戦場
本題とは少し異なる話なのですが、以前、元アメリカ海兵隊の情報将校であったスコット・リッター氏という人の文章を取りあげたことがあります。
湾岸戦争の作戦中にペルシャ湾で活動し、イラクでは、国連の大量破壊兵器廃棄特別委員会の主任査察官を努めた方で (監査の結果、イラクには大量破壊兵器はないと報告し、事実上、職から排除)、いずれにしても、軍事の上級スペシャリストです。
最近は、リッター氏の「数十万人が死亡する真の大虐殺が近づいている」という発言を取りあげた記事をご紹介しています。
[記事] ロシア発の最終戦争が近づいている気配ですが、さてどうする(どうするかなんてわかりようがないですが)
In Deep 2023年1月23日
このスコット・リッター氏が、最近、デュランというネット放送での3人による対談で述べていた言葉が取りあげられていまして、それを読んで……まあ、「ところかわれば」というような表現がありますが、「こういうことは専門でないとわからないことだなあ」と改めて知ることがありました。
それを取りあげていた記事のタイトルは「『武器を捨てて地上に出ろ』とロシア兵がウクライナ兵に言っていた光景を信じることができないとリッター氏は述べた」というものでした。
ロシアとウクライナの前線からはわりと頻繁に動画が送られるのですが、その中のひとつの動画を見てのものです。
ここでリッター氏が「信じることができない」という光景とは上にある通りの「ロシア兵がウクライナ兵に投降を呼びかけている」というものです。
現地からのその動画はこちらのサイトにありますが、つまり、塹壕にいるウクライナ兵士に対して、
ロシア兵 「撃つのをやめろ。死にたくなければ武器を捨てて地に伏せろ!」
と降伏を呼びかけているものです。これを見て、リッター氏は「信じられない」と言っています。
何となく、戦場でよくありそうな普通の光景にも見えるのですが、元将校から見て、この何が「信じられない」かおわかりでしょうか。
ここに「戦場の常識と、日常の常識の強い違い」というものがあるのですが、リッター氏の言葉をそのまま取りあげます。
(スコット・リッター氏の対談での発言より)
「どんなアメリカ海兵隊も塹壕で交戦はしますが、相手に生きている人は一人もいません。動くものが見えたら、それを全部殺します」
「動くものや痙攣しているものは全部殺します。それは特に、私たち自身が常に敵の攻撃を受けているか、敵の反撃の可能性があると脅されている場合はそうします」
「このような場合、捕虜や囚人というのは考えられない。これは私たちが戦争犯罪者であるという意味ではありません(※ 降伏した敵を殺すのは戦争犯罪なので)。そうではなく、降伏する時間を与えないのです」
「よく言われる『手を挙げて、降伏』の考え方は…それはない。敵が前に立った場合、手を上げる機会を与えず、塹壕から出る前に殺します」
これがアメリカ海兵隊の戦闘の鉄則、もっと言えば、前線の「常識」ということのようですが、しかし、動画のロシア兵は、「手を挙げて降伏しろ」というようなことを述べていることに、リッター氏は大変驚くのです。
リッター氏は動画を見ながら以下のように言います。
「違う! これ(相手に降伏を促すこと)をしてはいけない! これは、あなたがたを危険にさらす行為で、場合によって、あなたがたが殺される! 彼らは敵なのです。あなたを殺そうとしている敵なのです」
リッター氏の言っていることは「戦場の常識」としては事実であり、相手の姿が見えているのに相手に降伏を促すというのは、「撃ってきたらどうするの?」という非常に「普通の常識」的な観点からもおかしいことではあります。
なぜ、こんなことをロシア兵がしていたのかは、まあ……よくはわからないですが、考えられるのは、
・訓練と経験不足のロシア兵たちだった
・人を殺すことを避けたいと考えた
・同じロシア人だとわかった
などかもしれないですが、ともかく、やっていることは、軍事のスペシャリストから見れば、「信じられない」ことのようです。
このあたりは、一般の「善良」の概念があてはまらないですので、難しいことかもしれないですが。
最近、アメリカの元陸軍大佐の発言を以下に記事で取りあげましたが、この方がその動画を見たら、どう思うのかなとかも思いました。
[記事] アメリカ国防総省長官の元顧問が「ウクライナはあと数週間で完全に崩壊し、ロシア軍はモルドバに進軍する」とインタビューで発言
In Deep 2023年2月4日
当然のことですが、一般の概念では、人を殺すことが良いはずがありません。そして、戦争なんてものそのものもないほうがいいに決まっています。
しかし、今は実際の戦争の中にあり、そこは戦場だということであり、その大義の中では「やっていいことと悪いことがある」という、日常としての普通と、戦場の普通、というものの大きな違いは確かに存在すると。
そして、戦争のタイプが異なるだけであり、日本も今は「戦時下」であり「言論統制下にある」ということと、情報統制に関しては「戦時中の大本営発表と近い」ということは、かつて何度かふれたことがあります。
[記事] 認知戦のバトルフィールドで踊り続けて
In Deep 2023年1月9日
[記事] この第三次世界大戦の責任はどこに、そして誰にあるか
In Deep 2021年11月23日
[記事] 戦時下に、日本人の専門家のワクチン遺伝子配列の分析を読んで知る「スパイクタンパク質の産生を止める術がない」こと。そして「未知のタンパク」の存在
In Deep 2021年10月17日
日本は、先ほどのロシア兵とウクライナ兵たちがいるようなタイプの戦場ではないですが、認知戦の戦場そのものではあります。
そういう意味で、最近またチラホラと読み直しています山本七平さんの『私の中の日本軍』の中から、現代と本当に変わらないような「人々の思考の分布」というものを見まして、少しご紹介したいと思いました。
『私の中の日本軍』を最初に読んだのは、もう 40年以上前の高校生の頃ですが、「自分が戦争に巻き込まれる時代に、またきちんと読もう」と、その時に思っていました。
そして、意外に早く、たった 40年ほどで「太平洋戦争の次の戦争」に自分も巻き込まれてしまったようです。
まあ、たとえば、マスクにしてもワクチンにしても、他のいろいろにしても、いろいろな考え方はあるとは思いますが、ワクチンでいえば、次のような心理的な分け方がされるのではないでしょうか。
・心の底からその有効性を信じ、ずっと信じ続ける
・周囲の言うことを信じて、意見の多いほうに加わる(長いものに巻かれる)
・徹底的に拒否、抵抗する
・いろいろとあきらめる
マスクもおおむね似たような人々の心理にわかれるのではないでしょうか。
もっといえば、地球温暖化や 、私はよくは知らないですが、LGBT というものに対してなども同じなのかもしれません。
上のような「現代の世界心理的な分布」を前提として、今から 70年以上前に起きていたことをご紹介してみたいと思います。
いろいろと固有名なども出てきますが、その説明は特に重要ではないと思われます。
ここからです。
『私の中の日本軍』 - 「トッツキ」と「イロケ」の世界 より
昭和1975年11月出版分より
日本人でなければ、読んだ瞬間に「物理的に不可能」と感じられる「百人斬り」が事実で通り、これを報ずることが大いに意義ありと信じられ、それを否定する者が常に「非国民」とされる世界とは、いわば、「神がかり」が、主導権を握る世界であり、それはまた「物理的に不可能」なインパール作戦が「事実」になってしまう世界であり、同時に必ず小畑参謀長が排除される世界であり…
…この「神がかり」に対する態度は四つしかない。「長いものには巻かれろ」でそれに同調し、自分もそれらしきことをしゃべり出すか、小畑参謀長のように排除されるか、私の部隊長のように「バカ参謀め」といって最後まで抵抗するか、私の親しかった兵器廠の老准尉のように「大本営の気違いども」といって諦めるかである。
「バカ参謀」とか「大本営の気違いども」とかいっても、これは単なる悪口ではない。事実、補給の権威者から見て、インパール作戦を強行しようとする者が「神がかり」に見えるのなら、補給の実務に携わっている者から見れば、大本営自体が集団発狂したとしか思えないのが当然である。
彼らの狂気ぶりを示す例ならありすぎるほどあり、またあるのが当然である。何しろ、狂人ではないにしろ「神がかり」が正常視され、その意見が通り、常識が狂人扱いないしは非常識扱いされているのだから、そうでなければ(狂気ぶりを示す例がないほうが)不思議である。
それがどういう結果を招来したか。悲劇はインパールだけではない。次はそのほんの一例にすぎぬが、たとえば『聖書と軍刀』の著者で大盛堂社長の舩坂弘氏は「福音手帖」という雑誌の対談で次のように言っておられる。
「私の行った島は……アンガウルという小さな島でした。そこに初めは日本兵が千三百人いたんですが、食糧も水もなく、結局一カ月で百五十人くらいしか生き残れなかったんです」
「(その間)どうされていたのですか?」
「一カ月も水や食糧がありませんから、水のかわりになるのは……小便くらいのものだったんですが、しまいにはそれも出なくなりました。食物はカエルやヘビをつかまえて食べました」
牟田口司令官が「神がかり」なら、この作戦を強行したものは「狂人」としかいえない。従ってこういう状態におかれた者が前線から逆に大本営の方を見れば、そこにいるのは「気違い」としかいいようがないのである。
実情はすべてこのアンガウルという島(と同じ)だった。ニューギニアやフィリピンの戦死者を克明に調べてみればよい。「戦死」とされているが実は「餓死」なのである。
ここまでです。
この文章を以下のような始まりにしますと、今と何も変わらないということがおわかりかと思います。
> 読んだ瞬間に「物理的に不可能」と感じられる「全員ワクチン接種によりパンデミックを克服する」が事実で通り、これを報ずることが大いに意義ありと信じられ、それを否定する者が常に「非国民」とされる世界とは、いわば、「神がかり」が、主導権を握る世界であり、それはまた「物理的に不可能」な接種の繰り返しの効果が「事実」になってしまう世界であり…
このあとの、
> …この「神がかり」に対する態度は四つしかない。
というのも、今もほとんど同じだと思います。
特に、「コトが大きい」と、人は巻き込まれやすいですし、マインドコントロールもよく効きます。
そういう意味では、太平洋戦争での「日本の狂気」を超えて、今回のは「全世界」を対象にしたものでしたので、心理的に抵抗しにくい面はあったのかなと思います。
そして、それがあまりにも狂気に(あるいは信じられないような悪意に)満ちている場合は、怒りや抵抗を超えた後に、「あきらめる」人たちが出てきやすいとも思います。
私にしても、16歳でこの『私の中の日本軍』を読んでいなかったらどうなっていたかわからないです。
自分の人生としては「できるだけ抵抗して、できるだけあきらめないように生きよう」と……まあ、これは 3歳くらいからそう思っていましたが(体が弱くて、いつ死ぬかわからなかったので)、そのような、幼少時に極端に体が弱かったことも良いことだったようです。
ちなみに、ほとんどまともな本を読んだことがなかった十代で、私がこの本を知ったのは、本屋さんで表紙の装丁を見てのことでした。いわゆる「ジャケ買い」ですね。山本七平さんなんて、名前も知りませんでした。
コロナのパンデミックの最初の頃の雰囲気や、ワクチンキャンペーンが始まった時の雰囲気として思い出したのは、もう 11年前の記事ですが、「社会にヒステリーが拡大していいく」様子について『私の中の日本軍』から抜粋したことがあります。
以下の記事の後半にあります。
[記事] 殺され続ける詩人シナ
In Deep 2012年09月12日
(『私の中の日本軍』より)
> 原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーが、ある対象に向かうように誘導するのである。
>
> …従って、扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし、「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。扇動された者は騒々しいが、扇動の実体とはこれと全く逆で、実に静なる理論なのである。
この頃は、10年後の社会が今のようになるなんてことは想像もしていませんでしたけれど、「ひとつの原則」というものは、「何にでもあてはまるものなのだなあ」と、パンデミック以降につくづく思いました。
これからもこの原則に当てはまっていくと思いますよ。
結局、情報統制と思想統制を含めた認知戦下の社会では、
・従う
・従わない
・あきらめる
の三つの中から生き方を決めるということになりそうです。
どれがいい悪いはないです。
それ自体も個人個人がご自身で決めることです。
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