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34年ぶりの「ちょっとの雨ならがまん」の文字に脱力しながら、マイノリティからもアンダーグラウンドからも自由の文字が消えた世界に生きていることに云々

投稿日:2018年9月19日 更新日:


9月16日 米アリゾナ州の太陽とダストデビル fobosplanet

今日はどうしても In Deep の通常の記事を書き上げることができなくて、だったら何もアップしなきゃいいわけなんですけれど、何かを書いては「ふーっ」と力が抜けるようなため息モードの日だったりしました。

キッカケとしては、30年以上前に公開されていて、その後いっさい公開がされないまま現在に至っている 8mmで撮影された音楽系ドキュメンタリー映画が、最近、東京の新宿で公開されていることを2日ほど前に知りまして、その時代と「自分」を思い出して、どうにも脱力に至っています。

映画そのものは、ハードコアパンクというジャンルのドキュメンタリーで、一般には関係のない世界の話なんですが、「ちょっとの雨ならがまん」というタイトルのもので、 1984年頃に公開されたものです。私は 21歳とかそのくらいの時だったんですけれど、ハードコアパンクのライブはたまに行っていたんですが、その頃はそんな映画があることは知らなくて、その存在を知ったのは、それから 10年後くらい後でした。

すでに上映はされておらず、さらにビデオ化も DVD 化も一切されなかったその映画のタイトルを聞くことはもうないのだろうなと思っていました。

それが最近、ふとしたキッカケで、それがこの夏から東京で上映されていると知りました。

来週で上映は終わりらしいですので、今週か来週、都合をつけて一人で行くつもりですけれど、映画そのものはともかく、「 35年前くらい前の自分」ということなどと関連づけて考えているうちに、いろいろなことをする気が消えてしまいそうになり、どうも今日昨日は何もできていません。

私自身は音楽をやっていたわけではないですので、ハードコアパンクを含めた音楽の世界の人々が持つ価値観をあまり知らないですが、自分は二十代のはじめの頃から、おごった言い方ですと「表現」というようなことをしていました。

私がやっていたものの価値観は確かに主流やメジャーの表現の価値観とは関係のないものではあり、サブカルチャーとかカウンターカルチャーとかアンダーグラウンドとか、いろいろな呼ばれ方はしていましたけれど、自分にとってはそれが価値観の中心でしたので、サブでもカウンター(カウンターとはおそらく「反抗、対抗」の意味)でもアンダーグラウンドでもなかったのですよね。

でも、私自身は合理的な感性も普通に持っているので、自分が最も好きなカルチャーや表現の価値観というものが、「一般には受け入れられない」ということも、よくわかって生きてきました。

 

最近はますます窮屈で不寛容な社会になっているのですけれど、私自身の時は、周囲が「不寛容」では何もできない状況なわけで、表現でも何でも、「人と何かをする」には、他人に対して寛容であるというより、

「表現と関係のないプライベートの趣味や性的指向などに構っている場合ではない」

ということはありました。

 

最近の社会で最もイヤだなと思うのは、たとえばマイノリティとして、 LGBT だとか、いろいろな性的指向の人々についてのことがよく言われますけれど、それに対して無理解に言う人間がいるのは別にどうでもいいことです。それは昔から変わらないのですから。

問題は、今の時代は、「そのご本人たち」が、「ノーマルの人たちを非難することによる主張」をおこなうことにより、さらに「区別を社会にばらまいてしまっている」ということで、そして、当人たちはあまりそのことに気づいていないかもしれないということです。

その根は「扇動」にあるのに。

 

美術でも舞台でも何でもいいですが、表現の世界には、いろいろな人たちがいました。

しかし、それぞれ、そんなことは本人も周囲も話に出すことがなかったわけです。なぜなら、中心には「表現」という「やりたいこと」があるから、その目的のために人々が集まっているわけで、プライベートがどんな生き方かは全然関係ないし、むしろ「余計なこと」なのです。

 

しかし、今は、その、性的指向が「本人の証」のようなことになっていて(生きる目的は本来はそこではないのに)、その上で、たとえばメディアは「対立」を煽っている。

 

歴史を見れば、本来は性的な指向の奔放さをもつ人たちは、「自由」を最も大事にしていた人たちだったはずのような気がするのです。

少なくとも対立を煽る側の人間ではなかった。

今の方々も、根本的には「自由」という概念を大事にしたいと思っている気はするのです。しかし現実には(煽られているにしても)自らが「窮屈な括り」を作り上げてしまっているように見えてしまうのです。

 

LGBT にしても、「男性の女性への行動の問題」等にしても、運動などに関わるご当人たちはあまり気づかれていないかもしれないのですが、

「この世で少しずつ進んでいることは何かわかりますか?」

ということを問いたい気はします。

それは、

「そこに触れないのが安全」

という意識が社会の多くの人々に浸透してしまいつつあるということです。

ご存じのように、SNS などのネット媒体でも出版などでも、うかつに何かを書いた人たちは、瞬く間に糾弾され、その場は炎上するということが普通になってきています。

そして、主張する人たちはエスカレートしていくばかり。

このように、世の中が「マイノリティに寄り添って」エスカレートしていくのを見ているうちに、どうなるかというと、多くの人たちに、

「とにかく関わらないこと」

という防御が働き、今の社会ではすでにそれが発動されています。

いくつかの事柄に関しては、仮に何かを思っても、多くの人々は「書かない、言わない」という「完全に沈黙する」という状況が完成しつつあります

これでは、むしろ人々の本心がどんどんわからなくなるだけではないでしょうか。

「書かなければ、言わなければ問題にならない」

どんなことを思っていても、「ふれなければ、それで問題にならない」。

この世に問題発言や書き込みが減ったからといって、それは決して「人々が差別・区別的な意識をもたないようになった」のではありません。

防御本能が世界中の社会全体に広がっているだけです。

 

マイノリティという話題とは関係ないかもしれないですけれど、今日などは、下のようなニュースを見ました。西洋の女性の方々が何かに怒っている。


zerohedge.com

何に対して怒っているのかというと、

「 iPhone は女性の手にはサイズが大きすぎて、性差別的な商品だ」

と。

……。

こうなると、もう何にでも文句をつけられる社会になります。

これはひとつの例ですけれど、こういう商品の問題はともかく、メディアが喧伝し続けている一連の「攻撃」の結果がこれだと思っています。

今のメディアの喧伝の根本にあるのは、

 

「人に他人を憎ませろ」

 

です。どうして、こんなことになってしまったかはわからないですが、ごくたまにテレビニュースを数分見ただけで、それを突きつけられます。

そういえば、先ほど、「ちょっとの雨ならがまん」という映画のタイトルを書きましたが、これは、Gauze(ガーゼ)という日本のハードコアパンクバンドの「戦場」という曲の歌詞の一節です。それで思い出したのですが、この Gauze の曲に下のような歌詞の曲があります。

敵を作れ どんどん作れ
人に憎まれ生きてみろ
誰もが何かを恐れているのが見える GAUZE / PRESSING ON / 1997

 

この曲にありますように、このような状況を作り出している基本は「恐れ」なのかもしれないですが、その恐れは今では「双方」に広がっています。

 

現在のような状況ですと、今後は、マイノリティの人たちへの失言やうかつな書き込みはどんどんと減っていくでしょう。

しかし、それは「良い方に社会が変わった」のではなく、もっと悪い方向に進んでしまっていることをいつか知ることになるのではないでしょうか。

それは、先ほども書きましたが、

「黙殺する」

「関わらない」

「ないものとする」

という社会です。

黙っている限りは糾弾もされなければ、炎上もしない。

さらには、「そういう相手を見えないものとする」というように生きる。

「触れてはいけない話題とキーワード」は、昔からいろいろとありましたが、そこに、LGBTを含むマイノリティの方々という「当事者」たちが新たに加わってきてしまっているということになりつつあるように思えて仕方ありません。

 

本来ならば、マイノリティのような方々こそが(自分の利益・不利益を超えて)公共の真実の自由というものを見出すような立場になっていけるのならば素晴らしかったと思いますけれど、現実は「あらたな禁忌」を作ってしまったというようなことになっているというように私には見えます。

まあ、私ごときの見え方は正しいはずもないでしょうから違うのでしょうが。

 

いろいろなことが「扇動だなあ」と思います。

誰が仕掛けているのかは知らないですし、誰も仕掛けていない自然発生的なものなのかもしれないですが、本人たちが正しいと思ってやっていることが、周囲から冷静にみれば、「その人たちの首をさらに絞めている」ということが今の世の中でどれだけあるか。

 

現在の世の中では、多くの人々は、学校の時代からその体制に忠誠を尽くして生きます。

それは素晴らしいことだと思います。

しかし、いつでも落ちこぼれで、典型的なダメ人間だった私のような人から見える社会の光景はいつでもグロテスクでした。

 

「これはいつか崩壊する」

 

そういう光景にしか見えませんでした。

 

あー・・・何を書いているんだか。

まあしかし、仮に、世の中が段階的にどんどん絶望的になっているとしても、そこに希望を見出すのが人々の本来の役割なのかもしれません。

そして、そういう希望を持っている肯定的な人たちこそ、この世に残すべきであり、私のような肯定的ではない人間は処分されるべきなのかもしれません。

 

くだらない雑談をアップしてしまって申し訳ありません。

とりあえず、金曜か土曜に 35年間待っていた「ちょっとの雨ならがまん」を見に行くつもりです。それで元気になれればいいなと。





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