病んだ社会に適応する必要はない
今回のタイトルの「狂気の社会で正気でいること」というのは、最近見ましたサブスタック記事の小見出しにあったもので、それはジャーナリストのジェームス・コーベット(James Corbett)という方の記事にあったものです。
一部抜粋しますと、以下のように書かれていました。
記事「狂気への反対: サイコパスの投影」より
…あるいは、あなたがたも、世界中の他の何百万人もの人々と同じように、政府が人々を家に閉じ込め、最も貧しい人々を飢えにさらすことを強制する過去 3年間の狂気を見て、私たちの社会の正気を疑問視し始めたのかもしれない。
そして、「公衆衛生」の名の下に何十億人もの人々に医療介入が行われた。
世界がいかに病んで歪んでいるかを実感することで生じるフラストレーションを感じながら、私はしばしばジッドゥ・クリシュナムルティ(インドの宗教的哲人)の有名な見解を思い出した。「深刻に病んだ社会にうまく適応することは健康の尺度ではない」
しかし、しばらくすると、この病んだ社会の狂気にも慣れてしまうことにも気づいた。実際、誰でもそうなり得るだろう。
…もちろん、権力の座にある者たちは、自分たちの目的を達成するために、何千人もの同胞を殺すこと、ましてや中東の数え切れないほどの数百万人を殺すことをためらうことはないだろう。
もちろん、彼らはバイオセキュリティ状態を導くために偽の詐欺をでっち上げるだろうし、もちろんそれは人々の健康を保つこととは何の関係もない。
実際、嘘を見抜き、私たちの社会がどれほど深刻に病んでいるかを理解すると、もうショックを受けるのは大きなことではないことがわかる。それは些細なことになってしまう。
ここまでです。
実は、この方は日本に暮らしていて、記事の本題は、「日本での SDG s の日常への浸透に見る狂気」を書いているのですが、そのあたりはいろいろと解釈もあるでしょうし、ふれないですが、日本に住む海外の人の中の一部には、
「日本に大変な狂気が静かに浸透しつつある状況」
が見えるようです。
私はパンデミックが始まった頃、多くの人たちがマスクをし始めた光景を見て、「ああ、狂ってきてるんだなあ」と思い続けていて、そして、今でも結構な数の人たちがマスクをしています。
もはや「何のために何をしているのか」は考慮の中にない。
今なら、麻疹や梅毒をマスクで防ぐとか?
2020年の頃は、日本だけではなかったですけれど。
2020年8月 観客席に写真の看板を立てて試合を開催したメジャーリーグ
この写真を載せたブログ記事「果てしなく狂気に陥っていく世界」は、日本で最初か次あたりの緊急事態宣言の頃の 4年前の 8月のものですが、以下のように書いています。
2020年8月13日の In Deep より
現実的に、ここに来て、もう「狂気」としか言いようのないルールや出来事が次々と起きていまして、若い頃に、モンティパイソンの不条理や、数々のディストピア映画を見てきた私も、
「少しついていけなくなっている(苦笑)」
と思うことが多くなりました。
でも、先ほどのジェームス・コーベットさんの書かれているように、
> しかし、しばらくすると、この病んだ社会の狂気にも慣れてしまうことにも気づいた。実際、誰でもそうなり得るだろう。
ということでもあるのですよ。
こんな出で立ちのウェイトレスが出現しても驚かなくなった(笑)。
2020年8月頃、米メイン州の知事が全レストランに「犬と同じ接客フェイスガード」を要請
indeep.jp
なお、このときに通達されたことは、この犬用のフェイスガードを使用すると共に、
「呼吸は上を向いて行うこと」
という通達がメイン州知事から出されていました(苦笑)。
今こんなことを聞くと、「ムチャクチャだ」と感じられるかもしれないですが、
「当時の観念でもムチャクチャだった」
のです。
だから記事にしたくなったのだと思います。単に狂ってる。
こういう 2020年の狂気のディストピアの光景は、当時あまりにも多く見ましたが、
「社会全体として、それを狂気だと思っていなかったことこそが、狂気」
でした。
どんどん世界が狂っていく感覚を 2020年から、そして、2021年からは、ジェームス・コーベットさんの言う「公衆衛生の名の下に何十億人もの人々に医療介入が行われた」(つまり、ワクチンですが)中で持ち続けたわけですけれど、あれも同じ世界でした。
フグ毒にあたらないためにフグ毒を打つ、というようなたぐいの狂気。
まあしかし…。
確かに狂気にも慣れてくるのですよ。
そこで、先ほどのジェームス・コーベットさんが引用していた、ジッドゥ・クリシュナムルティさんという方の
「深刻に病んだ社会にうまく適応することは健康の尺度ではない」
という言葉が沁みましたね。
よく存じない方ですが、Wikipedia には以下のように書かれてあります。
ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895年 - 1986年)は、インド生まれの宗教的哲人、精神教師、教育者、神秘家、ヨーギー、精神世界の著作家。
すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つと考え、人は組織、信条、教義、聖職者、儀式等によって真理に到達することはできず、ただ自己認識によってのみ真理を見出すことができると説いた。あらゆる伝統を否定したが…
…真理を見出すためには個人的な感情と経験が最も重要であると考え、「永遠の目的」に達するには、権威に頼らず、何も恐れずに自身を導き、自分で理解しなければなければならないと考えた。
彼は、人は全く独力で、個人の努力で真理にたどり着けると考え、言葉の中に偶像を認めず、伝統や権威を激しく攻撃し、天の観念にすら反発し、いかなる信仰も歴史ある伝統も道徳も、命を縛ってしまうとして否定した。
「いかなる信仰も歴史ある伝統も道徳も」否定したというのは、かなり格好いいですね。「いかなる」というのは、なかなかできない。
ただ、このような名言も「歴史ある伝統」の中にいつかは含まれていき、「その概念自体がすべて否定される概念となっていく」ということが避けられないあたりが、この類の思想のひとつの大きな苦難なのかもしれません。
すべて否定するというのは、自らの主張も否定されることを覚悟しなければならないわけですから。
それでも、「天の観念にすら反発し」とか、なんかパンクな考え方で、カッケーですね(だんだん言葉遣いがボロボロになってきてるぞ)。
また、以下のようなことも述べていたとのこと。
「クリシュナムルティは、人間が単なる環境の産物だともしないが、何か神聖なもの、永遠なものであるとも考えなかった」
「しかし、ある条件下において、最高実在が有限になり我と一致するとした。実在は意識や自我意識を超えたものであり、唯一の最高実在は真理であり、生命であると考えた。その発見は、経験であり、合一であり、真の幸福であるとした」
このあたりになると、ちょっとわかりにくいですが。
まあ、結局言いたいこととして、この人から知るのは、
「病んだ社会に適応する必要なんてねーんだよな」
という認識なのかもしれません。
考えてみれば、生まれてから、ほとんど「社会に適応してこなかった」のが私の人生でしたので、今はピュアに狂気かもしれないですが、かつての社会も十分に狂気だったような気はします。
自由の暴走という狂気
何だかよくわからない単なる雑談となっていますが、あまり関係ない話として、少し前のメルマガで、「暴力の増加の理由」というものにふれたことがありました。
その最大の要因が、「 1762年にルソーが出版した『社会契約論』の中にある」と作家のコリン・ウィルソンが書いていた部分などを引用したものですが、現在の狂気のひとつに、
「自由の履き違え」
というものがありまして、これはさらに社会の苦痛と暴力と精神的疾患を増加させるはずです。その部分を引用して締めさせていただきます。
4月5日のメルマガ「悪魔の彗星が爆発した日に考える現代版の預金封鎖」より抜粋
今日、フィンランドの記事を翻訳していたんです。
フィンランドでは、3日前に、
「12歳の子どもが 12歳の子どもを銃撃する」
ということが起きました。以下で翻訳しています。
・フィンランドの学校で12歳の少年が銃の乱射。児童1人が死亡
BDW 2024年4月3日
その後のフィンランドの主要なメディアでは、「子どもの暴力」について「なぜフィンランドでは子どもの暴力が増えているのか」という社説的な記事が多くなっています。
ある記事には、以下のようにありまして、フィンランドの子どもの暴力は近年圧倒的に増加しているようです。
> フィンランド警察が 2022年に発表した報告書によると、
> 15歳未満による暴力犯罪の件数が近年大幅に増加している。
それで、記事では、最近の子どもの暴力事件の増加のひとつの要因として、「ソーシャルメディア」を挙げています。
抜粋しますと、以下のように書かれています。
フィンランドの報道より
ペッカリネン長官によると、現時点でフィンランドの子どもたちが特に暴力的で危険であるということは事実ではないという。
しかし、何かが変わった。暴力行為が撮影され、それがソーシャルメディアで拡散されると、暴力は見世物となる。
学校への襲撃では、その行動は多くの場合、可能な限り多くの聴衆を集め、衝撃的な効果をもたらすことを目的としており、それによって何らかの形で加害者の注意を浴びたい必要性が満たされるとペッカリネン氏は説明する。
ここまでです。
つまり、暴力行為などを撮影して SNS に投稿する場合、注目を集めるために「暴力が派手になりやすい」と。
かつて、日本でも、飲食店でのイタズラとか、バイトテロだとかいわれるような行為とかありましたけれど、あれらを考えると、「注目を集めたい」という(愚かな話ですが)動機から物事が通常より派手になりやすいのはあるのかもしれません。
しかしですね。
異常な暴力の蔓延の「本当の理由」は、そういうところにだけあるのではないとも思います。
以前、ブログで、コリン・ウィルソンの『現代殺人百科』 (1983年)という本についてふれたことがありました。
・自由を履き違えた魔術的思考が世界中に拡大する中、対立と憎悪と暴力の時代は今始まったばかり
In Deep 2020年10月28日
ここで、前書きに書かれてある、アメリカのある出来事についてふれています。40年前の出来事です。
『現代殺人百科』 より
1982年2月10日、一人の人物がシカゴの薬局に入ってきて、タイレノール(アセトアミノフェン)という鎮痛剤のビンに青酸カリが入ったカプセルを混入し、どこかに消えた。
最初の犠牲者は 12歳の女の子だった。
数日のうちに死者は 7人になった。
それから一週間後、中年の男がコロラド州グランド・ジャンクションで目薬を買った。その一滴を目に落として、彼は苦悶にのたうちまわった。だれかが塩酸と中味をすりかえたのだ。
最初の事件から数週間以内に、これをまねした事件が全米で百件以上も起きた。
ここまでです。
このようなことについて、コリン・ウィルソンは、以下のように述べています。
> (1960年代以降の)文明世界の暴力のパターンには目立った変化が見られる。
> 動機のない凶暴性を特徴とする犯罪がますます増加の傾向にある。理解を越えた、背筋の寒くなるような変化である。
40年前にはこの「理解を越えた、背筋の寒くなるような変化」は、すでに起きていたようなのです。
それが今はさらに進んだということなのかもしれないですが、コリン・ウイルソンは、このようなことになった責任を、1762年にルソーが出版した『社会契約論』の中にある、「人間は自由な人間として生まれている」という言葉にあると述べました。
私も実はおおむね、そう考えているのです。
コリン・ウィルソン『現代殺人百科』 より
自由は責任と規律がなくても存在できるという思想を広めたのはルソーだが、この問題の責任の大半はこのルソーにある。
1951年、アルベール・カミュは著作『反抗的人間』で、サドからカール・マルクスやレーニンにいたるすべての反抗の哲学は、圧政と自由の破壊を招いたとする強力な宣言を時代に投げつけた。
これは、左翼に怒りの渦を巻き起こした。
カミュの死後、彼の正しさは現実に証明されるところとなった。自由の哲学は国際的テロリズムの正当化の根拠となった。
イタリアのテロリストは大学の教室に押し入って、教授の脚を銃で撃ち、この教授は基本的に非道徳的な社会に適合することを学生に吹聴した罪があるとうそぶいた。チャールズ・マンソンは、自分の追随者は「兄弟愛」から殺人をおかしたと法廷で広言した。
これが自由の哲学の帰結である。
自由の哲学が狂気に走った例である。
満ちてくる潮のように暴力が社会にのさばる。
常に自由を云々してその正当化を求める。
ここまでです。
そして、今、つまり 2020年頃からの世界ですが、この、
「常に自由を云々してその正当化を求める」
ということの「第二弾」に入っているのだと気づきます。
具体的には書かないですが、人種の問題、性差の問題などが、まさに
「自由の哲学が狂気に走る」
という真っ只中にいるのだなあと。
ですので、「暴力はさらに拡大する」と確信できます。
しかも、かつてないようなタイプの暴力です。
この「かつてないようなタイプ」の「タイプ」という概念は、暴力行為そのもののタイプではなく、
「暴力が起こる要因や原因が、かつてないようなタイプになる」
ということです。
21世紀に入ってあからさまに、「かつてないようなタイプ」の暴力を非常に多く見るようになりました。
今後さらに拡大するように思います。それに加えて、暴力行為のタイプそのものも、太陽活動が増大し続けている中で、激しくなると思っています。過去の記録や歴史は「太陽活動が増加すると、人間の命の価値が低くなる」ことを示しています。
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