「私にはもはや自分の心がない。自分の考えすらない。ここまでいろいろやってきたが、私にはもはや何も残されていないのだ」 (1958年9月 ヴィクトル・シャウベルガー)
馬鹿馬鹿しい世の中を作り出した「水平感染」重視の知性
今はお盆ということらしくて、しかし、今年は帰省したり、旅行したりという人たちが少なかったせいか、街にもかなり人がいるのですけれど、今日(8月11日)の関東はとても暑くてですね。
私は基本的には、一日に 1〜2時間くらい散歩というか歩くのですけれど、 7月があまりにも雨ばかりで、傘をさしての外出が多かったものですから、梅雨が明けたら、「暑くても歩く」と思っていました。
何しろ、「日光 = ビタミンD」というビタミンD信仰が強いですので、この病気の時代は「とにかく太陽だ」と。
本当なら、ふだんはあまり太陽光が当たらないような、たとえばチンチンとか(いい加減にしろ)、そういうところにも太陽光を当ててあげたいくらいなんですが、そこを大人の理性でグッと抑え、お尻だけ丸出しで外出しました(全体的にいい加減にしろ)。
時間的には午前 11時くらいでしたが、「なんかすっごーい」と声に出したほど外は暑い日でした。
昨日なども暑かったですが、それでも、昨日(8月10日)までは何とかなったんですよ。木陰なら、風を涼しく感じられるくらいの。
しかし、今日は別格で、20分くらい炎天下を歩いていると、ふいにクラッとくるばかりか、吐き気さえしてくるほどで、具体的な気温はわからないですけれど、35℃以上は確実というような。
まあしかし、同時に、
「これだけ狂気的な暑さだと、さすがに皆さんもマスクを外して……」
と街中を眺めてみれば、みんなマスクをしている。
概算で、大人の95パーセントくらいですかね。
その中に、かなりの高齢の男性で、フラフラと歩きながら、もう目の焦点とかあまり合っていないような感じで、フラ……フラ……と前に進んでいる方がいらっしゃる。
いつ倒れても不思議ではない状態なんです。
「じいさん、さすがにそれは…」
と思うのですが、今の時代のすごいところは、そんな今にも倒れそうなご老人に対して「マスクを外したほうがいい」という言葉が「親切にあたらない可能性がある」という異常性なのです。
しかし、どう見ても、おじいさんの表情は辛そうで悲しそうで、しかし、どうにも助言することもできない。
「 70年間か 80年間かわからないけれど、長く生きてきて、人生の最後のほうでこんなにツライ思いをするのか……」
と思うと、何とも切ないものがありますが、「間違っていることを間違っていると言えない世界」というのはすごいなと。
冒頭に抜粋しました、「私にはもはや自分の心がない」から始まる言葉は、自然に対しての観察力で大変に偉大な自然家だったオーストリアのヴィクトル・シャウベルガーさんという方の亡くなる前の言葉ですが、この方は、
「水が記憶を持っている」
ということを、知識からではなく「観察から発見した」ような人らしいのですけれど、最後はこのように失意の中で人生を終えたようです。
この人の存在を知ったのは数日前で、メルマガの読者様が教えてくださったのですが、『自然は脈動する: ヴィクトル・シャウベルガーの驚くべき洞察』という本のことを知り、最近購入したものです。
アリック・バーソロミューという方が書いたものですが、その序章は以下のように始まっていました。
『自然は脈動する』序章より
「私にはもはや自分の心がない。自分の考えすらない。ここまでいろいろやってきたが、私にはもはや何も残されていないのだ」
これはオーストリアの自然主義者であるヴィクトル・シャウベルガーの言葉である。彼は、エネルギーレベルで自然がどのように作用しているかを私たちがまったく知らないがために地球環境の神聖性が奪われていることを示すために、一生を捧げたエコ・テクノロジー(自然と調和する技術)の先駆者だった。
彼は、人類、自然を意のままにしようとするのではなく、謙虚な心で自然を探究し、学ぶことから始めるべきであるという信条を持っていたが、これは世の中には受け入れられにくいものだった。
私たちがエネルギーを生産し、消費する方法は、人類の将来を危機に追いやってしまっている。ヴイクトルがめざしたのは、非効率で汚染を生み出す中央主権的なエネルギー資源と動力源に頼らざるを得ない状態から人々を解放することであった。
ヴィクトルは悪夢のような厳しい追及に疲れ切り、テキサスから故郷へ戻る飛行機の中で息子のヴァルターに悩みを伝えていた。自ら開発していた新エネルギー、浮揚力、燃料不要の飛行法が可能であるめことを実証する装置の秘密を引き出そうと詰問されていたのだ。
その五日後の1958年9月25日、彼はオーストリアのリンツで失意のうちに生涯を閉じる。父子は、おそらくCIAと原子力発電関係者がからんだアメリカの「コンソーシアム」(共同事業体)が立案した、野心的だが問題のある計画に携わっていた。
この方は、たとえば、
「 生命としての水には、誕生から成熟を経て死にいたるサイクルがある」
みたいなことを見出していて、そこから「地球に汚染をもたらさないエネルギー文明」を作ることができる能力があったようなんですけど、最後は失意で終わるというように「近現代」というのはそういう時代なんですよね。
しかし、いろいろな偉人賢人たちの軌跡を見ていると、みんなほとんど「自分の説は絶対的に正しい」という確信があるせいもあるのでしょうが、
「絶対に自分の意志を曲げない」
人が多いです。
私自身は、この世で科学者という仕事を冠としていた中で、最も優秀だと思っている人のひとりに、英国のフレッド・ホイル博士がいます。
ホイルさんの生涯について、アメリカの著名な理論物理学者ミチオ・カクさんは、『パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ』という著作の中で宇宙論の歴史を述べる部分で、ホイル博士の生涯について述べているのですが、たとえば若い時の話として以下のように記しています。
ミチオ・カク著『パラレル・ワールド』より
ホイルは子どもの頃から反骨精神にあふれていた。
三歳で九九の表を覚えてしまっていたので、先生からローマ数字を覚えるように言われたことがあった。「8をわざわざ Ⅷ と書くなんて、ばかばかしくてしょうがないじゃないか」とホイルは鼻で笑いながら思い出している。一方で、法律にしたがって学校に行かなければならないと言われたときのことは、こう書いている。
「不幸にも、強大でろくでもない『法律』とかいう獰猛な怪物が支配する世界に生まれついてしまったのだとあきらめた」
権威を見下すホイルの態度は、別の女の先生との諍いで揺るぎないものとなる。その先生は授業で、ある花びらの数が五枚だと言った。先生が間違っていることを示そうと、ホイルはその花で花びらが六枚あるものを学校へ持っていった。
すると、生意気さにかちんときた先生は、彼の左の耳を強くひっぱたいたのである(のちにホイルはその耳が聞こえなくなっている)。
私はこの下りを見て、
「何だか自分と似ているなあ」
と思いました。
もちろん、私はホイル博士のように頭が良くはなく、本当の馬鹿で、そちらのほうの話ではなく、学校も束縛も権威も大嫌いだというほうの話で、ここに書かれてある、
「不幸にも、強大でろくでもない『法律』とかいう獰猛な怪物が支配する世界に生まれついてしまったのだとあきらめた」
というように、何度「あきらめて」きたか。
ホイル博士はその後の人生もそうでした。
英ケンブリッジ大学で科学者になった後は、ダーウィンの進化論を強く否定し、同時に、ビッグバン理論を強く否定し続けましたが、今の世の中は「主流の権威には勝てない」のです。
思うに、どうやら、正義が勝つことはないのがこの数百年です。
最近のパンデミックの中での、この「奇妙な社会」の様相にも同じようなことを感じます。
ホイル博士と、今のパンデミックと何が関係あるかといいますと、ホイル博士は、「ウイルスは水平感染(病気は人から人にうつる)が主ではない」と主張し続けていたことでした。
微粒子の流れ
冒頭のヴィクトル・シャウベルガーさんや、晩年のフレッド・ホイル博士も、ややそうでしたが、
「世の中に諦めた」
という感じがありまして、私も最近は少しそのような気分で、特に私は専門家ではなくて素人ですので、「もしかすると、本当に無駄な労力を使ってんのかなあ」と思うこともありますが、今のこの気が狂っている対策社会の根幹にある、たとえば、
・ソーシャルディスタンス
とか
・マスク
とか
・三密を避ける
とかいうのは、すべて「水平感染(病気は人から人にうつるのが主)」という観念から来ているのですが、自然環境の流れを見れば、水平感染というのは、感染経路のひとつの「きわめて微視的な」観点であることがわかるのです。
たとえば、「大気の流れ」というものがあります
以下は 8月11日の日本周辺の大気の動きですが、動き自体はどうでもいいです。
重要なこととしては、
「大気というのは地球のとても広い範囲を移動し続けている」
ということ。
そして、
「大気というのは常に微粒子を運んでいる」
ということです。
例えば、以前は PM2.5 というような微細粒子が中国からやってくることについて、よく報じられていたりしました。
その PM 2.5 は何に乗ってやってくるかというと、「大気の流れ」です。
そして、PM 2.5だけではなく、自動車の排気ガスなどを含む、あらゆる微粒子は、大気あるいはもっと単純に「風」に乗って移動しています。
「小さな物質が大きな物質に付着して移動する」
というのは、考え方の根本として当然のことなんですが、そもそも、たとえば、今は多くの人がマスクとかしていますけれど、「ウイルスの大きさ」をどれだけの人がわかっているのかとも思います。
下は一例で、種類によって多少は異なりますけれど、ウイルスというのは、一般的には、こんなに小さなものなんですよ。
それで、 PM 2.5や排気ガスなどにある微細物質などが、広範囲にあるあらゆる地域に広がることはご存じかと思いますが、例えば新型コロナウイルスは、こういう大気に乗る微粒子をどのように利用するかというと、以下は、4月24日の英ガーディアンの記事の翻訳です。
新型コロナウイルスが大気中の物質の粒子から検出された
イタリア・ボローニャ大学の科学者たちは、イタリアの都市と工業用地で屋外の大気汚染サンプルを収集し、複数のサンプルから新型コロナウイルスの遺伝子を特定した。
他の 2つの研究もまた、大気汚染粒子が新型コロナウイルスの空気中の移動を促進する可能性があることを示唆している。
これらの小さな空中飛沫がコロナウイルス感染を引き起こす可能性があるかどうかは今のところはわからないが、2003年の SARS コロナウイルスが大気中に広がっていたことを専門家たちは知っており、そして、新型コロナウイルスは小さな飛沫中で数時間屋外で生存できることも突き止められている。 (Guardian 2020/04/24)
さらには、以下の記事で取りあげましたが、そのように大気中を物質と共に漂っているウイルスは、水中では何十日も生き続けるのです。
新型コロナウイルスは水中で最大25日間生存する「水媒介ウイルス」でもあることが判明…
In Deep 2020/06/23
大気の流れというのは、地球上のほぼすべてを循環していて、そして、それらは、あらゆる微粒子を運び続けています。
この地球の環境の現実から見れば、仮に人から人への「水平感染」があったとしても、
「それは全体の感染の中のごく一部」
だということです。
感染症は、基本的な感染源としては人から人にうつるものなのではなく、季節や環境や大気の流れの状態に応じて、その地域の人たちにくまなく感染しようとする(もちろん例外はあります)。その感染がなされない、あるいは感染しても発症しないのは、それぞれの人間の免疫の状態と、細胞の健康状態なのだと理解しています。
しかし、ここでは詳しくはふれないですが、いわゆる「クラスター」というようなものが発生する原因として、最近の私の理解の中では、
「 DNA のテレポーテーションと水の記憶」
というものもあります。
これは、ノーベル賞受賞者であるリュック・ モンタニエ博士の実験から思ったことで、まったく一般的な学説とは関係ないものですが、これはまた機会がありましたら、書かせていただくこともあるかもしれません。おそらく「処女懐胎」などとも関係する話となるのかもしれません。
いずれにしましても、
「人が人に病気をうつすという恐怖だけで動かされているこの今の世界」
は、狂気でしかないし、狂気以上にあまりにも無思考だと思います。
なお、ウイルスの直径はおおむね 0.1マイクロメートルなのに対して、一般的なマスクの穴は 5マイクロメートル程度です。
つまりマスクをするという行為は、「 50メートルの穴を 1メートルのものが通過することを阻止できるか」という話であり、極めて形而上的な話です。
こんなアバンギャルドな世界が実現しているのが今の現実です。
このように、社会は完全な誤解と間違った見識の中で絶望的なことになってはいますが、まあしかし、私自身は、冒頭のヴィクトル・シャウベルガーさんのように失意の中で死ぬよりは、最後はどこかのお花畑で楽しく死のうかなという程度の楽観思想はあります。
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