかし、別の視点から、たとえば、上空遠くからその風景を見れば、山と谷と、そして道路の横に座っているあなたは、すべて同じ一枚の写真の中に同時に収まる。
これと完全に類似した状況が「時間」についても起こり得るのだ。
今あなたはこの文章を読んでいる。
あなたがそれを読んでいる中で、今日、あなたが歯を磨いたことや、他のいろいろなことを思い出すことができる。そして、あなたは、これを読み終わった後にまた何かをすることを想像することもできる。ベッドに横たわる自分を想像することもできる。
谷と山と道とあなたが同時にあったように、あなたがこの文章を読む前に歯を磨いて、文章を読んだ後にベッドに横たわっているのは、考えの中では時間の流れと考えられるかもしれないが、実際には「同時にあなたの記憶の中に存在している」。
つまり、過去を思い出すことと、現在おこなっていることと、未来におこなうことの想像が、すべて意識的な現在の状態中に同時に存在しているのだ。
問題は、私たちは、「経験的な時間の流れがあること」から、このことを解釈することにある。
つまり、そのような結論は、前方に山があり、後方に谷があり、その中間に、あなたが座っている、あるいは歩いているという「単に自分の中の相対的な意識」で考えているということだ。
他の視点からは、前に山があるわけではないし、後ろに谷があるわけではない。
視点を変えていけば、それらは前でも後ろでもなく、単に同時にそこにすべて存在している。
空間とはそういうものだ。
時間も自分の中の経験的な、相対的な存在だけであるという理由は存在しない。
あなたや私が、時間があると確信している考えを支持しているのは、あなたが、「先ほど、葉を磨いた」という経験の記憶だ。しかし、実際には、あなたが今現在持っているのは、今現在の行動と体験だけなのだ。
過去の時間は、記憶に支配されている。
現在の神経科学は、この時間の流れの観念は、確かに認知による創造物であることを示唆している。
あなたがあなたの過去に戻ることができたとする。
今朝あなたが歯を磨いていた瞬間に戻ってみてほしい。対応する経験的な風景では、現在、ベッドから立ち上がったあなたの記憶と、出勤するために出勤の服装に着替えている姿。
その光景には、あなたの記憶の中では「時間の流れのように」つながっているかもしれない。
しかし、それは記憶であり、もしかすると、「それらは、いわゆる時間の流れではなく、すべて同時に起きていたことだ」だということを否定することができるだろうか。
何しろ、それがあったという証拠は「記憶だけ」なのだ。
時間が進んでいるということ自体が、経験の記憶に依存している。
たとえば、時間は前進しているのか、それとも、時間というのはまったく流れていないのか、あるいは、時間は進んだり戻ったりしているのか、という選択肢があるとしても、結果として、得られる主観的な経験はすべて同じとなる。
時間が進んでいても、朝起きてから出勤するまでの時間の流れは「記憶として思い出される」。
仮に、時間が存在していないとしても、やはり、朝起きてから出勤するまでの時間の流れは「記憶として思い出される」ので、どちらも同じだ。
実際のところは、経験的な風景の記憶だけに基づく単なる認知的な部分だけでも、一般的には、「時間は存在している」ということを、人々に説得することは十分だろう。
しかし、このように客観的に考えると、現時点では、時間の流れの経験は、これらのように幻想であるといえる。
私たちが今までに経験してきたことは、自分から見て体験した現在の光景だ。
これは、砂漠の山と谷と自分の関係と似ている。遠くからその光景を見た「現実」は、あなたの中には記憶として残らない。
物理学と哲学に対するこの意味は深遠だといえる。
確かに、時間と経験と「現実の本質との関係」は、今回現在取り上げたものとは大きく異なる可能性はある。それでも、現実の理解を深めるためには、時間の経験についての大切な前提を改める必要があるはずだ。
ここまでです。
では、続けざまになりますが、2009年のウェブボットの主筆であるクリフ・ハイの巻末エッセイからの抜粋を掲載して締めたいと思います。
ここでクリフ・ハイの言っている
「われわれが生きる一瞬一瞬の時間の質が最近まったく変化してきている」
ということが極限まで進行すると、私たちを取り巻く物理的な時間という存在は「壊滅する」のではないかと私は思っています。
なお、ここにも、カイロス(定義のない時間)とクロノス(いわゆる時間)という言葉が出てきますが、これは覚えにくいもので、私は以下のように覚えています。
自在で曖昧な時間の観念であるカイロスは……エジプトに来て、現地のエジプト人に「ここはどこ?」と聞いた時に「うーん、カイロっすかね」と曖昧に言われるというように覚えております(むしろ覚えにくいわ)。
現在の時刻と同じ意味のクロノスのほうは、調味料の開発者が長年かけて開発した酢を発表する時に、「これは 10年の歳月をかけた苦労の酢なのです」というように覚えています(もうええわ)。
ともかく、ここからクリス・ハイのエッセイです。
2009年7月20日のクリフ・ハイのエッセイより
「いま」という瞬間に生きるとはどういうことであろうか?
それは時間が「いま」という一瞬に圧縮されることを意味している。
確かに、時計が刻む時間は物理的に一定であり、これが変化することはないかもしれない。 だが、われわれが生きる一瞬一瞬の時間の質が最近まったく変化してきていることに気づいているだろうか?
いま一瞬の時間は、われわれがかつて経験したことがないほど濃密になり、圧縮されたものとなってきている。
古代ギリシャでは時計が刻む日常的な時間の「クロノス」と、なにか特別なことが起こる「カイロス」という 2つの時間概念をもっていた。
いずれ、われわれすべてが「カイロス」の時間をともに生きることになる。
おそらくこれは可能性の高い予測として成立するだろう。
これは人間自身が望んだものではなく、宇宙が人間に経験することを迫っているものなのだ。
われわれすべてに「カイロス」のときが迫っている。
そして、その体験を声にして表現することが今求められているのだと思う。