昨日、鼻から正体の知れない液体のようなものがスーッと流れてきていることに気づき、「こ……これは……まさか、オーストラリアで大流行している体内が溶けていってしまうというあの恐ろしい細菌による……」とアセッていると、通りかかった子どもが、
「それは単なる風邪の鼻水じゃね?」
とひとこと述べて部屋の奥へと去っていきました。
「……ああ……鼻水」と感じ入っていましたら、そのままいわゆる風邪のようなことになりました。
鼻水という現象も忘れるほど風邪を引いていなかったようですが、最近は風邪を引いた時には、ブログに少し書いていることが多いですので、遡ってみましたら、2017年2月の下の記事にそれが書かれてありました。
・「悪霊を隠す巫者」 : ウイルスが導いてくれた「医」の意味
In Deep 2017/02/24
大体1年ちょっと前という感じですかね。
私はもともと春に体もメンタルも崩壊しやすい人で、それも「桜の咲く頃」が、若い時から最もいろいろと起きやすい時でした。パニック障害をはじめて発症したのも 21歳の春の桜が満開の時だったことを憶えています。もうあれから 7年も経つということになります(あんたは二十代かよ)。
まあまあ、私の年齢はどうでもいいのですが、思えば、私が「基本的に薬や病院と関わらない生活を始めたキッカケ」となったのも、2015年の桜の季節に「日常生活がままならないほどのめまい」に見舞われたことによるものでした。
その際、あらためて「治してもらうために病院に行くことの無意味さ」を心底知らされた感があります。耳鼻咽喉科はおそろしいほど何の役にも立たず、脳神経外科なども同様で、もちろん(現在の医学でも)めまいに効く薬などありません(効いている人がいるとすれば、それは、ほぼ 100%プラシーボ効果です)。
しかし、その頃から「人は何のために病院に行ったり、薬をもらったりしているのだろう」と本気で考えるようになったという意味で、あれらの本当に死ぬほど役に立たなかった病院やそのお医者様方には今でも大変感謝しています。
あれで変に治っていたら、そんなことを考えることにならなかったでしょうから。
「西洋医学との決別」への門を開けてくれた素晴らしいお医者様たちでした。
私は幼少時にとても体が弱く、かなり小さな時から病院のお世話にはずいぶんとなっていました。
それらに関しましては、以下の記事に書いたことがあります。
・人間にとって最も日常的で慈悲深い治療者は「風邪ウイルス」かもしれないこと。そして、薬漬け幼児だった私がその後の十数年経験した「免疫回復戦争」の地獄体験記
In Deep 2015/04/21
この記事にありますが、生まれて比較的早い時期から小児ぜんそくだった私は、小さな頃より相当強い薬が処方され続けていたと思われ、ぜんそくは小学生の時に治ったのですが、その後長く体の免疫が異常に弱い人間となりました(基本的には今も弱い)。
これに関しては、最近になって、「長期間の抗生物質的なものの投与により、腸内で私と共生していた細菌たちが大量に死滅した」こともあっただろうと最近の自分の研究でわかりましたけれど、このこと、つまり、
「人間の腸内の有用な細菌がどのようにして日々殺され続けているか」
ということは大変大きな問題でもあり、近いうちに書きたいと思います。世界に肥満が蔓延している理由もこれと関係があります。
そして現代社会では、「これは、もはや生活の中では逃れることのできない状況」ともなっています。
しかし、それはともかく、そんなわけで、薬とか医者とかとは幼い頃からずいぶんと長い付き合いだったわけです。それで、二十代の頃からはベンゾジアゼピン系の抗不安剤も加わります。
それが、50歳を越えたあたりで唐突にそれら「いわゆる薬」との付き合いを基本的にやめてしまったということになりました(あ、年齢書いちゃった >__< )。
そのキッカケを作ってくれたのが、先ほど書きました「めまい」という症状であり、そして「病院ではそれが治らなかった」ことによるものでした。
それらがあったからこそ、「考える」ようになったわけです。
確かに、激しいめまいは、なかなか大変なものなのですけれど、そのくらい強い「苦痛」にさらされないと、私などのようなボーッとした人間は「考えない」のです。
おそらく、薬のことにしても病院の治療のことについても、大した考えずに生き続けていたと思います。
結果、その頃から「病院も薬も病気は治さない」と知ることになり、「めまいは自分だけで治そう」とコツコツといろいろ始めました。
めまいを治すには確か半年では足りず、1年以上はかかったと思いますが、基本的はに治りました。今でも桜の季節には、たまにフラッとすることもありますけれど、その程度です。
いずれにしても、そういう意味で、あの強烈なめまい(とお医者様方)には感謝しています。
さて、今、
> めまいに感謝しています。
というような、「ポジティブな思考」のような言葉が出ました。
風邪も引いている時でもありますし、このことについて、少し書かせていただこうかと思います。
ポジティブ思考がとても危険である理由
別に難しいことを書こうとしているわけではないのですが、これは以前からずっと思っていたことでもあり、それはいろいろな「実例」や、医学論文や、あるいは、いくつかの著作などにふれることでどんどん確信に変わってきています。
最初に自分で「ふと」気づいたのは、記事としては 2016年の以下の記事に遡りますが、それを書いて見直している時に感じた「記事の中でぶつかるものが存在しているような違和感」でした。
この記事では、アメリカの医師で「緊張性筋炎症候群(TMS)」の研究者であるジョン.E.サーノ博士の著作についてふれています。はっきりいえば、このイーノ博士の2冊の著作『ヒーリング・バックペイン: 腰痛・肩こりの原因と治療』と『心はなぜ腰痛を選ぶのか ― サーノ博士の心身症治療プログラム』は、健康に関しての考え方の私にとっての「分岐点」でだったともいえます。
「症状と心の問題」というものを曖昧ではなく、科学的・医学的に知りたいと思われている方にはとてもいいものだと思います。ただし、大変時間がかることはあると思います。
それでまあ、この著作もそうですが、「人が症状に対峙する場合に何が最も重要なことか」ということは、実はとてもはっきりしているのです。
それは、
「現実から目を背けず、そして自分の心からも眼を背けず、それらを直視する」
ことなのです。
先ほど、「ポジティブ思考」は良くないというようなことを書きましたけれど、起きている現実と、そして自分の心を「直視」しているのなら、それはポジティブであっても悪いことではありません。
しかし、現実としてこの世で言われている「ポジティブ思考」は、「現実からも、自分の本心からも目を背けて、イヤなことを考えることを避けているだけではないのか」と思うことがあるのです。
ふだんの生活ではそれでもいいのかもしれませんが、病気の場合は・・・。
たとえば・・・自分ではうまく例えができないですので、また本から抜粋させていただきますが、カナダのガボーテ・マテという医師が今から 15年くらい前に記した『身体が「ノー」と言うとき ― 抑圧された感情の代価』という本の中の「ネガティブ思考の力」という章から以下の部分をご紹介させていただこうと思います。
ガボール・マテ著『身体が「ノー」と言うとき ― 抑圧された感情の代価』(2003年)より
健康への道をたどる第一歩は、いわゆるポジティブな考え方に固執しないことである。
私は緩和ケアの仕事をしていたときに、がんにかかったことに当惑し、しょんぼりしている人を嫌というほど見てきた。「私はいつもポジティブな気持ちでいたんですよ」と四十代後半のある男性は私に言ったものだ。
「悲観的な気持ちになったことは一度もない。なのにどうして、私ががんにかからなければいけないんでしょう」
救いがたい楽観主義への薬として、私はネガティブ思考の効用を勧めてきた。(略)「私が本当に役立つと信じているのは”思考”の力です」。
”思考”という言葉に「ポジティブ」という形容詞をつけたとたん、現実のうちの「ネガティブ」だと思われる部分は排除されてしまう。これはポジティブ思考を信じる人のほとんどに見られる現象である。
本当のポジティブ思考は、あらゆる現実を認めるところから始まる。そこにいたるには、たとえどんな真実が出てこようとそれを直視できるという、自分に対する信頼感が必要なのである。
無理やり楽観主義になろうとするのは、不安に直面しないために不安を封じ込めるひとつの方法である。その種のポジティブ思考は、傷ついた子どもが身につける対処パターンである。それに気づかず、傷ついたまま大人になった人は、子どものころの自己防衛手段のなごりを一生持ち続けることになる。
病気は一対一になったふたつの問題を突きつける。ひとつは、その病気は過去と現在について何を語ろうとしているのかということ。もうひとつはこれから先、何が助けになるのかということである。
多くの取り組みは、治療にかかわる一対の問いの後者にだけ目を向け、そもそも何が病気をもたらしたのかをろくに考えようとしない。本や雑誌、テレビやラジオにも、そのような「ポジティブ」思考の勧めは数多く見られる。
しかし、治療のためにはネガティブに考える勇気を奮い起こさなければならない。
この前後も含めて、この著作には非常に納得できることが書かれてあるのですけれど、「ポジティブ思考」がなぜ良くないかというのは、その多くが、
「現実を直視しないようになるから」
です。
これは現在では、患者本人にも治療者(主に医者)にもどちらにも言えるかと思います。
つまり、「原因(自分の心や人間関係、家族関係など)を考え尽くすことはせずに、ただ治しましょう」と。
上に抜粋したガボーテ・マテ医師の文章の中に、
> 多くの取り組みは、治療にかかわる一対の問いの後者にだけ目を向け
とある部分はわかりにくいかと思いますが、簡単に書きますと、
「患者も医者も『どう治しましょうか』ということだけを考えて、『なぜこのようになったか』を考えない」
ということです。
まあ、現実的に考えて、お医者さんがわざわざ「どうして、あなたはこのように(この病気や症状に)なったか」を考えることはないでしょうから、治療のほうはともかく、「原因」を考えられるのは病気になった本人だけだと思うのです。
ところが、ポジティブ思考は、悪いところを蒸し返さないので、「それをしなくなる」のです。
良い部分だけを見て悪い部分を考えないようにしていると、「病気になった自分の中の本質の部分」は決して見えてこないはずです。
何しろ、すでに「病気」という形でポジティブではないものが噴出しているわけです。それをどうポジティブだけで解決できるというのか。
これはたとえば・・・さすがに具体的な例を出すことはできませんが、これまで、数多くの著名人や有名人の方が、たとえばガンのような重い病気になったことが、頻繁に報じられます。
治った方もいれば、治らなかった方もいます。再発を繰り返す方もいます。
そういう方々の中で、病気になっても「自分に対していつもポジティブに」考えていた人たちの、
・生存率
・再発率
はどうだったかという話も、個人的に調べていたことがあります。
自分の病気に対して、「根拠のない前向きさ」をもったり、「いつも明るい態度で周囲に振る舞っていたり」、「根拠のない希望を持っていたり」するようなポジティブな思考だった方々の多くがどのようになったか。
まあ、しかし実際の例はともかくとして、今の世の中では「ポジティブ思考」というのが、ともすれば、「自分のイヤな部分」を見ないで生きるということと置き換わってしまっているような気がするのです。
最初のほうに例にあげたサーノ博士は、自分の潜在意識に痛みや症状の原因があるということを医学的メカニズムと共に説明しているのですが、しかし、その原因を自分で探り出す行為は「とても苦しい」ものです。
なので、誰でもそれはイヤなのです。自分で考えたくもない「心の奥に仕舞ったままにしておきたい部分」を蒸し返すことは。
しかし、たいていは、その「見たくない自分の心」が病気や症状の原因の一端となっているということには、今では完全にそれを否定できる医学者はいません。
さきほどリンクしました 2016年の過去記事、
の中に、日本で最初のヨガの行者であり、確かな賢人である中村天風さんの語録を抜粋しています。
そこには、以下のようにあります。
中村天風さんの語録より
忘れてはならない私の厳重な注意は、「できるだけ平素、幸福の方面から人生を考えよ」ということである。人が何といおうと、「俺は幸福だ!」 憂いことがあったら、「ああ、楽しい!」 悲しいことがあったら、「ああ、嬉しい!」
こうして心を張り替えてみなさい。
この強烈なポジティブの概念そのものは間違っていないかもしれません。しかし、
> 人が何といおうと、「俺は幸福だ!」 憂いことがあったら、「ああ、楽しい!」 悲しいことがあったら、「ああ、嬉しい!」
の、「憂いこと」「悲しいこと」を「なかったことにしてしてはいけない」ということに最近気づきました。それらの「イヤな心の中のもの」は、確かに「あった」し、「これからも心の中にあり続ける」のです。
これらに対しての直視をしなければ、それは最終的に自分を追い込むことになる材料となって自分の心の中に巣食うはずです。
それは次に「症状」や「病気」として芽吹くというのが、今の最先端の医学のひとつだと私は認識しています。
実際には、食べるものや生活習慣などさほど関係ないと断言してもいいです。
人間の身体のほうに噴出してくるものを作り出しているのは、基本的に「心」です。
原因不明の痛みはもちろん、感染症や皮膚炎でさえも。
そういえば、最初のほうに書きました以下の部分に戻りますが、先ほど、
> めまいに感謝しています。
と書きました。
このような「ポジティブな表現」は、「治る前に言ってはいけない」です。
それはどこかウソになり、自分の心にさらに「見たくないウソの部分を積み重ねる」ことになります。
「ガンに感謝しています」という言葉も同じかと思います。
これについては、以前、『幸せはガンがくれた:心が治した12人の記録』という著作などについてふれた、
・ 無視され続けたガンの自然退縮に見る「病気を治せるのは自分だけ」という真実と「言葉の重要性」
In Deep 2015/08/07
など何度か取りあげたことがあります。
ちょっと混沌としてきましたが、ふと思えば、私自身も風邪を引いていたことを思い出しまして、今回はこのあたりまでとさせていただきます。
ちなみに、私個人の健康の観念については、この3年くらいで飛躍的に変化することができて、それは嬉しいですけれど、それは決して「長生きするためのものではない」ということは書いておきたいと思います。
そういう意味では、すでに老後に入ったと自覚している私は、今後「生」と「死」をどこまで自分で決定するかという問題にも取りかかることになっていくようには思います。
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