In Deep

地球最期のニュースと資料

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ふと気づくと「虫がいない世界」に生きている(その原因はネオニコチノイドではなく私たちの生き方そのものだとしみじみ思うこの夏)

   

英国ガーディアンの記事より
Guardian

先日、とても短い期間ですが、帰省しました。

私の実家は北海道にあります。

実家のある場所そのものは大自然云々というような場所ではないですが、少し移動すれば、文字通り、どこまでも広がる緑の風景に覆われます。

今年もそういう場所に行ったのですが、最近思っていたことが極限になって突きつけられている感じがしました。

それは「虫がまったくいない」のです。

限りなく広がる大自然の風景から、虫の姿と虫の声が完全に抜け落ちている。

そこが現実ではないような感覚に見舞われながら、そこだけではなく、どこへ行っても、「まったく」虫の気配がしないのでした。

世界的に昆虫を含めた生物群が減少していることについては、今さら取りあげるものでもないでしょうが、ふと、「他の国では《感覚的には》どのようなものなのだろう」と思いました。数値ではなく、「人々の感覚」ではどうなのだろうと。

その中で、冒頭の英国ガーディアンの記事を見つけました。ニュースではなく、ガーディアンの記者のコラムです。

2016年の夏のものですが、この記者と同じような感覚を私も感じましたので、先にご紹介したいと思います。

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Where have all the insects gone?
Guardian 2017/09/21

昆虫たちはどこへ消えた?

かつて車で旅をしていると、フロントガラスが次第に虫の死がいでいっぱいとなり、それを除去しなければならなかった。しかし、そんな時代はもう終わりを告げたようだ。今では、車を運転していても、そんなことを経験することはない。

今年(2016年)の夏、私は、ふとある種の胸騒ぎを得た。

それは、気づくと、自分の環境の周囲にまるで昆虫がいないことに気づいたことによるものだったかもしれない。

ミツバチはまったく見ない。蝶は、たまに奇妙なモンシロチョウを見る以外はまるで見ない。虫といえば、せいぜいスズメバチをたまに見かける程度だ。

何だかとても奇妙だ。

昨年の 12月は異様に暖かく、冬にも関わらず外では人々が半袖の服を着ていたほどだった。その後寒波がやってきて、また暖かい春が来た。この天候の不安定さが、英国全体の昆虫の生息数に深刻な影響を与えた可能性もある。

しかし、この昆虫の減少は英国のいくつかの地域に限定されたものではない上に、この夏だけの話でもないようだ。

2016年9月に公開された「イギリス自然状態報告書」(The State of Nature report)には、50 以上の環境調査団体の調査結果がまとめられている。

その報告では、 1970年以降、昆虫の数が 59%の減少を示しているという昆虫たちの苦闘を明らかにした。

私の知人に 80歳の男性がいる。

最近、その知人と話していた時、 1960年代には、地方へ 7〜 8km 車で出かけるだけでフロントガラスは虫だらけになったと言っていた。

そんなに遡らなくても、10年ほど前でさえも、イギリスで車による長い旅行に出かける時には、ガソリンスタンドによるたびに、フロントガラスについた虫を落としてもらう必要があった。

今では、どれだけ車に乗っていても、フロントガラスに虫の死がいがつくというようなことを経験したことがない。

たった 10年で、車の旅をめぐる環境は奇妙なほど変わった。

友人に農業を営んでいる人がいる。今年は、春が遅かった上に、花粉が少ない状況が続き、彼の作物(主に豆)が不作に陥っていた。

しかし、彼と話していた時に、今のような状況(天候の異変)に加えて、昆虫の数が今以上に極端に減る事態となり、作物が受粉されなくなったらどうなるのだろうという話になった。

もしかすると、その時が近づいているのだろうか。

そして、さらに思うのは、私たちが昆虫の減少という事態を真剣に受け止める原因になるのは、それが農家の作物に対しての影響があるという理由だけによるものだろうか、ということだ。昆虫の減少が示す懸念は、農業の衰退への心配だけではあるまい。

事実、先ほどの自然状態報告書によれば、イギリスは世界で最も自然が枯渇した国のひとつであり、イギリスの大部分の地域は、「生態系が社会のニーズを確実に満たすことができる限界」をもはや超えているのだという。

確かに現在、イギリスの地には悲しいほど昆虫が少ない。しかし、きっと、来年の春には昆虫たちがこの土地に戻ってきてくれるという希望を持ちたい。


 

ここまでです。

これを読みますと、イギリスの状態も深刻なようで、そして、おそらく今年もイギリスには昆虫は戻っていない以上に、「昨年以上にフロントガラスが汚れない快適な車の旅ができている」ことだと思われます(ただし、ハエの大発生とか、そういうのはイギリスで散見されますので、ハエや蚊やアブなどは戻ってきたのかもしれません)

ちなみに、今年の北海道で得た感覚は、

「虫が減った」

ではなく、

「虫の気配をまったく感じない」

というものでしたので、昨年一昨年より「やや進んだ」という感じもあります。

これに関しては、過去記事を見てみますと、2015年の夏にも帰省した時のことに少しふれていまして、それは「生き物に囲まれなかった2日半の夏休み (2015/07/20)」という記事なのですが、そこに私は以下のように記しています。

子どもにいろいろ虫を見せたり取らせたりしたかったのですが、探してみましても、まったくといっていいほどいません。

むかしはウジャウジャといたトノサマバッタは、まったく見ることがなし。

あれほどうるさかったキリギリスの声もほとんどなし。

むかしは絶滅させたいほどうるさかったアブラゼミの声も、まったく聞こえず。

木を見ても、草をかきわけても、水を探しても、形而上的なほど何もいない。

子どもに虫を見せるのは無理そうです。

昔は夜になると、住宅街の周辺でも外灯のあかりの周囲を何十何百という虫がくるったように飛び回っていましたが、今は夜の外灯の周囲にも虫はゼロです。

と書いていました。

これから約2年ですが、少し変わったのは、上に、

> キリギリスの声もほとんどなし。

とありますが、今年は「完全になし」に変化していたことでしょうか。

ただ、ハエがわりと飛び回っていまして、それは銀バエでしたが、それを少し見ましたので、

「今年、北海道で見た虫は、銀バエだけ」

ということになりそうです。

 

しかし、感覚や感情的な部分を別にして、先ほどの記事ありましたように、たとえば今のイギリスでは、

> 大部分の地域は、「生態系が社会のニーズを確実に満たすことができる限界」をもはや超えている

ということになっているようですが、こういうのはどうなんですかね。

基本的に、他の生き物もそうでしょうが、特に虫は(人類文明が自然と農業で成り立つものなら)人間の生活の根幹の部分を支えているものですが、その絶対数が、人間社会を成り立たせるために必要なラインを超えて減少してしまっている・・・という状態となっている。

これは、文字通り「人間社会を成立し続けるには不足がある」という状態にあるということになるかと思われます。

簡単にいえば、今の状況は「もはや人類は社会を存続させられない状態にある」ということになると思いますが、それでも、イギリスでも日本でも文明も社会も存続していますので、なかなか強いものなのかもしれません。

とはいえ、「虫がいない状態でいつまでも人類社会を存続できる」と考えるのもまた無理がありそうで、どのくらい時間がかかるのかはわからないですが、昆虫の消滅に続いて、人間の文明と社会も縮小していくのだと思われます。

 

 

なぜ虫はここまで極端に減ったのか

まあ、人類文明の縮小は既定路線ですので、それはそれとして、「なぜ虫はここまで極端に減ったのか」ということに関しては、いくらでも理由が挙げられるような気がすると共に、

「実は明確にその理由を説明できたことはない」

という事実もあります。

あくまで一般的な説明の代表としては  2016年に米国のイェール大学が発表した環境に関しての文書があり、そこには、以下のようにあります。

・世界の昆虫の数は過去 40年間で 45%減少
・レッドリストの 3,623種の昆虫のうち 42%が絶滅の危機に瀕している

ここでは、わかりやすく「昆虫」と表記していますが、実際の論文には「陸生の無脊椎動物」とあり、つまり「陸に住む虫や虫みたいなやつ全般」のことです。

そして、要因としては(科学者たちの推測として)、

・農薬の普遍的な使用
・トウモロコシや大豆などの単一栽培作物の広がり
・都市化の広がり
・生息地の破壊

などが書かれてあります。

最近では、「ハチの減少」と絡んで、ネオニコチノイド系というカテゴリーに属する農薬が取りあげられることも多いです。

ネオニコチノイド系農薬が昆虫類の減少と関係がないとは言えないのかもしれないですけれど、ただ、虫類の減少のグラフを見てみますと、「ネオニコチノイド系が出た頃には、すでに世界の昆虫の減少は加速の真っ只中だった」ことも見てとれます。

1970年代からの昆虫の数の推移

イェール大学

このグラフは 1970年からのものですが、この 1970年というのは、1962年に出版されたレイチェル・カーソンという人の『沈黙の春』という、DDTを始めとする農薬などの化学物質の危険性を訴えた本が出された後に、各国で農薬対策が本格化した頃です。

日本でも 1971年には「農薬取締法」の大きな改正があり、それにより使用禁止農薬の拡大がなされたのですが、

「それでも虫は減り続けていた」

ということが、このグラフではわかります。

レイチェル・カーソンさんの主張が間違っているとか正しいということではなく、「対策そのものに効果は見られない」ということは言えるかと思います。

いろいろなグラフを見ていますと、世界の生き物たちの劇的な減少に関しては、何だかこう「そういう問題ではないのかもしれない」という気もしないでもないですけれど、いずれにしても、虫がいなくなった「根本的な問題」はよくわからないという部分はありそうです。

先ほどのガーディアンの記事では、「この 10年で虫が急激に減った」ことを示唆する場所がありますが、日本でも、鳥やスズメの声などを聞く頻度なども含めてみても、何となく「この 10年は確かに…」という同じような感覚は持ちます。

いろいろな生き物が過去数十年で徐々に減っていたけれど、「ここにきて、急激に加速している」と。

 

ちなみに、今回のタイトルにカッコとして、

(その原因はネオニコチノイドではなく私たちの生き方そのものだとしみじみ思うこの夏)

と入れたのですが、これについては、具体的に書いて何かを責めたいというわけではないですし、むしろ私自身を振り返り、そう思っただけですので、あまりいろいろと書く気はないです。

ただ、私たちのこの数十年の文明と「生き方」を思い返してみますと……。

虫のついた野菜や果物を人々が嫌がるようになり、それらに商品価値がなくなった経緯はどうしてなのか・・・。

形が崩れたり傷のついた野菜や果物に商品価値を見いだせなくなった社会になったのはなぜなのか・・・。

ダニや微生物を害悪なものとして、部屋から閉め出し、無菌室を築き続けたのは誰だったのか・・・。

[参考記事]数百万の「無菌室」が導く崩壊 : 「微生物との共生を拒否した日本人」たちが創り出す未来の社会は (2016/12/13)

 

 

つまり、「虫は基本的に害悪」というような観念の社会になっていったのはどうしてなのか、ということはあるかと思います。

私の子どもなどもそうですが、今の子どものかなり多くが虫と接していないために、虫を私たちの世代以上に嫌います。ということは、虫をひたすら嫌う人たちばかりの今後の日本の社会がどのようになっていくのかも容易に想像できるかと思います。

無菌室国家の完成ということになるのでしょうけれど、無菌室では人間は長く生き続けることはできないのです。

結局、日本が「虫のいない国」となったことの根底には「人々がそれを望んだ」ということがありそうです。

私もそうです。子どもの頃には栗や果物の中に虫が入っているのは当たり前でしたが、今ではそんなのイヤですのものね。昔は、どの家でも「はえ取り紙」に囲まれて生活していましたけれど、そんなの今はイヤですし。

私にしても「虫のいない生活」を望んでいて、どうやら最近はそれが「実現しつつある社会になってきた」というだけことですので、偉いことなど言えません。私自身も十分にこの世を滅ぼしている一人だと実感できます。

 

こういうような私のような価値観で環境を変化させていけば、虫が生き残れる道理もないし、その虫たちを食べて生きている鳥やトカゲも生きていける道理もないし、すべては「消えていくしかない」と。そういうことなのだなと思います。

もちろん、その次はいつかは私たち人類の番になり、それは不可避のはずですけれど、それまではまだ多少は時間があるでしょうし、今の快適な期間をめいっぱい過ごせば、それでいいという考えもあるのかもしれません。

ちなみに、今回は虫の話でしたが、最近の、

完全絶滅プロトコル : 魚たちが次々と「男性から女性へと変化」しているその原因が判明。そこから気づいた「人間から水循環システムの中へ排出されている薬たちによる皆殺し」
 2017/07/08

という記事では、「水の現状」にふれています。

これらを含めて考えてみますと、どうやら、現状の近代文明というものは、生まれた時から滅亡に向かって肥大するための運命を持っていたと思わざるを得ません。