赦しはしても謝罪は受けない
私の部屋のベランダは、その先が駐車場になっていて、ついたてがありますので、お互い見えないのですが、駐車場からの声は聞こえます。
同じ建物には、お子さんのいらっしゃる家庭がわりとたくさんあるのですけれど、3人の小さなお子さん(1人は最近生まれた赤ちゃん)がいる比較的お若い夫婦がいて、そのお母さんは、毎日頻繁に車で子どもを連れて出かけます。
以前は、子どもに厳しい言葉をかける声などは聞いたことがなかったのですが、最近は、怒鳴る……とまではいかないまでも、それに近い言葉を子どもにかけている声を聞く声が多くなりました。
当然、小さな子どもはギャンギャン泣くわけですけれど、そこでさらに大きな声でお母さんが対応すると、さらに大声で泣く……というような光景(声だけですが)に遭遇することが多くなりました。
幼稚園に上がる前の子どもが 3人もいて、大変なのはわからないではないですが、「以前はこんな鳴き声、聞かなかったのになあ」と思うことはあります。
そういうことに遭遇していると、自分の子どもの小さな時のことなどをどうしても思い出します。ずいぶん前に書いたことがありますが、私の子どもは「 3歳まで言葉を発しなかった」子どもでした。
[記事] 3歳までことばを持たなかった私の子どものこと
In Deep 2012年05月08日
もう 11年前の記事ですね。
この数年前の話ですが、初めて言葉を話し始めますと、「物と発声する言葉が対応している」ということに人間は興味を持ち始めます。
それで、たとえば、ミカンを見ると、子どもはミカンを指さします。
「このものの名称は何というものとなるのか」
ということへの解答を私に促しているわけです。
「みかん」
「み……?」
「み・か・ん」
「み……か……ん」
というように、そのオレンジ色の物質に発声できる名称があることを覚え、他のさまざまなものについて、その発声単語を習得していくわけですが、たまに「間違って覚えてしまう」ことがあります。
テレビがあって、やはり彼はそれを指さし、「このものの名称は何というものとなるのか」ということへの解答を私にほのめかしたのですが、
「テレビ」
「テ……」
「テレビ」
「テ……ビ……レ」
と、彼は、テレビのことを「テビレ」と覚えてしまい、本人がそう確信している中では、「テビレではなく、テレビだよ」と言っても、
「いや、このものの名称はテビレである」
と確信に至ったようで、半年くらい、テレビのことを「テビレ」と呼んでいました。
その後は、テレビに近づいていっては、
「テビレ」
と指をさすようになったのですが……何を書きたくて、こんなエピソードを書いたのかよくわからないですけれど、つまり、「小さな子どもというのは、とにかくかわいい」ということを知るわけです。
人生の経験にはいろいろとありますが、私にとって劇的に自分が変化したキッカケは、子どもが生まれてからの期間の経験、だったことは確かです。
私の家は家事の分担というのは特にないですので、育児も適度な交代でしたが、赤ちゃんの場合、「毎日、うんちとの格闘」があるわけです。これは鍛えられますよ。「この程度のことでうろたえるなど、なんて自分は小さな人間だったのだろう」と、うんちを処理しながら毎日思っていました。
こういうことを経験していくうちに「目に映る世界の視界が変わる」のですよ。
女性にはもともと小さな子どもへの慈愛はあるでしょうが、男性にはもともとはないんですよ。
小さな子どもや赤ちゃんがかわいいとか、そこに慈愛を感じることは普通はないです。
自分の子どもというものの存在を知った後、周囲の小さな子どもたちへの感覚が初めて生じるという感じでしょうか。
若い男性なんて、そもそも小さな子どもなどは「視界にすら入らない」ものです。私はジイサンもあまり視界に入らないですが(怒られるからやめろ)、うんちの世話をしている中で、初めて、
「世界の風景には子どもの世界というものがある」
と知ることができたのでした。
見えないものが初めて見えたという感じでしょうか。
ジイサンはいまだに見えません(いいから)。
ですので、ブログの内容についても、それに沿うようなことも多くなりました。
コロナのパンデミックになってからも、その「対策」とか言われているようなことが、ほとんど「子供への虐待」であることに気づいて以来、そのような記事も多かったと思います。
そして、影響が何もかも、
「不可逆的すぎる」
のが問題だと思っていました。
元に戻らない害を与えていると。
身体や認知の面だけではなく、たとえば、今日は以下みたいな報道もありました。
(報道) [給食でいまも続く“黙食” “緩和”から2か月経ったけれど]という報道 (2023/02/01)
もう子どもたちは「黙食以外できなくなっている」のです。
マスクについても、子どもたち自身が、以下のように言っている。
> 新宿区立東戸山小学校 6年生「外さない。外すとなんか恥ずかしい」
> 「マスクすることに慣れているからそっちの方(着用)がいいかなって」
> 「マスクはできる限り外したくないです」
というようなことになっている。
社会的に「マスクはしなくていいですよ」となったとしても、これでは多くの子どもたちが外さないですし、いったい「正常な日常に戻る」のにどれだけの時間がかかるのかわからない。
あるいは、今でも、「過剰な消毒の習慣」が続いている学校や施設もあるのかもしれません。
[記事] 消毒という名の兵器の「結果」が子どもたちに出てきてしまっている
In Deep 2023年1月25日
[記事] 小さな子どもへのマスクがどのようにその子たちを殺していくか
In Deep 2021年9月27日
身体、精神すべてが不可逆的に「変化させられて」、そして戻らないことが非常に多い。
これが現在の「日本の」子どもたちの現状だと思います。
今回ご紹介するのは、こういうこととはまったく関係のない米ニューズウィークの、もともとはコロナ対策を強固に推し進めていた科学者による意見記事で、「科学界がコロナについて私たちが間違っていたことを認める時が来た」というタイトルの記事ですが、これについて、複数の独立系メディアなどは、「メジャーメディアがコロナ対策の過ちを認めた」というように勢いこんで報じていましたが、
「おせーんだよ」
というのが正直なところです。
西洋人というのは、謝罪を受けることが好きなのか、謝罪を表明しただけで、まるでそれを贖罪の告白のような感じで受け取る傾向がありますが、東洋人でありネアンデルタール人である私は、「謝罪には意味がない」と考える人です。
過失や事故ならば仕方ない。
たとえば、定食屋で知らない人と相席になって、間違ってソースの瓶を倒してしまって、相手の刺身定食にソースがかかってしまった…ということなら、謝罪で済みます。
しかし、謝罪で済むのはこのあたりまでです。
刺身にソースをかけられる域を超えると、謝罪は通用しません。
この世には、可逆と不可逆がある。
不可逆な被害に対しての謝罪には何の意味もありません。
「その被害が出る前に、想定して、それが出ないように対策するのが本来の科学者、医学者というものの役割」
だからです。
日本においてのコロナ対策の、特に子どもに対しての加虐は不可逆な影響を残すものばかりであり、謝罪されたところでどうにもならない。
まあ……ともかく、米ニューズウィークの記事をご紹介させていただこうと思いますが……それにしても、最近「ほぼ毎日、音楽家が亡くなる」という状況を鑑みている中で「昔聞いていた曲」というようなものを思い出して聞きます。
その中で、音楽家の平沢進さんが P-Model というバンドで 1979年に発表したアルバムの中の「子どもたちどうも」という曲の歌詞を思い出します。
聴いたのは、私が高校生の時でしたかね。
P-Model 『子供たちどうも』 (1979年) 歌詞
YouTubeどうもどうも 子供たち
パパやママやセンセイやトモダチが
よってたかって 知らん顔で
お前を襲って 踏んづけるもろもろの暴力が
無関心と二重思考が
未来を絞め殺そうとするよってたかって 知らん顔で
おかげで遺伝子ばらばらもろもろのウソが
無関心と二重思考が
今日を明日につなげないうたわなくとも 叫ばなくとも
ただ生きのびて 子供たち
路上をとりもどせ
この「二重思考」というのは、もともとジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくるもので、
「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」
です。
わかりやすいのは、小説の中で、主人公が「2+2は、4といえることこそ自由だ」と述べているのですけれど、拷問の中で、
「2+2は、5にも4にも3にも、なり得る…」
というようになっていくというようなことが説明されています。
マスク、ワクチン、ロックダウンはすべてこのような二重思考の押しつけの中でおこなわれました。
人を助けるという大義名分の中で、それ以上の人が死んでいくという二重思考ですね。
これだけで十分に今の社会は「ディストピア」だということがわかります。
パンデミックの最初の頃は、ロックダウン(もちろん緊急事態宣言を含みます)の弊害について書くことが最も多かったです。
[記事] 「ロックダウンという名の虐殺」 :英国で新型コロナ「ではない原因」による死者が封鎖の日より急激に増加し、統計開始以来最大の死者数に。私たちは今、国家による大量殺人という現実を世界に見ている
In Deep 2020年4月22日
その後、ワクチンです。
今は完全な 1984年型の社会です。
そんな世の中で謝罪を認めるわけにはいきません。
米ニューズウィークの記事です。
オリジナルには資料や報道へのリンクが多くありますが、割愛しています。
科学界が COVID について私たちが間違っていたことを認める時が来た
It's Time for the Scientific Community to Admit We Were Wrong About COVID and It Cost Lives | Opinion
Newsweek / Kevin Bass 2023/1/30
医学生および研究者として、私は COVID-19 に関する公衆衛生当局の取り組みを断固として支持していました。当局は、私たちの生活の中で最大の公衆衛生上の危機に、思いやり、勤勉さ、科学的専門知識をもって対応したと私は確信していました。
彼らがロックダウン、ワクチン、そして、ブースター接種を要求したとき、私は彼ら当局と同じ考え方でした。
しかし私は間違っていた。
科学界の私たちは間違っていました。そしてそれは命を犠牲にしました。
CDC から WHO、FDA を含む科学界が繰り返し証拠を誇張し、自然免疫と人工免疫、学校の閉鎖 、病気の感染など、独自の見解や政策について国民を誤解させていることが今の私にはわかります。
エアロゾルの拡散、マスクの義務化、ワクチンの有効性と安全性、特に若者に対してのワクチンの有効性と安全性。これらはすべて、後知恵ではなく、当時の科学的な間違いでした。
驚くべきことに、これらの対策の一部は現在も続いています。
しかし、おそらく個々のエラーよりも重要なのは、科学界の全体的なアプローチがいかに本質的に欠陥があり、今後もそこに陥るかもしれないということです。
それはそのアプローチの有効性を弱体化させ、数百万人とは言わないまでも数千人などの予防可能な死をもたらすような欠陥がありました。
私たちが適切に認識していなかったのは、我々の選択したい方向で科学的専門知識の使用方法を決定すること、そして私たちの選択は、実際、私たちがサービスを提供する多くの人々とは非常に異なる可能性があるということでした。
私たちが好む選択に基づいてポリシーを作成し、データを使用してそれを正当化しました。そして、私たちの努力に反対する人々を、彼らは見当違いで、無知で、利己的で、悪であると描写したのです。
私たちは科学をチーム・スポーツにしてしまった…。
そうすることで、これはもはや科学ではなくなりました。
私たちは、人口の重要な部分を政策立案から除外し、対策に批判的な人たちを非難しました。
これは、非常にさまざまな国全体に一枚岩の対応を展開し、これまで以上に分裂した社会を作り上げてしまいました。そして、長期の影響かもしれない健康被害と経済格差を悪化させてしまいました。
私たちの感情的な反応と根深い党派心は、私たちが仕えることになっている人々に対する私たちの行動の完全な影響を見ることを妨げました。
私たちが課したウイルスへの介入のマイナス面を体系的に最小限に抑えて見ていました。つまり、人々の意見、同意、および認識なしに対策は、全体に課されました。
そうすることで、私たちは、私たちの政策によって最も悪影響を受けるであろう人々、つまり貧困層、労働者階級、中小企業の経営者たち、黒人層とラテン系のアメリカ人層、そして子供たちの自主性を侵害しました。
これらの集団は、全知を前提とする支配的で企業化されたメディアマシンから組織的に排除されたために、私たちにはその存在が見えなくなっていたため、彼らへの悪影響は見落とされていました。私たちのほとんどは、他の方法を支持する声を上げず、それらを抑圧しようとしました。
世界的に有名なスタンフォード大学の教授であるジョン・イオアニディス氏、ジェイ・バタチャリヤ氏、スコット・アトラス氏、またはカリフォルニア大学サンフランシスコ校のビナイ・プラサド教授とモニカ・ガンジー教授のような強力な科学者たちが、脆弱なコミュニティを代表して警告を発したときにも、私たちは、彼らの意見は、多くの場合、事実に基づくのではなく、科学的意見の違いのみに基づいて批判と中傷をしているとしました。
(※ 注) これは、2020年に、上記の科学者と医学者たちが、ロックダウンに対しての批判を公式に表明した「グレートバリントン宣言」にふれています。以下にあります。
[記事] グレートバリントン宣言が当局から完全に無視されても、米スタンフォードの医学博士は主張し続ける。「ロックダウンは害悪でしかない」と
In Deep 2021年1月2日
トランプ前大統領が介入のマイナス面を指摘したとき、トランプ氏は道化師として扱われ、その意見は公に却下されました。そして、アンソニー・ファウチ博士がトランプ氏に反対し、公衆衛生コミュニティの英雄になったとき、たとえファウチ博士が間違っていたとしても、私たちはファウチ博士が言うことを支持しました。
私たちがトランプ氏たちに向けた軽蔑は、パンデミックへの対応に対する国民の信頼にとって災難である出来事でした。私たちのアプローチは、国家の共同プロジェクトであるべきだったものから、人の大部分を遠ざけました。
そして、私たちは大きな代償を払いました。
専門家クラスによって疎外された人々の怒りは爆発し、ソーシャルメディアを支配しました。
意見の相違を表明するために、多くの反体制派が、陰謀論や独立系の科学者たちの資料に沿って、パンデミックの主流を支配していた専門家たちのコンセンサスに反論しようとしました。
その後、彼らの主張は「フェイク」と名付けられ、「科学的無知」と「知識の欠如」のせいにし、政府はビッグテックと共謀して積極的にそれらの主張を抑圧し、政府の反対派の正当な政治的懸念を消し去ったのです。
そしてこれは、パンデミック政策が、アメリカ社会の非常に薄い部分、すなわち、学界、政府、医学、ジャーナリズム、技術、公衆衛生機関等の、高度な教育を受け、特権的な人物たちによって作成されたという事実にもかかわらず、特権の快適さから、このエリートたちは、労働者階級の自立を称賛し、日常生活でリスクを考慮することを日常的に要求しました。
私たちの指導者の多くが、階級格差を超えた人々の生きた経験を考慮することを怠ったことは、良心的なこととは言えません。
当時の私たちは、ロックダウンを批判する人々に対して、彼らは怠惰で、後ろ向きで、悪でさえあると厳しく判断していました。
私たちは、彼らの利益を代表する人々を「詐欺師」として却下しました。私たちは、「誤情報」が無知な人たちを扇動していると確信していました。
私たちは一般の人々に相談することなく、政策を作り上げました。私たちの公衆衛生当局が傲慢さを抑えて主導していたなら、米国でのパンデミックの過程は非常に異なる結果をもたらし、失われた命は、はるかに少なかったかもしれません。
しかし実際には、ワクチンと医療制度の問題が原因で、アメリカで大量の命が失われ、そしてそれが進行しているのを目の当たりにしてきました。
すでに裕福なエリートたちに富の大規模な集中が起き、そして貧しい人々の間での自殺と銃による暴力が増加しています。
特に若者の間で、うつ病と不安障害の割合がほぼ倍増しています。
すでに不利な立場に置かれた子供たちの教育成績の壊滅的な喪失。そして、最も脆弱な人々の間では、医療、科学、科学当局、政治指導者に対する幅広い信頼が大幅に失われました。
この文章を書いた動機は単純です。
科学に対する国民の信頼を回復するためには、パンデミックの際に何が正しかったのか、何が悪かったのか、どこで改善できたのかを公に議論する必要があることは明らかです。
自分が間違っていたのなら、どこが間違っていて、何を学んだかを認めることに問題はありません。それが科学の仕組みの中心的な部分です。
しかし、多くの人たちが集団思考に固執しすぎており、公に責任を取ることを恐れすぎ、「どこが間違っていたのか」という議論が行われないのではないかと私は懸念しています。
これらの問題を長期的に解決するには、これまでの批判的な主張を含めることを含め、私たちの機関における多元主義と寛容へのより大きなコミットメントが必要です。
知的エリート主義、資格主義、階級差別は終わらせなければなりません。
公衆衛生と私たちの民主主義への信頼を回復できるかどうかは、それにかかっています。