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4月19日にメルマガ私たち現生人類は「鉄の種族」であることから思う生き方を発行させていただきました。

人類の未来 人類の覚醒と真実 日本の未来

「子どもは尊敬されるべき存在」だということを、平行宇宙と「この世の未知の存在」の観点から確信していただきたいなどと思い…

投稿日:


fortune.com




 

前回と前々回は、過去のメルマガの中から、ご紹介したいと思っていた以下の記事を編集し掲載させていただきました。

私たち人間の「意識」で「社会と地球と宇宙」を変える具体的な方法

今回も、やはり、ご紹介したいと思っていたものがありまして、それは、

「大人が子どもを尊敬するべき理由」

について書かせていただいたものです。

私はずいぶんと以前から、「子どもが最上位にある世の中でなければ、決して良い社会にはなりえない」というように思っています。

それを最初に思い、記事にしたのは、 2015年の以下のものです。

「革命」 - 革命的行動の最上位は「子どもたちへの無条件の愛」を獲得した社会に戻すこと
 In Deep 2015年07月12日

しかし、この時は「愛」という言葉を使っていますが、その後、

「それは違う」

と感じるようになりました。

「愛」ではなく、「尊敬」という言葉が正しいと。

子どもに愛を注ぐのではなく、「子どもを尊敬する」。

それこそが正しいと。

江戸時代の日本は、おそらく、このことがなされていて、その光景は外国人たちから見れば、驚異的に美しい光景だったようです。

1870年に来日したアメリカ人科学者のウィリアム・グリフィスという人は、日本を描いた著作に次のように記しています。

ウィリアム・グリフィスの手記より

日本人が非常に愛情の深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子どもを持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる。

そして、こういう環境で育った子どもたちが、外国人から見ると、どういうように映る子どもになっていくかということも、当時の外国人たちの手記からわかります。

1883年に来日した英国軍人であるヘンリー・S・パーマーは手記に以下のように記しています。

ヘンリー・S・パーマーの手記より

「何とかわいい子どもたちのことか。子どもは大勢いるが、明るく朗らかで、色とりどりの着物を着て、まるで花束をふりまいたようだ。彼らと親しくなると、とても魅力的で、長所ばかりで欠点がほとんどないことに気づく」

 

> 長所ばかりで欠点がほとんどない

というような子どもへの褒め言葉はあまり聞いたことがないもので、江戸時代の日本の子どもたちのスーパーぶりがわかります。

そして、今回ご紹介する過去のメルマガは、社会的な事柄からのアプローチではなく、

「子どもだけが持つ特別な能力」

について書いたものです。

オカルトに近い部分がたくさんありますが、内容そのものは、ある程度の真実だと思いますので、ご紹介させていだたきます。

「この世」というものは、私たち大人が考えているより、もっと複雑で、そして、素晴らしく構成されているものなのだと思います。

それでは、ここからです。

 


大人が子どもを尊敬するためにも「子どもは異次元と通じる救世主」であることを知るべき

テレビのニュースやワイドショーは、見ると暗い気分になるので、一切見ないですが、Yahoo!のトップにあるニュースくらいは読みます。

そのニュースの数々も、最近は暗いものが多く、特に、「子どもへの虐待」に関してのニュースが、あまりにも多い気がしまして、まあ、それぞれの事情などもありますでしょうし、個別の案件にふれるつもりはないですけれど、たとえば、「日本全体の数字」だけでも、今は以下のようになっています。

「虐待疑い、5年で2・8倍 18年児相通告、8万人超」

中日新聞 2019/02/08

警察庁は七日、二〇一八年の犯罪情勢を公表した。

虐待を受けた疑いがあるとして児童相談所に通告した十八歳未満の子どもは前年比22・4%増の八万百四人で、統計のある〇四年以降初めて八万人を超えた。

ドメスティックバイオレンス(DV)やストーカーの相談件数なども高水準。通告児童数は過去五年間で約二・八倍に増加。

DVの相談も増加傾向が続き、七万七千四百八十二件。

刑法犯全体の認知件数は八十一万七千四百四十五件で、戦後最少を更新した。

この中で注目すべきは

「刑法犯全体の認知件数は八十一万七千四百四十五件で、戦後最少を更新した」

というところです。

これは要するに、「犯罪全般は戦後最小にまで減っている」のに、「児童虐待と家庭内暴力は異常なペースで増え続けている」ということを示しているわけです。

言い換えると、「身内や家族を暴力の対象とする傾向」が年々大きくなり続けていると。

 

2018年の児童虐待通告件数が、「前年比 22.4%増加」で、そして、

「過去 5年間で 280%増加」

となっているわけで、これはものすごいです。

こんなような率の増加を見せる犯罪の事象ってそうないですよ。

 

個別の案件については、加害者、被害者どちらもかわいそうには思いますけれど、特に加害者に憎悪や怒りの感情もないですし、それに触れるつもりはありません。

ただ、ニュースなどの報道内容は「軸」が違う気がします。

今の報道は、どんな犯罪でも、個人攻撃に終始する傾向がありますけれど、さきほどの児童虐待増加のデータにありますように、「日本という単位での児童虐待の《全体の数字》がこんなに上昇している」ということは、

「個人の問題ではなく、社会全体と関係する大きな背景がある」

ということだと思います。

個別を攻撃しても、キリがない。

私は社会派としてものを書く人ではないですし、「社会としてこうするべきだ」というような意見は持ちません。

けれど、そういうことのもっと「上」に、私は以下のことが今の日本の大人に抜けているのだと思います。

それは、大人たちが、

「子どもを尊敬することを忘れてしまっている」

ということです。

子どもを守る、とか、そういうフレーズはよく聞きますけれど、それも、すでに上から目線であって、「子どもを尊敬する」という観念があれば、またいろいろと違うと思うのですね。

以前、ブログで以下の記事を書かせていただきました。

アメリカで、厳しい状況下で、3歳の男の子が行方不明になり、2日後に無事に発見されたというものでした。

子どもたちを守る「黒い存在」の正体 : 氷点下で洪水状態の森で行方不明になり「2日後に傷ひとつなく発見された3歳の男の子」は「2日間クマと遊んでいた」と述べた

この中に、新約聖書「マタイによる福音書」の18章から抜粋した部分があります。

これを読んだ時、私は、

「イエス・キリストは子どもを尊敬していた」

ことを知りました。

「マタイによる福音書」18章から飛び飛びですが、ご紹介します。

「マタイによる福音書」18章より

[18章 01-06節]

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。

そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 言われた。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。

わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

[18章 10節]

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

[18章 14節]

そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

私は今回何を書こうとしているのかというと、上の聖書の文言に、以下の部分があります。

> 言っておくが、彼らの天使たちは天で
> いつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

この中の、

「彼らの天使たち」

という部分と関係するものかもしれません。

これまで、ブログ In Deep では、「小さな子どもの失踪と、その生還」について何度か記事にしています。

それらの事例は、たとえば、以下のような記事でもまとめていますので、ご存じない方は読まれていただくと幸いです。

「この男の子は絶対に生還する」と私に確信させた過去の世界中の「2歳と3歳の子どもたちの不可解な行方不明と発見の事例」を今再び思い出す

この記事などにある事例は、北米の行方不明事件のケースを分析しているデビッド・ポーリデスという人の著作『 411人の行方不明者』にあるものです。使われている資料はすべて警察資料であり、信憑性の高いものです。

生還した子どもたちの多くは「 2歳から 6歳」くらいなんですけれど( 2歳と 3歳が中心)、多くの事例にあるものは、行方不明になった子どもたちの周囲に、

「他の存在がいる」

としか思えない点です。

あるいは、もっと言えば、

「他の世界と接している」

というようにも見えるのです。

たとえば、以下は、1897年にアメリカのメイン州で起きた事例です。

(1897年8月 米メイン州)

「6歳のリリアンちゃんの失踪事例」

1897年8月、メイン州でリリアン・カーニーという名の 6歳の少女が、両親とブルーベリーを摘みに出ていた時に行方不明になった。

両親によると、リリアンは、ほんのすぐ目の前で消えたという。

ただちに大規模な捜索がおこなわれたが、手がかりはまったくなかった。

大規模な捜索の後、リリアンは森の中で茫然自失の状態でいるところを発見された。何が起きたのかを彼女に尋ねると、彼女は、ずっと森のなかにいたと述べた。

その場所は太陽が一日中のすべての時間に輝く場所で、そこにずっといたのだという。

しかし、彼女が行方不明になってから見つかるまでの 46時間の天候は曇りで、太陽は出ていなかった。

リリアンが見た「太陽」とは何だったのかわかっていない。そして、この失踪にどういう意味があったのかもわかっていない。

このような、

> その場所は太陽が一日中のすべての時間に
> 輝く場所で、そこにずっといた

というような「体験」。

あるいは、以下のような事例もあります。

(2013年の夏 米ミシガン州)

「2歳のアンバーちゃんの失踪事例」

2013年の夏、2歳の女の子、アンバー・ローズ・スミスは、ミシガン州ニウェーゴ郡の自宅のすぐ前で姿を消した。

父親によれば、娘が家の二匹の犬と遊んでいる姿を見続けていて、ほんの少しの間、家の中に入り、すぐに戻った時、アンバーの姿はなかったという。

娘の名前を呼んだが、返事はなかった。

ボランティアを含む数百人におよぶ捜索隊による集中的な捜索がおこなわれた。

翌日、彼女は、すでに十分に捜索されていた家から3.2キロ離れた場所の道路の真ん中に立っているところを発見された。

見つかった時、アンバーは空中を見つめていた。

彼女はまだ 2歳で、自分に何が起こったのかを説明することはできなかったが、発見された時には、ショックと意識障害の状態にあると思われた。

地元の保安官は、この厳しい土地の、しかも夏の気温の森の中を、2歳の女の子が、どのようにして怪我もなく移動して生き残ることができたのか不思議だと発見された夜に述べている。

あるいは、2歳の彼女が 3.2キロの距離をひとりで歩いたのか、そうではないかもわかっていない。

ここにも、

> 見つかった時、アンバーは空中を見つめていた。

というくだりや、

> 2歳の女の子が、どのようにして怪我もなく移動して
> 生き残ることができたのか不思議だ

ということなどから考えみても、小さな子どもが失踪して、その後、生還するという事象がある時には、

「他の存在が関与している」

ことは間違いないと思うのです。

そして、その存在は、普通に考えれば、「人間ではない」はずです。

こういう「人間ではない存在」ということは、あまりはっきり書きまして、オカルターみたいな感じに受け取られてもあれですので、こういう表現は普段はしないですけれど、この世には、

「子どもたちを守る他者」

の存在が、確かにある。

聖書に「子どもたちの天使たちは」とあるように、キリストは、子どもに「天使」がついているという。

「天使」というのがどういうものなのかは、いろいろと解釈や主張があるでしょうけれど、それが何かということを別にしても、

「子どもの周辺を何かが取り巻いている」

と。

そしてですね。

これもまた間違いないと思われるのですが、

「子どもにだけその存在が《見えて》いる」

あるいは、

「子どもだけが、その存在を実体として《感じて》いる」

のだと思うのです。

それでですね。

子どもたちの失踪と生還事例と「根本的に通じる」と思うことのできるまったく別の事例の数々について最近読んだのですけれど、それをご紹介したいと思います。

この「子どもたちの失踪と生還事例と根本的に通じる」とは、どういうことかといいますと、

「起きていることに対して恐怖の観念がまったくない」

ということなんですね。

奇妙な失踪事例には、大人の例もたくさんあるのですけれど、過去記事には以下のように私は書いています。

In Deep過去記事より)

3歳などの小さな子どもが行方不明になった後に救助されたケースでは、子どもたちの多くに、「行方不明になっていた間の記憶に恐怖という観念がない」という共通点があります。

大人と子どもで違うのは、「大人の行方不明の場合、そこに《恐怖》というキーワードが介入する」ということです。

このように、本来なら恐怖と感じていいことに対して、子どもたちは恐怖を感じていないということが、奇妙な失踪と生還のほぼすべてに共通しています。

これと「よく似た事象」というのが何なのかといいますと、

 

「想像上の友だち」

 

と呼ばれる現象の事例なのです。

これらは、心霊現象のようなオカルトだとされることもあり、あるいは、精神的な問題だとされることもあります。

いずれにしましても、その事例が数多く載せられている海外のウェブサイトを読みますと、そのすべてに、

子どもは謎の存在に恐怖を感じていない

のに対して、

大人はそれを恐怖と感じる

ということが、はっきりとわかるのです。

今回は、そのアメリカのサイトにあったものから、いくつかを抜粋して翻訳させていただこうと思います。

長くなってしまうかもしれないですが、話自体は(個別の案件の真偽はともかく)興味深いものです。

ひとつを除いて、アメリカでの事例です。

プライバシーの観点から、年齢や名前は明示されていないものもあります。

まず、エリックさんという人の 3歳の娘さんの話からです。

エリック氏の娘さんの事例

エリック氏の娘さんは 3歳になってから、たまに、

「クローゼットの中にジョナサンという男の子がいるの」

と話すようになった。

その子と話すのが楽しいとも言っていた。

しかし、彼女に兄弟はいないし、どうやら「想像上の友だち」ということのようで、父親は、多少奇妙な話だとは思ったけれど、3歳くらいならあることだろうと、さほど気にはしなかった。

しばらくして、エリック氏の奧さんが妊娠したために、家族は大きな家に引っ越すことになった。

その後、前の家の新しいオーナーから連絡があり、クローゼットの裏側に落とし戸があり、そこに「箱」が置いてあって、中にいろいろと入っているので、それらをどうしたらいいかという電話だった。

その箱の中には、見知らぬ赤ちゃんの絵が何枚かあり、赤ちゃんの服も何枚か入っていた。

そして、箱には「ジョナサン」と書かれていた。

エリック氏はここで初めて不気味な感覚を味わった。

 

この 3歳の娘さんは、

「その子と話すのが楽しい」

と言っているのに対して、お父さんが感じるのは、「不気味な感覚」となっています。

以下は別の事例です。

 

サマンサちゃんの事例

小さな女の子サマンサの母親の述懐。

サマンサに「架空の友だち」ができたのは、家族で新しい家に引っ越したときからだった。

最初、両親は、サマンサちゃんの想像によるものと考えていたが、あるとき、母親が、部屋の中に影が動いていたり、家の中から奇妙な音がすることに気づいた。

父親も母親もそれに対して非常に不快感を持ち始めた。

ところが、サマンサ自身は、その「友だち」といつも友好的で、いつも平和に遊んでいた。

しかし、ある日、サマンサは母親に、

「わたし、この家を燃やそうとしたの」

と告げたことから、両親は危機感を持った。

父親は、サマンサが精神的な疾患を抱えているかもしれないと考え始めた。

父親は、サマンサと地下室で話をすることにした。

地下室に入ると、父親は背後に気配を感じた。振り向くと、そこには7歳くらいの小さな少女が立っていた。

彼女はごく普通の女の子に見えたが、しかし、彼女の周囲には「炎」があった。彼女は怒っているように見えた。

 

このあたりにくると、オカルト色も強いですが、この状況でも、サマンサちゃんは、その燃えている存在と、「いつも友好的で、いつも平和に遊んでいた」のに、親たちは、

非常に不快感を持ち始めた。

というように、大人は恐怖と危機感で「存在」に対応しています。

ただ、この話はフェイクかもしれないなとも思います。

なぜなら、お父さんに「女の子が見えている」からです。

他のすぺての例では「そもそも、大人には存在が見えない」のです。

子どもの想像上の友だちは、「大人には見えない」のです。

まだ少し続きます。
こちらは少し長いです。

 

ジェイシーちゃんの事例

3歳のジェイシーは、その日、毎日見ているテレビ番組を見ていたが、番組が終わり、母親のところに来た。

そのテレビ番組は、毎日午前9時30分に終わる。

ジェイシーは、

「友だちがいるけど、遊んでいい?」

と母親に言った。

母親は、外にでも遊びにいくのかと思って気にしなかったが、ジェイシーは、誰もいない家のホールに向かって、

「友だちが来た!」

と走っていったのだ。

その後、毎日午前9時30分にジェイシーは、ホールに走っていくようになった。「友だち」は毎日来た。

ある日、ジェイシーは、母親にこのように言った。

「友だちのきょうだいも遊びにきていい?」

母親は、いよいよ一体何が起きているのかと思い、
ジェイシーに質問した。

問 「お友だちはどこに住んでいるの?」
答 「森の中 (forest)」
問 「森の中のどこ?」
答 「焼け焦げたレインボーハウス」

この家族が住むルイジアナ州は、ほとんどが森林だが、しかし、「forest」という単語は3歳の子どもが発する単語ではない。

問 「お友だちみんなのお名前は?」
答 「知らない」

母親は、ジェイシーが「友だち」といる時の光景を写真で撮影しようと考えた。

もしかすると、何か写るかもしれない。

そして、母親は写真で撮影したが、そこにはジェイシー以外は誰も写っていなかった。

その後、森の中に破棄されたレインボーハウスがあることを知り、両親はそこを訪ねた。そこでは、一種の「不気味な気持ち」を両親はおぼえた。

それからもジェイシーは毎日、「友だち」と遊んだ

ある日、母親は、友だちと遊んでいるジェイシーのいる部屋をドアの隙間から覗いた。

部屋には、ジェイシー以外には誰もいないが、ジェイシーは床に座って誰かと話していた。

そして、ふいにジェイシーは、母親のほうを向いて、こう言った。

「友だちは何でも見えるの。お母さんがそこにいることもわかるのよ」

これらの事象は、ジェイシーが幼稚園に行く時まで続いた。

ジェイシーは今はティーンになった。

「友だち」についての記憶は少し残ってはいるが、そのことを話すことはないと母親は言う。

 

このジェイシーちゃんのは、印象深くて、3歳の子どもが「存在」に恐怖感を持たず、大人だけが恐怖感を持っているのは同じですが、

「成長したジェイシーはすでにそのことに興味がなくなっている」

というところが感慨深いです。

次は男の子のきょうだいの話です。

 

オリバーくんとマックスくんの事例

オーストラリアのシドニーに済む10歳の男の子オリバーは、新しい家に引っ越した後、クララという名の「見えない少女」と、よく話すようになった。

母親のレイチェルは、子どもの想像の産物だろうと、あまり気にしていなかったが、オリバーの弟である6歳のマックスくんの発言で、事態は少し違うかもしれないと思い始めた。

マックスは、母親にこう言ったのだ。

「どうして食卓にクララの席がないの?」

これを聞いて、母親は、やや不気味に思うとともに、「何が起きているのか?」と考えた。

マックスはすでに、サンタクロースは本当は存在しないということがわかっているような利発な子だった。

そんなマックスがなぜ、「クララの存在」を信じるのだろう。お兄さんが言うから、そう信じているだけなのだろうか。

その後、オリバーもマックスも、常にクララと会話をするようになった。

両親は、ふたりの「想像上の友だち」との関係を終わらせなければならないと話し合っていた。その時、奇妙なことが起きた。

家の照明がランダムについたり消えたりし出して、そのうち、テーブルから物が落ちたりし始めた。家の中からは奇妙な音が鳴り響いた。

 

これも最後のくだりはオカルト色が強いですが、その部分はともかくとして、やはり、

「子どもは楽しみ、大人は恐怖する」

という構図は同じです。

次で最後にしますが、これは、大人になった女性が、自分の子ども時代を思い出して述べているものです。

 

大人になった女性が3歳の時を述懐

3歳の時、家族で新しい家に引っ越したとき、私には、そこに「女の子」がいることがわかった。

自分と同じような年齢で、容姿も私と似ていた。鮮やかなブルーの瞳とブロンドの髪を持ち、ピンクのドレスを着ていた。

名前はサリーといった。

その日から「友だち」であるサリーと私は会話をするようになった。

サリーは、両親がノースダコタに引っ越してしまい、自分はここに残されたと言っていた。

私は両親に、サリーのことを「友だち」だと話すと、親は「それは想像上の友だちだ」と、その関係を否定した。

しかし、その後も私はサリーと遊んで過ごした。

ある日のこと、私は自分の部屋に入った。そうすると、そこでサリーが床に横たわり、炎で包まれていたのだった。

私は泣き始め、両親のもとに走り、

「クローゼットが燃えている。サリーが死んじゃう」

と叫んだ。

両親は私の部屋に駆けつけたが、そこには火もないし、サリーもいなかった。

しかし、私は、その炎の熱を実際に感じていた。

私の母は、土地の地主と親友で、住んでいる家の前の所有者のことを聞きにいった。

すると、以前住んでいた家族には、小さな娘さんがおり、その子がクローゼットから発火した火事で亡くなったことを知った。

それはサリーという名の4歳の女の子だった。

それを聞いて、両親はその家を出ることを決心した。

すぐ荷造りを始め、別の家へと引っ越すことにしたのだ。

新しい家はとても大きな家だった。

そこに到着した時に、サリーはすでに寝室に向かう階段に座っていた。

私は両親に叫んだ。

「サリーが一緒に来たよ。サリーは生きていた!」

母親は、これまでのことで相当ストレスを受けていたが、ここにいたり諦め、サリーを受け入れることにした。

それから数週間後にサリーはいなくなり、その後は1度もあらわれなかった。

しかし、サリーは1年間以上、私の友人だった。

 

この最後のサリーの話でいいなと思ったのは、

「母親は、ここにいたり諦め、サリーを受け入れることにした」

というようになった後、

「それから数週間後にサリーはいなくなった」

というところです。

大人が自分の存在を認めてくれたところで、サリーはいなくなったというように見えるのです。

 

いずれにしましても、これらの事例のすべてにおいて、「子どもが、相手にいっさいの恐怖心を抱いていない」という部分に関して、「失踪と生還」の時と「同じだなあ」と感じたのです。

このような話の中には、作り話もたくさんあると思いますけれど、ここに挙げたものに関しては、

「子どもが恐怖を感じていない」

という部分で共通していたために、それなりに真実だと判断した次第です。

 

ちなみに、私は自分の記憶は3歳から始まっていますが、そのころには、いろいろな不思議な体験をしました。

北海道の岩見沢市というところにある田舎道をひとりで歩いていて、ふと気づいたら、周囲の風景が、緑と湖に囲まれたものとなっていて、そこにヨーロッパ風の白いお城がある

突然、そんなところに私はいたのでした。

私は「おかしい」と思って、すぐ引き返して走りました。しばらくして、風景は元の寂れた岩見沢市の風景に戻っていました。

このことは、高校生になったころにも、まだ気になっていて、その場所を何度か自転車で走り回り「湖や森やお城」を探しましたけれど、そんなものはありません。

他にもいろいろなことがありましたけれど、3歳っていうのは、いろいろと起きやすいのかなと今は解釈しています。

ともかく、「架空の友だち」と言われる「謎の存在」に関して、それがどういう存在なのかということについては、よくわからないですし、それが問題ということでもないです。

それが何かは、まあどうでもいい・・・というのはひどい言い方ですが、今回は、オカルト的な存在のほうが主体の話ではなく、「そのようなものの受動体としての子ども」のほうの話です。

謎の存在は、先ほどの事例の状況だけ見れば、「過去に死亡していた子ども」などもあり、一般的に言われる幽霊的なものと似ているのかもしれないですが、しかし、私は、「そもそも幽霊とは何なのかを知らない」ですし、むしろ、あまりこの世で言われていることとしての「幽霊」という存在は信じないほうです。

事例に出てくる「存在」の実体は、少なくとも物質的ではないとはいえ、先ほどの事例のすべてにおいて、たとえば、サリーちゃんの件では、彼女と友だちになった女の子は、大人には見えないし、炎も見えないけれど、

> しかし、私は、その炎の熱を実際に感じていた。

とあり、「見えている」し、「実体として感じている」ことは間違いないことで、これは、

「それを受信している子どものほうの何か」

であるのだと思われます。

能力というのか何というのかわかりませんが、そういうものを受け取ることができる。

そして、もしかすると、基本的には「すべての子どもがこの能力を持っている」のではないかなとも思うのです。

そういえば、ずいぶん昔のIn Deepの記事で、当時5歳だったうちの子どもが、紙に何かよくわからない図を書いていまして、記事には、その時の会話が記されています。

2011年03月04日のブログ記事より

ノートのほとんどすべてのページに大きな三重丸が描かれていて、そのうちの何ページかには、その三重の丸を囲むようにびっしりと文字みたいなのが書き込まれている。

1ページにそれこそ何百文字も書かれている。

私 「うーん、すごいねえ。これは字?」
子 「字だよ」
私 「なんの字?」
子 「神様語(かみしゃまご)だよ」
私 「神様語・・・。おとうさんには読めない」
子 「おとーさんに神様語よめるわけないよ」

 

というように、「これは大人には読めない」と、私は読解から排除されてしまったのでした。

大人はいろいろと見えないし、読めないようです。

話が逸れましたが、とにもかくにも、

「子どもは私たちの見えない世界を見ている」

あるいは、

「それを受信することができる」

ということは、どうやら事実だというような気がするのです。

そして、「恐怖を感じない人には、優しく楽しいものとして感じる」。

ところが、恐怖を感じる人には、その通りに恐怖となる。

ここから先、書くことは当てずっぽうの推定ですが、何歳かまではわからないですけれど、小さな子どもたちは、

「平行宇宙的な他の次元と公差できる潜在的な能力を持つ」

のだと私は確信しています。

こういうことを、あまり確定的に書きますと、「平成最後の吉祥寺のガイくん」というように言われるのもイヤですので、ふだんは書かないですが、子どもの「能力」というのとはそういうものなのではないかと。

このようなことから考えると、もし、仮にですけど、「将来的に、地球が何かムチャクチャな状態になったとき」にも、

《小さな子どもたちだけには「天使」が現れるのではないか》

と。
つまり、救われる可能性があるのではないかと。

そして「何らかの存在」に救われた子どもたちは、失踪した子どもたちが生還したときのように、

「しかるべき場所」

に行くことができるのではないかと。もちろん、それは、せいぜい6歳くらいまで子どもの話だとは思います。

イエス・キリストが言うように、子どもという存在自体が、地球の救世主になることができるものなのかもしれません。

 

ものすごい遠回しとなりましたが、ここから、

「私たち大人が子どもを尊敬することができる理由」

というものを少しでもご理解いただければなあと思った次第です。

基本的には、子どもたちは地球の救世主的存在で、パラレルユニヴァースと交信できる能力を持っていると思われます。

そういえば、16世紀の英国の予言者である、マザー・シプトンという女性がいまして、この人は多くの四行詩を残しています。

その中に「地球の人類が刷新されること」について書かれた四行詩があり、以前のブログ記事に乗せたことがあります。

今回は、その部分をご紹介して、締めさせていただきたいと思います。

マザー・シプトンの四行詩より

地球の人類が刷新される前に銀色のヘビがそれを見に訪れます。

そして、そのヘビは未知の人類を吐き出します。

成長する地球と共存させるために。

その未来の新しい人類に教えてあげてください。地球の冷やし方を。

未来の人類の彼らにはそれができるのです。

生きるために、
愛するために、
与えるために、
その方法を彼らに教えてあげてください。

千里眼をもつ子どもたち。彼らは自然とそのように育つことでしょう。

未来の子どもたちは上品に、控えめに振る舞います。

地球の新たな黄金時代の始まりです。

 

小さな子どもたちは、私たちにはない能力を持ち、私たちとは違う宇宙に同時に生きている上に、子どもの存在そのものが、地球の救世主であるということから、私たち大人は、子どもをもっと尊敬しなければならないということを書かせていただきました。

もう、選挙の投票権なんかも、「 2歳から 7歳まで」とかにしたほうが、この世は良くなるかもしれないですね。





  • この記事を書いた人

Oka In Deep

世界で起き続ける様々なことをお伝えさせていただいています。

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