四重の虹 (英国 2019/10/29)
・BBC
日本でも世界でも連綿と続いている「戦い」
この数日、沖縄の首里城や、岐阜県の白川郷など、いろいろな精神的な意味を持つ場所で火災などが続いています。
そして、沖縄の首里城の火災から調べているうちに、沖縄にある「神性」は、
「古代の日本と同じタイプのもの」
だと感じたのです。
そのことを書かせていただこうかと思います。
琉球には「失われた日本人の神性」があるのだと初めて知ったのです。
「神性」という言葉には「神」という単語が入っていますが、いわゆる宗教的な意味での神とは関係ありません。
そういう意味では、現在の私はほぼ完全な「無神論者」でありまして、あるのは「神性」であり、「神ではない」と考えています。
では、その「神性としての神」は何か。
それは「女性」だと考えています。
沖縄には、「イザイホー」という、神性に関しての重要な儀礼があり、これは実は 1978年以来、行われていないのですが、以下のようなものです。
イザイホー - Wikipedia
イザイホーは、沖縄県南城市にある久高島で12年に一度行われる、久高島で生まれ育った三十歳以上の既婚女性が神女(神職者)となるための就任儀礼。
基本的にその要件を満たす全ての女性がこの儀礼を通過する。
琉球王国時代において、最高の聖域と位置づけられた久高島には、古くから「男は海人、女は神人」の諺が伝わる。久高島では男たちは成人して漁師になり、女たちは神女になるということである。
れは琉球王国の信仰基盤となるおなり神信仰を象徴するものであり、すべての既婚女性は30歳を越えるとこの儀式を経て、神女になるのである。
この中にある
> 「男は海人、女は神人」
を読んで、私は、おそらく縄文時代の日本も同じだったと想像したのです。
その根拠は、時代は縄文時代よりかなり新しいですが、西暦 280-297年の間の、日本が弥生時代だった時の中国「魏志倭人伝」に、当時の日本人の様子として、次のように書かれています。
彼らの見た日本人の、特に男性は次のような出で立ちでした。
魏志倭人伝より
倭では、男子は成人も子どもも、みな顔や体に入墨をしている。
昔から倭の使が中国に来るとき、みな大夫と称する。夏王朝の六代の王小康の子が、会稽郡に封ぜられたとき、断髪して入墨し、海中にひそむ蛟龍(みずち)の害を避けたという。
今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。
この頃の日本人の男性は、ほぼ全員が「全身に入れ墨をしていた」のでした。
そして、その理由は、
> 海中にひそむ蛟龍(みずち)
から身を守るためでした。
蛟龍(みずち)というのは、調べてみますと「竜」のことで、海の中にいる、その竜から守る。
この「守る」というのは、自らのこともあるでしょうけれど、
「神人としての女性を守る」
という側面が大きかったと思います。
実際に、当時、海から竜が出てきたかどうかわからないですが、おそらく竜など海から出てこなかったでしょう。
それでも、そのときのために、当時の日本人男性たちは、全員が全身に入れ墨を彫って、「日本人」と「日本の神性」を守っていたと考えられます。
その神性とは女性そのものだと考えますが、このあたりが、先ほどの沖縄の久高島に伝わる、
> 「男は海人、女は神人」
という概念と結びついたのですね。
久高島では、かつて、すべての既婚女性は、30歳を越えると、
「神人になる」
のでした。
間違ってはいけないのは「神になる」のではなく、「神人になる」のです。
女性が神性そのものだということを現す儀式。それがイザイホーだと理解します。
> 久高島では、かつて
と書きましたが、現状は以下のようになっています。
イザイホーの現状
島の過疎化が進み、1990年はナンチュ(新たな神女)となる女性の不在と、儀式の祝詞や段取りをもっともよく知る久高ノロウメーギ(神職名。久高ノロの補佐役)の逝去のために行われなかった。
2002年、2014年もナンチュになる女性の不在などの問題により中止となり、1978年を最後に現在に至るまで行われておらず、その存続が危ぶまれている。
現状を考えますと、この先もイザイホーはおこなわれないでしょう。「女性は神性としての存在である」という日本的な儀式がひとつ消えたのです。
「どうしてそうなったか」ということは、他のさまざまな戦後の日本人の精神的支柱の推移と、そして、少子化などともリンクする「現状」から、とてもわかりやすいです。
日本人の精神的の支えは、いつのまにか「物」になっていました。そして、簡単にいえば、
「物質主義は神性を殺す」
のです。
唯物論は、この世から神性を排除するために生まれたものといえると思います。
物が欲しい。
物のためにはお金がいる。
そうやって、物が自分たちをつぶしていく。
日本から神性が消えていく。
今の日本人女性の多くは「自分自身が神人である」という認識さえないような気がします。
かつて、中国神話に出てくる創造神であり女性神でもあった NUWA という存在にハマッたことがありましたが、その後、「ヌーワは街を歩く普通の女の子だったにちがいない」と考えるようになりました。
そして街にはいつだって女性は歩いている。
神性はこの世に満ちているはずなのです。
神がいたのではなく、女性という神性が存在した。
それがこの世だったと。
何だかわかりにくい話となってしまいましたけれど、いわゆる「悪魔的存在」がどのようにして、この世から「神性を持つ人間」を消し去るのか。
それが、現代に向かっての一連の流れでわかるのです。まあしかし、どのような方向であろうと、時代が一定の方向に進むのは仕方ないことでもあるのかもしれません。
ところで、今年おこなわれた即位の礼の日に、「白い虹が出た」ことを以下の記事で取りあげさせていただいたことがあります。
即位の礼の日に富士山に出現した「白い虹」。そして関東に次々と出現した七色の虹…。「神と生き物の永遠の契約のしるしが虹」だとする聖書の宣言から考えると…
投稿日:2019年10月24日
以下のような虹が、ご即位の礼の日に、富士山を背景に出現していたのです。
・山中湖観光情報
その時に、「虹とは何か」ということについて、旧約聖書の創世記から抜粋いたしました。
旧約聖書『創世記』09章 12-16節
さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。
すなわち、わたしは雲の中に、虹を置く。
これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。
わたしが雲を地の上に起すとき、虹が雲の中に現れる。
虹が雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。
このように、「虹は神と地上の生き物の永遠の契約」だとここでは述べられます。
私から言い直させていただきますと、神ではなく「神性との契約」ということになりますが、虹とはそういうものだと。
そういう現象が現実として現れた即位の礼の年から、私たちは今後どのように生きていけばいいのかということを思います。
もちろん、こんなことを堅苦しく考えるのが最も私の苦手なところで、難解な意味ということではなく、「物質から精神に少しだけ比重を移していく」ということを開始する年にしてもいいのではないかと思った次第です。
戦後からのたった 70年ほどで、ここまで日本から神性が失われてしまったわけですけれど、しかし逆に考えれば、たった 70年ほどで元に戻ることもできるかもしれないのです。