今日 7月19日の周辺というのは、宇宙に関して、いろいろな記念日がありまして、7月20日は、今から 49年前にアポロ11号の「人類の月面着陸があったらしい」というような仮称記念日でもありますが、では、今から 24年前の 1994年の今日は、身近な宇宙で何が起きていたかご存じでしょうか。
下のようなことが起きていたのです。この惑星は「木星」です。
1994年7月16-22日 木星に彗星が連続して衝突
この写真は 7月16日のものですが、この後、分裂した彗星の核が次々と木星を直撃し、この「人類が知っている中で最も大きな太陽系での自然災害」は、結局、7月16日から 7月22日までの 1週間続き、その間、木星は彗星の核の直撃を受け続けたのでした。
ものすごく昔の話ではありません。ほんの 24前のことです。
暑い時に暑すぎる話題かもしれないですが、今日はこのことをふと思い出し、少し書かせていただこうかと思います。
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24年前に太陽系内で起きた「カタストロフ」を現在の地球の人間として考えてみる
それにしても、暑いですねえ。
昨日(7月18日)などは、私の住んでいる場所は、公式の最高気温が 37.6℃ということになっていて、公式でこれだと、直射日光の下などでは 2500℃くらいになっていたかもしれません(適当なこと書くなや)。まあ、それはないとしても、ものすごい温度になっている場所はそこら中にありました。
昨日は記事を更新できなかったのですけれど、それも気温とやや関係があります。
私は、自宅と、あと、最近の記事でふれたこともある「別宅という名の緑の廃墟」に大量の植物とメダカたちがいるのですが、その緊急避難的なことをやっていたのでした。
自宅の私の部屋には冷房がないのですが、そこにもメダカの水槽が2つありまして、昨日は「水槽内の水温が 37℃」ということになっていて、それでも、部屋の中のメダカたちはとても元気で、「強いな、あんたらは」と思いましたが、外のほうがまずかったのです。水温 37℃などの話ではないのです。
メダカを入れている睡蓮鉢やタライが、自宅と別宅に複数あるのですが、3日ほど前、昼過ぎに手で水をさわってみましたら、完全なお湯で、
「あんたら、これだと、しゃぶしゃぶになってしまうわ」
ということで、泳ぎながら茹で上がる「新鮮しゃぶしゃぶ茹でメダカ」というのも粋ではあっても、やはり不憫なので、いろいろ工夫して熱を遮断したのですが、多少の工夫ではどうにもならないほど直射日光の下の熱波はものすごいものがあり、昨日、「全面的移動」を決意しまして、場所を移動させたりしているうちに一日が終わっていきました。
何しろ、予報によれば、まだまだ同じような暑さが続くようですしね。いかに強いメダカといえども、「何日もの間、毎日しゃぶしゃぶ」では、さすがに厳しそうです。
まあしかし、もう移動しましたので、今後は 38℃になっても 43℃になっても構わないです(そういうこと書いていると本当になるぞ)。
……と、何だか個人的なことを書いてしまいましたが、そういえば、その「別宅」について書いた記事は、下のようなタイトルの記事でした。
「あーもうこんな地球なら滅びちゃえ」というような類いのメンタルの不調につき小休止させていただいています。そして進む「岡崎京子さん的ルームで死す」計画
In Deep 2018/06/20
メンタルの悪い時でしたが、このように、「あーもうこんな地球なら滅びちゃえ」というようなことを書いていたわけですけれど、過去数十年の太陽系の観測史などを見ていますと、
「そういうことは簡単なんですよ」
と空かどこかから誰かに囁かれそうなことに気づきます。
冒頭に、1994年 7月の「木星への彗星の衝突」について書きましたけれど、これについては、詳しくお知りになりたい方は、Wikipedia の
に比較的詳しく説明されています。
そのシューメーカー・レヴィ第9彗星の「衝突」というセクションから抜粋しますと、下のような感じです。
衝突
シューメーカー・レヴィ第9彗星の分裂核は、1994年7月16日から 7月22日までの間に、相次いで木星の大気上層に衝突した。これは史上初めて多数の人々が目撃した、地球大気圏外での物体の衝突の瞬間であった。
衝突後の衝突痕には木星大気の下部からわき上がってきた物質が含まれており、木星大気の研究に貢献した。
また衝突痕は地球と同じサイズのものもあった。
というようなもので、ここに、
> 衝突痕は地球と同じサイズのものもあった。
という下りがありますが、この彗星の衝突跡の中で最大のものは「地球と同じほどの大きさ(約 1万2000キロメートル)」でした。
下がその最大の衝突跡です。
1994年7月の彗星の衝突の跡
この衝突の跡もすごいのですけれど、ただ、衝突の時の「光」は、写真をいくつか見てみても、どう考えても、
「地球の大きさより大きく広がっていた」
というように見えるのです。
下の図はきちんとしたものではなく、見た感じで多大ざっぱに作成したものですが、このくらいの比率にはなっていたと思います。
1994年7月の彗星の衝突の「木星と地球と衝突の光」のサイズの比較
こういうのを見ていますと、「こういうのが地球に衝突した場合は、ひとたまりもないな」ということはわかります。
というか、「地球がなくなっちゃうんじゃないの?」というような感じ思いにも至りますが、すごいのは、「それはない」のです。
これは彗星ということもあり、
「これと同規模の彗星が地球に衝突しても、地球の存在そのものには問題がない」
ことは確実なのです。
どういうことかというと、たとえば、この 1994年に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星は、その光の幅はどう見ても数万キロメートルに及ぶものですが、最大の彗星の核の大きさは、「せいぜい 2キロメートル」となっています。次々と木星に衝突した他の彗星の核はそれより小さいのです。
もちろん、分裂した数々の彗星の核の衝突により、その地上は阿鼻叫喚の状態になるとはいえ、
ひとつひとつの彗星の核の衝撃が、「地球そのものを破壊してしまうということは絶対にない」
といえます。
2キロメートルの天体がどれだけ衝突しても、地球そのものが破壊されたり消滅することなどないです。
ただ……。
「地球には何もなくなる」
ということにはなるのかもしれません。
今回の記事は、つい最近の以下の記事から思い出したものでもあります。
このタイトルにある、
> 「木星の2倍の大きさの青い物体が地球に近づいている」
という響きは、半分はオカルト的でありながら、科学的な観点からも「 100%完全に一蹴することができるのかどうかも不明」という部分もあります。
彗星と惑星は全然違うものですけれど、たとえば、「何千年、何万年、あるいは何億年というようなサイクルで地球に接近する周期を持つ軌道を有する惑星の存在」ということ自体は否定ができないわけでもあります。
なら、「彗星も同じといえる」わけで、つまり、「きわめて長いサイクルで地球に接近する周期を持つ軌道を有する彗星」が、何千万か何億年ごとに地球に衝突しても、不思議ではないような気はします。
地球で数千万とか数億年とかのサイクルで現実として起き続けていた「大量絶滅」も、このような木星の事象を振り返ると、何となくわかりやすくも思います。
そして、大事なのは「これが彗星」だということです。
故フレッド・ホイル博士は、
「地球に生命をもたらしたのも、そして、地球の生命を進化させたのは彗星だ」
と強く主張していました。
そして、2016年には、「生命の構成要素がすべて宇宙にある」ことがついに確定したのです。これは下の特報記事で取りあげたことがあります。
下は、その時の英国の報道のタイトルで、「地球の生命は彗星によってもたらされた」という仮説がさらに強まったことが書かれていました。
2016年4月7日の英国の報道より
また、2014年に欧州宇宙機関が探査に成功したチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星からは、多くの有機化合物が発見されました。2015年8月のナショナルジオグラフィックの記事には下のように書かれてあります。
> チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星からは、これまで彗星では検出されたことがなかった有機化合物が発見され、数十億年前に地球に生命の素を運んできたのは彗星だという仮説を後押しすることとなった。
1994年に木星に衝突したような彗星が「地球に衝突」した場合は、当然、地表のほとんどの生命が絶滅する「大量絶滅」が発生すると思われますが、同時に、
「地球の生命の種が根本的に刷新される」
可能性が高いのです。
聖書『ヨハネの黙示録』の 21章には「すべてを新しくする」というようなくだりがありますが、そういうことが彗星にはできてしまうのですね。
最近の太陽系の異常については、たまにふれることがありますが、木星に彗星が衝突した 24年前のこの「24年」という時間的サイクルは大変に短いもので、こういうことも含めて、「現在の太陽系の変動は、何かの大きな変動が近づいている証左かもしれない」というように思うことは正直あります。
宇宙には、こういうような「地球を強制的にリセットする」メカニズムにあふれていて、それは起きた場合は厄介だし、困るのかもしれないですが、そういう個人的なことを別にすれば、その緻密なメカニズムには感動するばかりです。
この世に「神」というような言葉や概念が生まれたのも理解できなくないです。
私たち人間はもともと宇宙を心底崇拝しつつも恐れてもいたからこそ、「宇宙の中の地球」への考え方にも「崇拝が含まれていた」のかもしれません。
かつては。
今は、「宇宙なんて計算でどうにでもあらわせるから」という時代で、尊敬や崇拝はほとんどなくなっています。
多くの人々には、宇宙はただの物理的空間としての認識しかないのが現実です。そんなようなメカニズムに感動もしない。もちろん。崇拝などは考えることもない。
もし「神」というような概念が存在し、それが「すべてを新たに」するというような意志とメカニズムを働かせようといる時があるとすれば、それは……
「今でしょ」
ということになるような気が、最近はとてもします。